Quantcast
Channel: いちご畑よ永遠に
Viewing all 1170 articles
Browse latest View live

台湾 台南市 日本統治時代の遺構 旧台南測候所 鶯料理店

$
0
0
イメージ 1
旧鶯料理店。
2016125()。台南市。
大天后宮から南東の旧台南測候所・気象博物館方面へ向かって歩き、北極殿を超えると、日本人の老男性二人がカメラ片手に散策して姿があった。その先に旧台南測候所と手前に、日本家屋が見えてきた。

これは、鶯料理店という高級料亭の一部で、大正15年に天野久吉が開業し、日本統治時代は上流社会の社交場として繁栄していたという。
天野久吉は北白川宮能久親王が近衛師団長として台湾へ赴いたときに同行した板前で、鶯料理店は昭和天皇が皇太子のときに行啓したさいの食事処になった。
 
イメージ 2
旧鶯料理店。
土地建物は1951年に国有になり、2008年に台風により敷地内の主な建物は倒壊したが、残った3分の1部分の建物を20137月に台南市が修復公開した。
10時から21時まで無料開放されているが、月曜日は休園らしく、門は閉じていた。
歩くとすぐに、旧台南測候所の裏手にある入口に着いた。
 
イメージ 3
旧台南測候所・気象博物館。
旧台南測候所は1898(明治31)年に落成した現存する台湾最古の気象観測施設で、中央の塔はその形状から「ペッパーミル(胡椒管)」の愛称で親しまれていたという。また、「鷲嶺台地」と呼ばれた当時の台南で最も高い場所に建造されたこの建物は、高層ビルがなかった頃の重要なランドマークでもあった。
 
日本統治時代においては台湾各地に測候所が設置されたが、台南測候所は唯一残った歴史的な測候所である。内部は、気象博物館として、草創期の気象観測史料のほか、ウィーヘルト式地震計も展示されている。
 
台湾人ガイドが常駐しており、案内してくれたが、中国語しか話せないのが残念。
 
イメージ 4
旧台南測候所・気象博物館。南側から。
1895年から始まった日本による台湾統治にあたり、台湾総督府はインフラ整備を展開した。その中で、台湾の経済と生活を掌握するためには、気象観測が極めて重要なポイントになると考えた。翌1896年、台湾総督府の通信課長であった土居通豫は中央気象台の協力の下、台湾に気象観測の設備を構築することを計画した。同年3月、台湾総督府民政局に測候所に関する部署が誕生した。同年712日、台北測候所、台中測候所、台南測候所、恒春測候所および離島の澎湖測候所の5つの測候所の所在地と名称が決定された。台湾測候所の予定地は、台南市中心部で最も標高が高い鷲嶺と呼ばれる地域と決まった。
 
1998年、気象観測業務を完全に終了し、同時に台南市政府から市定古跡に指定された。19世紀末の希少な大型建築物であり、同時期に建設された測候所は日本国内のものも含めてほとんど取り壊されている事などから、建物の大規模改修を経て2003年に内政部から国定古跡に指定された。
 
左の七階建ての建物は中央気象局台湾南区気象センターという新庁舎で、1階は現代の気象観測に関する博物館となっている。
 
イメージ 5
赤レンガの外壁。旧台南測候所。
建物はレンガ造りを基本とし、建造時には屋根に黒瓦が用いられていた。建造時に漆喰塗りだった外壁は赤レンガに変わっている。
 
イメージ 6
修復工事の状況、旧台南測候所。
1978年には新庁舎の完成で取り壊し案も出たが、歴史的価値があるとする職員から反対され中止となった。1998年に測候所としての役目を終えたが、同年に台南市が市定古跡に指定。2003年には国定古跡に昇格し、修復を経て2004年からは気象博物館として活用されている。
 
イメージ 7
構造模型。旧台南測候所。
主体は正十八角形の円形の建物と広い煙突塔楼の二部構成となっており、中央には白い円柱があり、環状の屋根は18 等分に分割している。屋根には扇形の黒い文化瓦を舗設して、18 面の環状外壁にも延伸している。
 
イメージ 8
旧状図。旧台南測候所。
屋根には扇形の黒い文化瓦を舗設して、18 面の環状外壁にも延伸している。
 
イメージ 9
旧状図。旧台南測候所。
下部の層は直径約15m、面積は約180㎡となっている。中央部からは直径約3m、高さ約6.5mの白色の塔(風力計)が突き出ており、塔の最上部まで含めた高さは約11.6mとなっている。
下部の層の屋根には塔から18本の隅棟が伸びている。
 
イメージ 10
室内配置図。旧台南測候所。
東西方向と中央の塔の外側に廊下が設けられ、塔を取り囲むように所長室、予報室、観測作業室、当番室、地震室、通信室など6つの執務室が設置されていた。
 
イメージ 11
内部。旧台南測候所。
精工舎の柱時計。台湾全土の気象観測所配置図。
 
イメージ 12
精工舎の柱時計。旧台南測候所。
 
イメージ 13
展示資料。旧台南測候所。
沿革史や当時の備品など。
 
イメージ 14
観測用の塔に昇る螺旋階段。旧台南測候所。
 
イメージ 15
中央塔と入口。旧台南測候所。
 
イメージ 16
地震計。
2倍強震計。旧台南測候所。
1933年から1988年まで観測した。
 
イメージ 17
地震計。旧台南測候所。
 
旧台南測候所を10分余り見学して、隣の気象センター1階の気象観測に関する博物館を見てから、ロータリー(湯徳章記念公園)方向へ向かった。

台湾 台南市 度小月坦仔麺 再発号 富盛号 金得春捲 湯徳章記念公園 旧台南州庁舎 嘉南農田水利会 旧台南警察署 

$
0
0
イメージ 1
太平境教会。
2016125()。台南市。
1879年に英国長老教会がこの地で日曜学校を開始したのち、現在の教会堂が1902年に落成した。1865年に最初に来台した宣教師のマクスウェル医師を記念し、マクスウェル記念教会と命名された。
 
旧台南測候所を見学し、ロータリー(湯徳章記念公園)方向へ向かうと、この教会が視界に入った。
 
イメージ 2
湯徳章記念公園。湯徳章銅像と奥に国立台湾文学館。
湯徳章(坂井章、19071947年)は、台湾の弁護士。日本人の父と台湾人の母の間に生まれる。
小学校卒業でありながら貧困の中、文官高等試験司法科・行政科に合格し、台南に戻って弁護士事務所を開設した。
1947年の二二八事件のさい、台南学生・市民を庇ったため、国民党政権により、日本統治時代には「大正公園」と呼ばれていた「民生緑園」で、銃殺された。
目隠しを拒否し、「目隠しも必要ない」「私には大和魂の血が流れている」と台湾語で叫び、最後に日本語で「台湾人バンザイ」と叫んだ。
民生緑園は、1998年に「湯徳章紀念公園」と改められ、湯章の胸像が設置された。
 
