名古屋城本丸御殿。湯殿書院・見学用入口。右奥に黒木書院、右手前に上洛殿、上方に天守閣・小天守。
2018年10月17日(水)。
湯殿書院・黒木書院も上洛殿と同じく、寛永11(1634)年の3代将軍徳川家光上洛時に増築された部分である。
湯殿書院は御成風呂を備えた将軍休息の場で、外観は単層屋根入母屋造杮葺、梁間4間、桁行10間の規模で、江戸城の御成風呂よりも大きかった。
東側から南側にかけて入側があり、座敷は南西隅に上段之間(6畳)、その東に一之間(10畳)、二之間(10畳)、釜屋付き風呂屋(4間×3間の板敷)が南北に並び、3座敷1室で構成されていた。
湯殿にもっとも近いのが二之間で、この部屋を上り場(あがりば)とよぶことがあった。上段之間では酒食もできたと考えられている。
湯殿書院・黒木書院の見学は無料であるが、ガイドによる20人ほどの集団見学となり、受付で整理券を受け取り、見学開始時刻を指定された。
たまたま、中国語案内時間に中国人が来なかったため、ほとんど待たずに日本語ができる中国人ガイドに引率されて日本人20人ほどで見学できることになり、予定より早く見学できりことになった。
湯殿書院・見学用入口。一之間。南外階段上。
一之間北面の襖絵は扇面流図(せんめんながしず)で、川面に扇が流れる大和絵的な画題である。
筆者は狩野永徳の弟・狩野長信の門人であった狩野杢之助と考えられている。
将軍は、上洛殿北西角から雁之廊下を西に進み、湯殿書院に入った。
湯殿書院・一之間と入側(廊下)。
「扇面流図」の一部が見える。
湯殿書院・一之間。西側。奥に上段之間がある。
西の襖絵も「扇面流図」である。
湯殿書院・一之間。北面襖絵の「扇面流図」。
湯殿書院・二之間。南面襖絵の「岩波禽鳥図(いわなみきんちょうず)」。
海の荒波に岩を組み合わせる漢画的な画題である。
一之間が静的で繊細優美な筆法であるのに対し、二之間は動的で粘り強い筆法で描かれている。
湯殿書院。説明板。
湯殿書院。風呂座敷の北面に唐破風付の風呂屋形(蒸し風呂)が設けられている。
風呂屋形(蒸し風呂)の説明図。
風呂といっても現在のように湯船はなく、外にある釜で湯を沸かし湯気を内部に引き込むサウナ式蒸風呂であった。
風呂屋形。
風呂屋形の内部を覗く。
風呂屋形の内部。
風呂屋形の内部。
風呂屋形の内部。
廊下にある扉の引手。飾り金具。
寛永期にみられる代表的な引手で、縁座主文様区を細かな七宝繋地に三ツ葉葵紋、笄部を唐草文と魚々子地として、鍍金後に細密な墨差しを施している。
手掛かりは、七宝繋に中央三ツ葉葵紋とし、これらを青の象嵌七宝としている。
二条城二之丸御殿の引手と共通する細密かつ豪華な作風である。
黒木書院。一之間。北西面。
昭和戦前期の記録写真では床之間横には違棚があった。また、隣接した北面西端は腰障子であったが、今回の復元にあたり寛永時の襖形式に復元されたようである。
黒木書院は、上洛殿北の朝顔の廊下を渡った位置にあり、梁間3間×桁行5間の小書院である。
本丸御殿のほかの部屋が、総ヒノキ造りであったのに対し、この部屋には良質な松材が用いられており、その用材の色から黒木書院とよばれた。
内部は西から東へ、床と違棚を備えた一之間(8畳)と二之間(8畳)からなり、東・南側に入側がある。
天井はすべて竿縁天井で、竿縁の向きが床に直交する「床差し」で、慶長期以前の古式を示している。
古くから清州越しの御殿といわれ、清須城内にあった徳川家康の宿殿を再築したものとされる。
内部の障壁画は画風が古式で、清須城時代の障壁画という伝承がある。また、一之間と二之間の襖絵の配置にはかなりの錯簡や欠落があるとされている。
黒木書院。説明板。
黒木書院。一之間と二之間。
黒木書院。一之間と二之間。
左の一之間は「山水図」(瀟湘八景図)、右の二之間には「四季耕作図」が描かれている。
黒木書院。二之間から一之間の床方向。
竿縁の向きが床に直交する「床差し天井」であることが分かる。
現在の和風建築では不吉として、禁忌(タブー)とされている。
黒木書院。東入側襖絵「「梅花雉子小禽図(ばいかきじしょうきんず)」の一部。
黒木書院。東入側襖絵「「梅花雉子小禽図(ばいかきじしょうきんず)」の一部。
以上で本丸御殿の見学を終え、特別公開されていた名古屋城西南隅櫓の見学に向かった。