本日の行程はオアハカからの夜行バスでベラクルスへ着いたのち、州都ハラパの人類学博物館を見学して、翌日の世界遺産エルタヒン見学のためパパントラの宿カサ・ブランチで泊まるという行程だった。夏頃の行程決定ホテル予約時点では、シーフードは美味そうだが、史跡に乏しいベラクルスは見学するつもりはなく、バスターミナルで乗り換えるだけでもいいと考えていたが、旅行前に増田義郎「古代アステカ王国」を読むと、アステカ侵略の拠点だったことが分かり、短時間でもいいので、港ぐらい見学しようかと気が変わっていた。
そこで6時半頃ベラクルスのバスターミナルへ到着後、ハラパ行き10時発の乗車券を購入し、それまで市内見学をすることにした。歩き方を参考に、ターミナルを通るセントロ行き市バスに乗車。ところが、町の中心へ近づいたときに反対方向へ走り出したので、運転手にセントロへ行かないのかと尋ねたら、ここで降りろと言われた。降りたのは公園だったが、そこがどこかはさっぱり分からない。周囲を歩き回って数人に尋ねて分かったのはここがサモラ公園だったことだ。アルマス広場まで500mほどで、歩いても知れた距離だった。
平日の8時前だったが、アルマス広場には制服を着た人々が集結して、何かありそうだったので、しばらく見守ることにした。
ベラクルスはメキシコシティのメキシコ湾側の外港としての役割を持つ、メキシコの主要な港湾都市の一つである。ベラクルス州の最大の都市であるが州都ではない。ベラクルス州の州都はハラパ
1519年コルテスの指揮するスペイン人征服者の船団が、ユカタン半島東岸コスメル島、タバスコを経て、ベラクルス付近のウルア島に上陸した。コルテスはメキシコ征服の拠点を確保するために、現在のベラクルスに相当する場所にメキシコ最初のスペイン植民都市を建設した。コルテスはこの拠点にラ・ビリャ・リカ・デ・ラ・ベラ・クルス(真実の十字架の富める町)と名付けた。ベラクルスは、アメリカ大陸で最初に議会の設立された都市となった。
コルテスはアステカ王国へ侵攻を開始し、北のセンポアラを征服後、西の高原へ進みハラパ、トラスカラ、チョルーラを経て、アステカ王国の首都テノチティトランへ向かった。
ヌエバ・エスパーニャ建設後、ベラクルスは大西洋岸側の貿易港として栄えた。アメリカで産出された銀や、マニラ・ガレオンの交易によって太平洋岸のアカプルコに運ばれたアジア産の製品を大西洋岸からスペインへ運び出す役割を担った。
メキシコ独立後、ベラクルスは1847年米墨戦争で、スコット将軍率いるアメリカ軍の包囲攻撃を受けて占領された。フランスからは1838年と1861年に侵攻を受け、占領された。
1914年のアメリカ軍のベラクルス占領に関連する記念碑だった。
1914年、アメリカの石油資本利権にからんだタンピコ事件が起きた。アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領はアメリカ海軍をベラクルスに派遣し、メキシコのウエルタ政権による海外貿易を封鎖して懲罰すること企図した。
4月21日フレッチャー海軍少将が指揮するアメリカ海軍がベラクルスに上陸侵攻し、4月24日までに占領は完了した。その後ファンストン将軍率いるアメリカ陸軍によって11月23日の撤退まで7か月間占領された。占領軍には情報将校としてダグラス・マッカーサーも参加していた。メキシコ政府は占領に対抗して、メキシコ国内からアメリカ人を追放し、第一次世界大戦において欧米側に非協力的な立場を取った。
海軍中尉ホセ・アスエタ(1895~1914)。マヌエル・アスエタ提督の息子。1914年4月21日のアメリカ軍侵攻初日に負傷し、5月10日に死亡した。海軍の英雄として知られている。
マヌエル・アスエタ提督(1862~1928)。アメリカ海軍のベラクルス侵攻時にベラクルス海軍兵学校の生徒を指揮した。
海軍歴史博物館のすぐ北側の旧魚市場にある簡易食堂街。7時から営業しているシーフードレストラン。8時50分になり、10時のバス時刻と食事時間を考えると、時間に余裕がない。
早朝のせいか、30店近い店のうち、4店ほどしか営業していない。客もまばら。
食事を済ませたら9時30分を過ぎていたので、タクシー40ペソでバスターミナルへ急ぎ、10時発のハラパ行きに乗車した。