イメージ 3
国立台湾文学館。旧台南州庁舎。
元台南州庁は大正51916 )年、日本統治時期の台南州庁として落成した。建築家森山松之助の手がけた西洋歴史建築様式で、台湾総督府及び監察院と共に台湾における有名な建築の一つである。
 
イメージ 4
国立台湾文学館。旧台南州庁舎。
イギリスヴィクトリア朝の赤レンガや、ヨーロッパ風の石材建築をまねた建築で、正面のマンサード屋根や妻壁、両側の衛塔、ポルチコなど古典的な建築形式は当時の典型的な官衙建築を表している。
第二次世界大戦後、空軍司令部、台南市政府の所有となったが、1997年に市政府が転出後、修復され、2003 年に台湾初の国家級文学博物館として開館した。
月曜日休館とは分かっていた。
 
イメージ 5
嘉南農田水利会。旧嘉南大圳組合事務所。
1940年に嘉南農田水利組合により建設された。戦時中のため物資が以前のように豊かでなかったため、建築は装飾がないシンプルなL字型建築となっている。
烏山頭ダムや嘉南大圳等多くの土木工事開発計画に携わった八田與一(1886-1942)に関連する建物である。
 
イメージ 6
旧台南市警察署。旧台南警察署。
台南州庁の東側に、昭和6 年(1931 年)に落成した。
アール・デコの建築様式で建てられた。
台南市立美術館の建設予定地となっているようで、工事中であった。
 
イメージ 7
旧台南市警察署。元台南警察署。
せっかくなので、玄関部を覗いてみた。
 
北西方向にある度小月坦仔麺が11時開店なので、国立台湾文学館から北西へ向かうと、工事中の旧台南合同庁舎がある。
 
イメージ 8
旧台南合同庁舎。台南消防局中正分隊事務所。 
日本統治時代の台南合同庁舎で、中央にある塔は「御大典記念塔」といい、昭和天皇の即位を記念して昭和5 年(1930 年)建てられた。塔は当時の台南で最も高い建築物で、その後消防の監視台として使われるようになった。
昭和12 年(1937 年)に増築され、警察会館と錦町督察官吏派出所との合同庁舎となった。
 
イメージ 9
度小月坦仔麺(台南中正路本店)。
古都台南は美食の宝庫として知られる。11時からは、食べ歩きモードに切り替えた。歩き方の台南小吃(伝統的な軽食)案内を参考に歩いてみた。
旧台南合同庁舎前の道を西に数分歩くと、度小月の店員に呼び止められたが、通り過ぎてしまったが、振り返って度小月と気づいた。
 
台湾料理で最も有名な小吃といえば、担仔麵だが、台南で「度小月」店が創始したので、屋台から発展したこの店が発祥である。
台湾の漁師にとって、この夏場は非常に生活しにくい時期だったので、この時期に副業として麺やその他の店を出す人がたくさんいた。
この「度小月」の創業者の洪芋頭もかつては漁師で、この苦しい夏場(小月)を乗り越える(渡る=度)ために、この「担仔麵」を売り始めた。「担仔」とは担ぐという意味で、当時はお碗や食材のほかに椅子や机まで全てを天秤棒に担いで屋台を開いていたという。
 
イメージ 10
店内の様子。度小月坦仔麺(台南中正路本店)。
土作りの釜に木炭を炊いて、鉄鍋に木の蓋、陶器の甕、そして長年受け継がれてきた味の肉そぼろを使っている。現在の煮込み鍋もすでに数十年使い続けている。
 
イメージ 11
店内の様子。度小月坦仔麺(台南中正路本店)。
度小月はすでに4代目に受け継がれているが、昔ながらの提灯や腰掛け椅子はそのままという。
 
イメージ 12
メニュー。坦仔麺。
 
イメージ 13
メニュー。烤虱目魚肚(サバヒーの塩焼き)。
 
イメージ 14
坦仔麺。
度小月の肉そぼろは豚の後ろモモ肉と肩バラ肉から出来ていて、少量の麺に、肉そぼろとむきエビ、香菜をのせ、エビのスープと黒酢、胡椒を加えている。
名古屋の味仙「台湾ラーメン」は坦仔麺をもとにしたといわれる。たしかに似ていた。小さい碗は同じだが、味が甘くて薄い。やはり、日本人はラーメンに限ると思った。
ただ、食べ歩きには少量を多種という点では好都合かもしれない。
 
イメージ 15
烤虱目魚肚(サバヒーの塩焼き)。
サバヒー(ミルクフィッシュ)を塩だけで焼き上げたもの。虱目魚を一度食べたいと思っていた。見た目よりまろやかな味だった。
 
イメージ 16
八宝肉粽。再発号。
度小月坦仔麺から北へ歩く。再発号は清代の1872年に開店した老舗。
 
イメージ 17
八宝肉粽。再発号。
特級海鮮八寶肉粽には、アワビや干し貝柱、桜海老や栗の身など豪華な食材が使われていて具沢山でモッチリしている。腹一杯になってしまった。
 
さらに、北西のグルメ街國華街へ歩いた。
 
イメージ 18
國華街。金得春捲。富盛号。
赤崁楼の西にあるグルメ街。1230分頃だったので、人出が多い。
 
イメージ 19
富盛号。碗粿。
1947年開業の店は稲穂のマークが目印。
 
イメージ 20
碗粿。富盛号。
台南発祥の碗粿は茶色い。エビ、豚肉、しいたけ、卵黄など豊富な具材と米粉から作られたもちもちの生地が、甘めのソースによく絡んでいる。硬めのプディングのような食べ物。
 
イメージ 21
金得春捲。
1954年開業の老舗で、人気店なので行列が絶えない。店頭では春捲をせっせと作っている。
 
イメージ 22
金得春捲。
春捲には、豚肉、エビ、錦糸卵、キャベツ、そら豆、乾燥豆腐、セロリ、香菜など、盛りだくさんな具材が入り、ピーナッツ粉と砂糖をかけて包み、最後に軽く鉄板で皮に焼き目をつけてクレープのような形に出来上がる。甘く、ボリューム満点な分量。
 
安平へ行くため、赤崁楼前のバス停へ歩く。バスの本数が少ないので待ち時間が長かった。

台湾 台南市安平 徳記洋行 安平樹屋

$
0
0
イメージ 1
徳記洋行。
2016125()。台南市安平。
赤崁楼前のバス停で安平方面行きの88番バスに乗車。台湾運河の周囲を回り、清朝の名臣、沈保禎により1874年に建てられたフランス式の要塞である億載金城の外壁を眺めながら、安北路の安平古堡バス停に1350分頃到着。時間がないので、徳記洋行・安平樹屋と安平古堡のみ見学する予定。安平樹屋はミシュランの二つ星でトリップアドバイザーでも一番人気。
安平古堡バス停からは北へ徒歩5分ほどと近い徳記洋行・安平樹屋をまず見学することにした。
 
徳記洋行はアヘン戦争後、1865年に開港された安平に1867年に設立されたイギリス商人の貿易会社で、茶葉の輸出業および保険と銀行の代理業を経営して、安平五大洋行の一つとよばれた。
日本統治時代、アヘンと樟脳が日本の専売になると、アヘン、樟脳、砂糖などの大口取引を扱っていた外国商社は次々と撤退し、徳記洋行の土地・建物は1911年台湾製塩株式会社が買収し、戦後は台湾製塩総工場の事務庁舎として使った。1979年からは蝋人形館、現在は貿易史の資料館として開放されている。
 
西洋風の2階建ての白い建物は南向きに建てられ、以前は行員宿舎として使用されていた。屋根はトラス構造で瓦が敷かれ、左右二つの屋根からなる四つの傾斜で排水がされている。
1階は通路を挟んだ左右にそれぞれ3部屋あり、東西南の三方は周囲に拱廊(アーケード)が廻らされている。2階は1階と同様の構造であるが、回廊の欄干には緑釉瓶の装飾が施され、白い漆喰の壁と相まって、東洋と西洋の建築様式が入り混じっている。
 
右側の入口から入り、政治家・書家の朱玖瑩の旧居で書を見てから、徳記洋行へ。
 
イメージ 2
徳記洋行。小学校のグラウンドの先に安平古堡の塔が見える。
西洋人が台湾で建設した家屋の多くは拱廊が採用され、雨水と日差しを避けるためにアーチが設計の重要な要素として取り入られた。徳記洋行はその代表的な例である。
 
イメージ 3
徳記洋行。内部。
 
イメージ 4
徳記洋行。内部。
 
イメージ 5
徳記洋行の招牌(看板)。昭和
31928)年。
旧台南市入船町に掲げられていたもの。入船町は安平港から台南市内に開かれた5本の運河が流れ込んでいた五條港地区にあった。
 
イメージ 6
安平樹屋。
徳記洋行の裏手にある安平樹屋へ。安平樹屋は同じ敷地にある徳記洋行の倉庫跡で、日本統治時代は大日本塩業株式会社安平出張所の倉庫とされていた。
ガジュマルが建物の内外に絡みつく様子が熱帯の廃墟跡を想像させ、人気がある。
 
イメージ 7
安平樹屋。
ガジュマルの木の樹幹は壁に沿って成長していき、枝や葉が屋根になって、天然の芸術作品のようになっている。
 
イメージ 8
安平樹屋。
 
イメージ 9
安平樹屋。
 
イメージ 10
安平樹屋。
屋上部には遊歩道が設けられている。
 
イメージ 11
安平樹屋。
 
イメージ 12
安平樹屋。
 
イメージ 13
安平樹屋。
 
イメージ 14
安平樹屋。
 
イメージ 15
安平樹屋。
 
イメージ 16
安平樹屋。
 
イメージ 17
安平樹屋。
 
イメージ 18
安平樹屋。
 
イメージ 19
ブリッジ歩道と安平樹屋。
樹屋の端にはブリッジ歩道の先に展望台が設けられている。池には足踏み式水車が置かれている。
 
イメージ 20
展望台からの眺望。塩水渓が流れている。
 
イメージ 21
展望台からの眺望。
かつての五條港の運河の出口にあたる場所で、清代には外国船が出入りしていたが、徐々に土砂が堆積して運河の機能は失われた。
台江内海にはマングローブが繁茂している。
 
安平古堡へ向かう。

台湾 台南市安平 安平古堡 陳家蚵捲

$
0
0
イメージ 1
安平古堡の空撮図。
2016125()。台南市安平。
安平樹屋の見学後、南へ10分ほど歩いて安平古堡の入口に着いた。
 
イメージ 2
オランダ統治時代のゼーランディア城の模型。安平古堡。
安平古堡は1624年にオランダ人により建設され、オランダ統治時代はゼーランディア城(熱蘭遮城、台湾城)といわれ、オランダ東インド会社による台湾統治と対外貿易の拠点であった。
 
イメージ 3
安平古堡。
ゼーランディア城は行政の中心である「内城」と防衛用の「外城」で構成されていた。
 
イメージ 4
ゼーランディア城の城壁跡。
古堡の西北側に、高さ約10mの壁が残る。
建設当時はセメントがなかったので、もち米汁、砂糖水、牡蠣殻灰、砂などから作られた三合土で築造された。
古い壁の上には梁の部分を固定し安定させ、脱落防止のために取り付けた「鉄ばさみ」、別名「壁鎖」という遺構も見ることができる。
 
イメージ 5
史跡記念館と展望台。
明の永暦16年(1662年)、明の遺臣・鄭成功はオランダ人を駆逐し、台湾史上初めて漢人による政権が樹立された。鄭成功は熱蘭遮城を安平城と改称し、鄭氏政権3代にわたって支配者の居城となり「王城」と呼ばれるようになった。
1683年、清による台湾統治が開始されると、政治の中心は城内に移り、安平城は軍装局として用いられ、城砦の重要性は漸次低減、改修が行なわれることなく次第に荒廃していった。1874年、牡丹社事件後、派遣された沈葆は、台湾海防の充実のために安平城城壁を二鯤身に運搬、億載金城建設の資材とした。
 
日本統治時代、1896年に日本は安平税関の宿舎施設とするため、レンガを積み上げて現在の3段の平台を造成した。上部には安平税関高官の公邸が造られたが、1930年に洋風の迎賓館に改築されて、現在は史料館となっている。
展望台は1908年に移築した清代の灯台をもとに、1975年に上部の三角屋根を追加したものである。
 
イメージ 6
安平古堡石碑。旧浜田弥兵衛功績碑。
1638年に、関税撤廃を要求してオランダ行政長官を捕え長崎に入牢させた日本人商人浜田弥兵衛の事績を記念して日本統治時代に「贈從五位濱田彌兵衛武勇之趾」と刻まれた石碑が建てられたが、戦後「安平古堡」と書き換えられた。
 
イメージ 7
ゼーランディア城。古絵図。史跡記念館の展示。
 
イメージ 8
1644
年のゼーランディア城。古絵図。史跡記念館の展示。
 
イメージ 9
オランダ人の武器。史跡記念館の展示。
 
イメージ 10
鄭成功軍の武具・武器。史跡記念館の展示。
 
イメージ 11
展望台。
赤い屋根のタワー型建築で、高さは約6mある。修理工事中のため立入り禁止。
 
安平古堡を20分ほど見学し、外に出た。
 
イメージ 12
陳家蚵捲。
安平古堡から東南へ徒歩数分の角地にある。台南で初めて蚵捲(カキの巻き揚げ)を売り出した有名店。
 
イメージ 13
蚵捲(カキの巻き揚げ)。陳家蚵捲。
店内に入り、注文の方法が分からずにまごついていたら、台湾人の若い女性に、伝票に記入して、先に注文と会計を済ませることを教えられた。
要するにカキフライで、私の大好物なので美味い。

1515分になり、台南市街の見所が残っている。豆花は前夜、台南駅前の屋台街で食べたので、有名店の「安平同記豆花」と「周氏蝦捲」は諦めた。
 
北へ10分ほど歩いて、東にある安平古堡のバス停へ着いた。15分ほど待って、バスに乗り、台南市街へ帰った。

台湾 台南市 旧・日本勧業銀行台南支店 林百貨 旧・台南山林事務所 台南武徳殿 台南孔子廟 旧・台南愛国婦人会館  

$
0
0
イメージ 1
旧・日本勧業銀行台南支店。現・台湾土地銀行台南分行。
2016125()。台南市。
安平樹屋、安平古堡を見学し、陳家蚵捲でカキフライを食べたあと、安平古堡のバス停から台南市街へ戻り、赤崁楼で下車し、南へ歩く。
台南には日本統治時代の建物が多く残っている。まず、旧・日本勧業銀行台南支店へ。
 
1998 年に市指定古跡と公告された旧日本勧業銀行台南支店は、中正路と忠義路交差点にあり、林百貨と向かい合っている。当区は日本統治時代に府城地区で最も繁栄していた町で、戦後は該当建築は土地銀行の支店として現在まで使用されている。
 
日本統治時代、大阪中立銀行、日本銀行、勧業銀行が続々と台湾に営業拠点を設置し、勧銀は昭和3年に台南支店を設立、昭和12年に現在の場所(当時の白金町と末広町の銀座通り)に移転した。
この建物は銀行営繕課が自ら設計したもので、近代的洋風建築ではあるが、道路に面した柱の列はギリシャ神殿様式のドーリア式の石柱が並び、銀行建築らしく重厚で落ち着いた外観を示している。
 
イメージ 19
旧・日本勧業銀行台南支店。
道路に面した柱の内側の歩道部分の天井には「藻井」と呼ばれる、中央に花飾りがついた四角形の枠のような装飾が施されている。
 
イメージ 2
林百貨。ハヤシ百貨店。
林百貨店は1932年山口県出身の実業家である林方一により創業された。林方一は明治16(1883)生まれ、明治45(1912)に台湾に渡り、呉服店を開業した。経営が軌道に乗り、莫大な利益を上げたのち、昭和7年(1932年)1215日、ハヤシ百貨店は、通称「銀座通り」と呼ばれていた台南一の目抜き通りであった末広通りに南台湾初の百貨店としてオープンた。しかし林氏は百貨店オープン直前に病で倒れ、自らハヤシ百貨店のオープンを見ることなく、19321210日に台北で亡くなった。
日本統治時代の台南において唯一近代的エレベーターを備えていた建物は、現地人にとっては嫁入り道具を購入するトップクラスの商店で、台北市栄町の菊元百貨店と並び南北二大百貨ビルともいわれていた。
 
イメージ 3
林百貨。
設計者は石川県出身の建築家で、当時台南州地方技師兼台湾建築会台南州支部長の梅沢捨次郎。
建物は鉄筋コンクリート造の6階建てだが、最上階の面積が小さく5階建てに見える。
当時はむき出しのコンクリートが一般の人々に受け入れられず、壁面に石やタイル貼りを使って、石とレンガの模様に似せる工夫をした。
 
1-4階は売場、5階にレストラン、屋上階6階に機械室と展望台、そして屋上庭園と神社があった。建築技術も材料も当時最先端のものがふんだんに使われている。
194531日、連合国軍による大規模な空爆で、屋上、神社、外壁、床などが損傷した。
戦後建物は改修され、台湾製塩総工場、中華民国空軍および警官の派出所などに使われたが、1980年代から空きビルとなっていた。
 
台南市により1998年、市定古跡に認定され、2010年から修復作業が行われ、2014614日に、特産品販売施設「林百貨」として開業、文化創作の新しいスタイルの百貨店として再活用されている。
 
イメージ 20
1
階エレベーター乗り場。6人乗りで、針式の階数表示板が当時の雰囲気を残す。
 
イメージ 4
6
階屋上に登ると台南の街の景色を望むことができる。
 
イメージ 5
6
階屋上。デパートの屋上には神社があった。
祭られていたのは商売繁盛の神様であるお稲荷様で、神社は開業の半年後に完成し、一般には公開されなかったが「末広社」と呼ばれ、産業の守り神として信仰の対象となっていた。
周りに置いてある黒っぽい石は当時のままで、当時6階は一般客への開放はしておらず、関係者のみがこの神社へ参ることができたという。
 
イメージ 6
6
階屋上。エレベーター機械室。
透明ガラスからはエレベーターが眺められるというが、立入りはできない。
 
イメージ 21
5
階。中庭があり、レストランフロアとなっている。
 
帰りはエスカレーターで下った。南の孔子廟方面へ歩く。
 
イメージ 7
旧・台南山林事務所。現・葉石濤文学記念館。
山林事務所は1925年の日本統治時代に建てられた2階建ての洋館で、赤レンガの壁と窓の装飾が目を引く。大きな庇は雨が多く日差しが強い南台湾の気候に適したもので、建物の最大の特徴となっている。
 
明治35年(1902年)、台湾総督府殖産部は林務課を設置し、1925年台南に林業の育成と管理を担う樹苗養成所を設立した。旧台南山林事務所は昭和6年(1942年)曾文溪森林治水所を合併し、台南山林事務所と改名し、二年後に再び「台南州産業部林務課」に改名された。戦後は南農林区管理処、台湾省林務局嘉義林区管理処台南工作站となり、工作站が移転した後は、台南市政府が建物を引き継ぎ、現在は、台南出身の葉石濤(1925年~2008年)の文学記念館となっている。
 
通りをはさんで南側に台南武徳殿がある。
 
イメージ 8
台南武徳殿。裏側。
日本統治時代、武道と尚武精神を広めるため、大日本武会が台湾各地に武殿を建てた。台南武殿は大正公園(現・湯徳章記念公園)の東側にあったが、昭和111926)年にこの場所に建設され、神社外苑と同時に落成式が行われた。
鉄筋コンクリート造だが、伝統的木造建造に似せた建築様式である。現在忠義小学校の講堂として使用されている
 
イメージ 9
台南武徳殿。正面南側。
唐破風が見事な装飾となっている。武殿の2階西側は柔道などの武道場、東側が剣道場になっていて、北側には祭壇が作られており、現在も使用されている。
 
台南武徳殿脇の路地を南へ抜けると孔子廟への近道となる。
 
イメージ 10
台南孔子廟。文廟。大成門。
台南孔子廟は、鄭氏王朝の1665年に陳永華によって創建された孔子廟である。台湾で最も古い孔子廟で、「全台首学」とも称され、台湾における学問の発祥の地である。
1665 年の初建時には大成殿のみ建設して、孔子を拝んでいたが、その後講学の場所として明倫堂を建設した。清領時代、孔廟は政府主催の台湾府学とされ、若者たちにとっての最高学府となって、「全台首学」と呼ばれるようになった。
 
台南孔廟の造りは標準的な左学右廟で、廟堂部分は三進両廊式の建築で、外には礼門、義路、東・西大成坊や、泮池、泮宮石坊もあり、台湾で唯一泮宮石坊を有する文廟である。泮宮は古代の諸侯が開設した学校で、石坊は孔廟と学校の結合を象徴している。
 
文廟の中には孔子を祭る大成殿があり、その大成殿の前には大成門という門がある。門には文字が書かれた額はなく、孔子の前で字を書くのは恐れ多いからだとされる。また。中央の門扉は祭礼のときや、皇帝が孔子廟に来たときなどのみ開けられ普段は閉められている。
 
イメージ 11
台南孔子廟。文廟。大成殿。
中には孔子が祭られており、孔子の弟子の四配や十哲の位牌も祭られている。大成殿の中には清朝歴代皇帝の額が8つと、中華民国歴代総統の額が5つ飾られている。歴代皇帝や総統の額があるのはこの台南の孔子廟だけだという。
 
孔子廟の南の大通りの南側に旧・台南愛国婦人会館がある。
 
イメージ 12
旧・台南愛国婦人会館。現・台南市政府文化局「文創
Plus-台南創意センター」。
1940年に建設された。
日本の愛国婦人会は、1901年に兵士の慰問,遺族救護の目的で創立された。北清事変の際,慰問使として従軍した奥村五百子が主唱し,皇妃を総裁に,軍部や内務省に後押しされて上流婦人を組織した。創立趣意書は下田歌子が起草。
日露戦争中に一般女性にまで組織を拡張,慰問袋作り,兵士送迎などに女性を動員した。05年には会員数46万人に達した。貴族主義的性格を不満とする軍部の指導で32年に設立された国防婦人会と対抗しつつ,戦時体制づくりに積極的に協力した。1942年大日本婦人会に統合された。
 
イメージ 13
建築模型。旧・台南愛国婦人会館。
北棟と南棟からなり、前者は婦人会館、後者は宿舎で、その間は通路でつながっている。
婦人会館は戦後、中国国民党台南市党本部、アメリカ政府報道局に貸し出された。
 
イメージ 22
2
階への階段と玄関。旧・台南愛国婦人会館。
 
イメージ 23
階段の手すり。旧・台南愛国婦人会館。
 
イメージ 14
2
階への階段。旧・台南愛国婦人会館。
 
イメージ 15
2
階広間。旧・台南愛国婦人会館。
 
イメージ 16
2
階の部屋。旧・台南愛国婦人会館。
 
イメージ 17
莉莉水果店。旧・台南愛国婦人会館の西隣にあるが、月曜日定休であった。
 
イメージ 18
フルーツかき氷。
莉莉水果店でかき氷を食べられなかったので、通りを東に歩いて、かき氷店を見つけて食べた。
 
台南孔子廟あたりで台南駅行きバスを待ったが、さっぱり来ないので、ロータリー経由で歩いて、駅前のホテルへ帰った。途中の屋台街で食事をとった。
翌日は烏山頭の八田與一記念公園を見学して、台北へ戻る行程。

台湾 台南市 台南駅 烏山頭水庫 八田與一記念公園

$
0
0
イメージ 1
台南駅前ロータリー。
2016126()。台南市。
右側の大きなビル内にある鉄道大飯店に2泊した。
本日は八田與一記念公園などがある烏山頭を見学して、台北へ戻る行程。ネットで鉄道・バスの時刻を検索した末、台南駅76分発、善化駅728分着、烏山頭水庫行きバス750分に乗車し、820分ごろ烏山頭水庫に到着という行程とした。
 
イメージ 2
台南駅。
1936(昭和11)年、現駅舎が竣工した。設計は総督府鉄道部技師の宇敷赳夫で、明治からの赤煉瓦を使った古典様式とは違い、昭和初期のモダニズム建築の様式で近代的な感覚が取り入れられており、政府から古跡に指定されている。
2階に鉄道ホテルとレストランが営業していたが、現在は閉鎖されている。駅の地下化が予定されており、現在の駅舎は保存、2階部分の鉄道ホテルは復元される見通しである。
 
イメージ 3
善化駅と烏山頭水庫行きのバス停。
烏山頭水庫行きのバスには台南芸術大学の学生も乗車して、大学前で降車していった。
 
イメージ 4
烏山頭水庫。ロータリーと入口。台南市。
バス停はロータリーにある。830分過ぎに着いたが閑散としていた。入場料は閑散期のせいか割引価格だった。日本語付きの地図リーフレットを貰い、まず、左側にある八田與一記念公園へ向かう。建物もない広い原野の中にある幅の広い車歩道を15分近く歩いて、ようやく記念公園の入口に着いた。
 
イメージ 5
八田與一記念公園。入口。
園路の先に建物が見える。
 
台湾の人々に尊敬されている八田與一(18861942年)は、石川県金沢市に生まれ、四高を経て、1910年に東京帝国大学工学部土木科を卒業、台湾総督府内務局土木課の技手となった。当初は、台湾各地の上下水道の整備を担当、のちに、発電・灌漑事業の部門に移った。八田は、当時着工中であった桃園大圳(たいしゅう)の水利工事を一任され、水利技術者として高い評価を受けた。31歳のとき、故郷金沢の開業医米村吉太郎の長女・外代樹(とよき)(当時16歳)と結婚した。
 
1918年(大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。嘉南平野は広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるため田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。
八田は官田渓の水をせき止め、隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を提出し、国会で認められた。事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施工し、半額を国費で賄うこととなった。八田は国家公務員の職を辞して、組合付きの技師となり、1920年から1930年まで、工事を指揮し完成させた。大貯水池・烏山頭ダムと水路は嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。
 
1939年、八田は台湾総督府に復帰したが、19425月、フィリピンの綿作灌漑調査のため、現地へ向かう途中、乗船がアメリカ海軍の潜水艦により撃沈され、死亡した。194591日、妻の外代樹は夫の後を追うようにして、烏山頭ダムの放水口に投身自殺を遂げた。
 
イメージ 6
八田與一記念公園。防空壕。
 
イメージ 7
八田與一記念公園。展示館外の案内。国を越えた愛。シラヤの土地の物語。
シラヤ族(西拉雅族)は台湾原住民の一つであり、平埔族の一支族に分類される。烏山頭や関子嶺温泉のある地区がシラヤ国家風景区で、国分直一の著作『壷を祀る村』で語られる村はこの地方である。安平や台南市街地に住んでいたが、オランダ人や漢族に圧迫され、移住を余儀なくされた。
展示館で、シラヤ国家風景区の折り畳み地図を入手した。
 
イメージ 8
国を越えた愛。シラヤの土地の物語。                    (拡大可)
馬英九総統が、2009年に八田がダム建設時に住んでいた宿舎跡地を復元・整備して「八田與一記念公園」を建設すると宣言、201158日に完成し、公開された。記念公園は約5万平方メートルで、4棟の宿舎が一般公開されている。
 
嘉南大圳の工事は1920年に開始された。烏山頭宿舍および関連施設は同年9月に建設が開始され、翌年完成した。宿舎は独立棟、2棟続き、4棟続き、8棟続きの4種類で、合計で68棟、234世帯が入居可能であった。当時このエリアには約2000人が生活していた。
短期間で宿舎を建設するため、木材を角材に処理せず、原木の2面または3面のみを切削する「太鼓挽き」とするなど、簡単な工法で工期を短縮した。
 
イメージ 9
八田與一記念公園の主要施設。展示館内の模型。
下部は左(西)からテニスコート、展示館、購買部建物。上部が復元宿舎で、左から「市川及び田中邸」、「八田邸」、「赤堀邸」、「阿部邸」。
見学路は展示館と購買部建物の間を抜け、宿舎群に至る。
 
イメージ 10
烏山頭職員宿舍略圖。展示館。中央右側に八田邸など。   (拡大可)
 
イメージ 11
烏山頭職員宿舍群の説明。展示館。
ダム建設関係者住宅区には家族全員が住める宿舎や共同浴場、商店や娯楽施設(テニスコートや広場、映画館)、学校や医療所も作られた。
 
イメージ 12
復元された宿舎
4棟。中心に「八田邸」。左が「市川及び田中邸」の一部。
 
イメージ 13
「八田邸」。
 
イメージ 14
「八田邸」。説明。
北国新聞社と「仰慕八田技師夫妻及台灣友好會」が共同で、日本各地から家具を集め、タンスは21組、小物は163点もの骨董品が集まった。
 
イメージ 15
「八田邸」。玄関のプレート。
 
イメージ 16

「八田邸」。室内。
 
イメージ 17
「八田邸」。室内。
19358月、台北時代の家族写真。子供は8人いた。
 
イメージ 18
「八田邸」。室内。八田技師の書斎。
 
イメージ 19
「八田邸」。北の池と庭。
家の裏には、池のある庭があり、池の中央付近に、石の燈籠が置かれていた。八田家の跡地で唯一残っていたのが、この燈籠の土台だけで、上部は田中・市川宅に移動していたのを探し出して復元した。
池の部分を掘り起こすと、当時の池のふちの石が残っていた。池は、当時の写真などを元に遺族から聞いた内容から復元した。八田技師は、花が好きだったそうで、来客が来たときは花がきれいに咲いた自慢の庭へ案内したという。
池の造成方法が雑然としていたのは残念であった。
 
イメージ 20
「市川及び田中邸」。
 
イメージ 21
「市川及び田中邸」。説明。
2家族が住んでいたので、日本式家屋が2棟続く形になっていて、入口が2つある。
 
イメージ 22
「赤堀邸」。
八田邸および他の3棟のうち1邸が交代で公開され、他の2棟は公開されない。
 
イメージ 23
「赤堀邸」。説明。
 
イメージ 24
「阿部邸」。赤堀邸から。
当時は堰堤係長であった阿部貞壽が住んでいた。阿部は後に八田技師の後を継いで烏山頭出張所長に就任した。阿部の離職後は、倶楽部として使用され、招待所の役割も兼ねていたため、宿泊者は食事の提供も受けることができた。
 
イメージ 25
「絆の桜」石碑。
201258日の完成式典には、馬英九総統や八田の故郷・石川県出身の元内閣総理大臣・森喜朗が参加した。
 
途中から、ボランティア・ガイドの女性がたどたどしい日本語で案内してくれた。彼女が「分からないものがある。」と言って、私をテニスコートの端に連れてきた。「日本語の文字が分からない。」と言うので、教えた。「絆」という文字が分からないらしい。字が下手なせいのかと思ったが、「絆」という文字は日本独特の文字のようだ。
 
イメージ 26
テニスコートの端にある「絆の桜」。
まだ若木だった。
近くにある展示館へ向かった。

台湾 台南市 烏山頭 八田與一記念公園 展示館 購買部

$
0
0
イメージ 1
八田與一の紹介映像。展示館。八田與一記念公園。
2016126()。台南市。
 
八田與一は、台湾では中学校の歴史教科書『認識台湾』にも掲載され、子供からお年寄りまで、最も尊敬される日本人として知られている。
彼の功績は、戦前台湾の農業用水施設としてのダムや関連施設を建設したことにあり、中でも最大の偉業は、台南の烏山頭水庫(ダム)と嘉南用水路で、台湾最大の穀倉地帯が生まれた。
そのため、土地の人は八田技師に感謝し、銅像や記念館を同地に造り、毎年彼の命日5月8日には追悼式をあげている。
 
復元された八田與一邸の手前に展示館と購買部の建物が並んでいる。
 
イメージ 2
八田與一の功績。
 
イメージ 3
取水口出口。
 
イメージ 4
烏山嶺隧道出口。暗渠開削工事。
19228月。
 
嘉南大圳(かなんたいしゅう)は、1930年(昭和5年)に竣工した台湾で最大規模の農水施設であり、日本統治時代の最重要な水利工事の一つであった。
 
台湾総督府は、曽文渓と濁水渓を水源として、官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する農水施設を作ることとした。

設計は総督府の技師八田與一が担当した。19209月に土木工事を開始し、総工費5,414万円をかけ、1930410日に竣工した、工事は、まず当時東南アジア最大だった烏山頭ダムの建設から始まった。その後水路が開削されて曽文渓と濁水渓二つの水系を接続した。
 
イメージ 5
取水口入口。
 
イメージ 6
送水出口。
 
イメージ 7
大型機械を運搬する汽車。
八田は前例のない工法のためアメリカ視察を行い、400万円の費用で、パワーショベルなどの大型機械を購入することにした。高価な土木機械の購入は組合や業者が反対した、八田は「この大工事は人力ではいつまでたっても終わらない。高価な機械を使って早く終わらせば、それだけ早くお金になる。」と説得し導入を決定した。
莫大な量の土石を運ぶために、およそ20km離れた曽文渓まで軌道を敷設して、ベルギー製の蒸気機関車を運行した。
 
イメージ 8
建設用の砂利を運搬する汽車。
 
イメージ 9
工事風景。
 
イメージ 10
余水吐。
堰堤の南にある余水吐は、長さ636m、入口の幅124m、出口の幅18m60個の放水穴があり、最大勾配6分の1、最大放水量は毎秒1500㎥で、水位が58.18mを超えると自然に官田渓に流れ込むようになっている。
 
イメージ 11
官田渓貯水池堰堤標準図。
 
イメージ 12
東口から取り入れた水がベルマウスの広頂堰から流入。
 
イメージ 13
烏山頭出張所(上)。嘉南大圳組合事務所(下)。
 
イメージ 14
1927
(昭和2)年、新春風景。烏山頭宿舎にて。
 
イメージ 15
六甲尋常高等小学校。

イメージ 16
六甲尋常高等小学校。
 
展示館を出て、向かい側の購買部へ入る。
「絆の桜」の文字を教えたボランティア・ガイドの女性もついてきて、購買部担当の女性と話をしていた。
 
イメージ 17
建物内に茶芸道具一式が古いミシンの上に置いてあることに気づいた。
 
イメージ 18
芸道具一式。
 
イメージ 19
お茶を飲ませてくれた。
 
イメージ 20
お茶請けは棗(なつめ)の実。
 
八田與一記念公園の見学を終え、烏山頭ダムの堰堤にある八田與一の銅像へ向かった。

台湾 台南市 烏山頭 八田與一の銅像 余水吐 虹の吊橋

$
0
0
イメージ 1
烏山頭水力発電所。
2016126()。台南市。
八田與一記念公園の見学を終え、烏山頭ダムの堰堤にある八田與一の銅像へ向かった。記念公園入口には地元民の露店が出ていた。幅広の歩車道を歩き、ゲート近くに来ると、大きな建物があった。
2002年に嘉南農田水利会と台湾化学繊維が共同出資して建設した台湾で初の民営水力発電所。ダムから送水口までの20mの落差を利用した水力発電所で電力は台湾電力に販売している。
 
イメージ 2
ダム建設に使用されたベルギー製蒸気機関車。
1920年から1930年まで使用された。長さ6.26m、高さ2.882m、重量12.5t、水槽容量1.5㎥、動輪直径0.726m、牽引重量218t、最大時速25㎞。
建設用の用材を運搬するために、ダムと隆田の間にナローゲージの鉄道が敷設された。ダムから約20㎞離れた大内の石仔瀬にあった曽文渓の川底から、小石・土砂・粘土が混じった土壌を運び、総延長1237mの堰堤を建設するために用いた。
蒸気機関車は旅客・作業員の交通手段としても使用された。
 
坂道を登り、堰堤に至るとSLが展示されていた。
 
イメージ 3
SL
展示場。
日本の高校生が100人ほどやってきた。
 
イメージ 4
「嘉南大圳設計者 八田與一氏夫妻墓園」の入口。烏山頭ダムの堰堤の北端の丘。
SL展示場左側の小高い場所に八田與一の銅像と夫妻の墓がある。台湾人観光客の一団がおり、のちに日本の高校生もやってきた。
 
イメージ 5
八田與一の銅像。背後に八田夫妻の墓がある。
八田與一の銅像は、ダム完成後の昭和6年(1931)七月に建立されたが、戦争末期の金属類回収により、供出され行方不明になっていた。終戦早々に嘉南農業水利組合の職員が偶然に隆田の倉庫で発見して、買い戻し、事務所の2階で密かに保管、昭和56年(1981)になり、再び元の位置に建立し直した。
 
八田與一の銅像は坐像で、與一が座り込んで左のこめかみの髪の毛をつまんで考え事をしていた姿を表現している。
 
八田夫妻の墓は、昭和21年(1946)十二月に建立された。
 
イメージ 6
烏山頭ダムと取水口の建物。
 
イメージ 7
八田與一氏夫妻墓園付近。タクシーをチャーターしていた日本人夫婦と10分近く立ち話をした。
 
イメージ 8
烏山頭ダム。堰堤の下部歩道を歩く。
 
イメージ 9
烏山頭ダムと取水口の建物。
 
イメージ 10
烏山頭ダム堰堤南端の中正公園に近付く。
北端から南端まで30分近く歩いた。
 
イメージ 11
烏山頭ダム堰堤の北方向。
ダムの堰堤はセミ・ハイドロリック・フィル工法と呼ばれる工法で、これは堰堤の中心部にコンクリートの芯を作り、周囲を石や粘土で覆い堤にするもので、石や砂利、粘土が混合した土石を盛った後にポンプで水をかけることによって、粒子が細かな土ほど堤防の中心部に集まり、強固な層ができるという仕組みである。
この方法でダムを造るとダム湖に土砂が堆積しにくく、地震に強い等の利点がある。近年これと同時期に作られたダムが機能不全に陥っていく中で、しっかりと稼動している。
 
イメージ 12
中正公園の遊覧船乗り場。
烏山頭ダムは、当時の民政長官・下村海南によって珊瑚潭の美称が与えられた。
珊瑚潭遊覧の宣伝板をあちこちに見かける。
 
イメージ 13
遊覧船乗り場上の展望台。
小島が点在している。
 
イメージ 14
遠くで
1隻の遊覧船が周遊しているのをみかけた。
 
イメージ 15
余水吐。
堰堤の南にある余水吐は、長さ636m、入口の幅130m、出口の幅18m60個の放水穴があり、最大勾配6分の1、最大放水量は毎秒1500㎥で、水位が58.18mを超えると自然に官田川に流れ込むようになっている。
 
イメージ 16
余水吐の放水路。
堰堤の南端から西へ歩道を歩き、烏山頭ダムのゲート入口方向へ帰っていく。
 
イメージ 17
虹の吊橋。
対岸の集落へ渡るために設けられたようだ。女性客が歩いていったので、私も途中まで歩いてみた。
 
イメージ 18
虹の吊橋から余水吐方向。
 
イメージ 19
虹の吊橋から官田川方向。
 
イメージ 20
虹の吊橋。
この付近には模擬の天壇と休憩所・駐車場がある。12時頃だったので、休憩所で昼食代わりの菓子と飲み物を購入。
烏山頭のバス停から13時の善化行きに乗る予定なので時間がなくなってきた。
 
イメージ 21
西の官田川方向への眺望。
 
このあと、妻の八田外代樹が身投げした放水口と八田與一記念館を見学した。

台湾 台南 烏山頭 八田與一記念館 夫人が入水自殺をした放水口

$
0
0
イメージ 1
八田與一記念館。
2016126()。台南市。烏山頭。
烏山頭ダム堰堤南端の中正公園から入口方面へ戻ると、八田與一記念館があり、彼の残した業績に関する資料、遺品や在りし頃の写真、ダム建設時の様子などの文献を見ることができる。
内容は八田與一記念公園の展示館と重複しているが、こちらには遺品がある。

イメージ 2
八田與一の遺品。勲三等瑞宝章、時計など。
 
イメージ 3
八田與一の遺品。和服。
 
イメージ 4
八田與一の妻・外代樹(とよき)の遺品。硯箱、手鏡。
 
山本武彦氏が書いた八田與一に関するパンフレットを入手して、退出。
 
イメージ 5
外代樹が身投げ自殺をした旧放水口は八田與一記念館のすぐ下にある。
 
イメージ 6
旧放水口。室内。
 
イメージ 7
旧放水口。室内。
 
イメージ 8
旧放水口。室内。
 
イメージ 9
旧放水口。
ダム放流のさい、非常に激しい勢いで水が噴き出すことから「珊瑚飛瀑」ともよばれる。
 
イメージ 10
旧放水口とその上にある八田與一記念館。
1997年に、新放水口が別の場所に完成したが、今でも補助的な役割を果たしている。
 
戦爭が始まると、台湾総督府に戻っていた八田與一はしばしば中国大陸などへ調査のため派遣された。昭和17年(1942)フィリピンへ水利開発の実地調査のため向かったが、58日に五島列島沖で、アメリカの潜水艦に擊沈され、57才の生涯を終えた。遺骸は、丁度その付近で網を使って捕獲漁業の作業をしていた山口県の漁船の網にかかり、八田氏の故に送られて火葬にされ、遺骨は再度台湾にいる家族のもとに送られた。
 
八田の妻外代樹は、嘉南大圳工事が完成してからは、夫と共に台北の官舍に戻っていた。戦爭が激しくなると、外代樹は子供達と烏山頭へ疎開した。終戦後、昭和20年(1945831日の夜、次男の泰雄が学徒動員から復員して、烏山頭の疎開先に戻ってきた。
その91日の未明に八田夫人は、外代樹は八田家の家紋入りの和服に、裾が乱れないようにと、モンペを身につけて、遺書を残して放水口の渦卷く水の中へ身を投げて、享年僅か45才で夫の後を追ったのである。奇しくも、25年前の嘉南大圳工事の起工日と同じ日であった。
 
イメージ 11
旧放水口。
親水公園のプールを抜けて、烏山頭の入口ゲートへ戻った。
烏山頭のバス停で、時刻表には13時の善化駅行きの他に、台北寄りの新営駅行き便がその直後にあり、迷ったが、結局先に来た善化駅行きに乗ってしまった。新営駅行きの方が良かったと後悔した。

善化駅1429分発の自強号に乗車し、1830分に台北駅に到着。15分ほど歩いて重慶南路一段のニューメイフラワーホテルに投宿。ホテルズドットコムの宿泊割引を利用したので、3985円のところ974円で宿泊。
翌日が、旅行最終日。九份、基隆、新北投温泉を見学した。

台湾 九份 阿蘭草仔粿 頼阿婆芋圓 九份伝統魚丸湯

$
0
0
イメージ 1
九份。
2016127()
台北駅前、重慶南路一段のニューメイフラワーホテルに宿泊。ホテルの隣はセブンイレブンなので朝食を購入。前夜、南へ徒歩3分の角地にある人気の福州世祖胡椒餅店で胡椒餅を買い、路上でかぶりついたらと熱い肉汁が手に飛びちって火傷をしてしまった。胡椒餅そのものは美味い。
 
本日の深夜に帰国するので、一日たっぷり時間はある。故宮博物院を1991年以来久し振りに見ようかと思ったが、内容は分かっているので、九份、基隆、新北投温泉を見学することにした。
次回は順益台湾原住民博物館を訪問したい。
 
九份は映画「悲情城市」のロケ地となり、観光地化した。日本では1990年に公開されて評判となり、そのとき私も映画館で鑑賞して二二八事件を知ったわけだが、1991年の台湾旅行のときも、九份が人気化しかけていたのは知っていたが、故宮博物院の見学を主にしてしまったので、行ったことがない。通常の台湾旅行で九份へ行かないことは考えられないので、とりあえず行こうと考えを変えた。
 
荷物はそれほど重くなかったが、ホテルにデポさせてもらって、小さいサブザックで出かけた。傘をどうしようと思ったが、持たずに失敗した。1126日に話をした関西の学生たちが、九份で土砂降りに会ったと言っていたのは頭の片隅にあったが、台北は曇りだったので傘は不要と判断した。
 
台北駅から列車に乗り、瑞芳駅で下車、バスに乗り換えて、九份へ向かった。山の斜面に九份の街が貼りついていた。
 
イメージ 2
九份。旧道バス停付近。基山街入口。
九份バス停で降りず、一つ上の旧道バス停で降りて正解だった。950分頃だったが、人出は多い。欧米人の若い女性が台北行きのバス停を捜していた。
雨は小雨だったが、降っていたので、薄いジャンパーのフードを被ってやり過ごすことにした。
九份は海沿いの西側の山の斜面にあるので、雨が降りやすい地形という。
 
イメージ 3
阿蘭草仔粿。草仔粿とは草餅のことで、まずこれを購入し、食べながら歩いた。
草仔粿の有名店は「阿蘭草仔粿」で、阿蘭草仔粿は1950年から続く老舗。
 
イメージ 4
頼阿婆芋圓の芋圓
(タロイモの団子)
一番評判のいい有名店。店の横に1店分のイートインコーナーがあり、満員だった。
 
イメージ 5
九份から海への風景。
階段を登り、小学校付近から見下ろした。
 
イメージ 6
階段通り。
昨日、烏山頭ダムでみかけた日本の高校生らしき一団が歩いていた。
 
イメージ 7
階段通り。

イメージ 8
階段通り。
 
イメージ 9
階段通り。
映画「悲情城市」のロケ地とされるが、実際は一本ずれた所で撮影したらしい。
旧道バス停へ帰る。
 
イメージ 10
九份伝統魚丸湯。
「魚丸湯」は魚のすり身団子が入ったスープ。つフワフワかつプリプリした食感が楽しめる。
 
イメージ 11
九份伝統魚丸湯。
11時過ぎに、基隆行きのバスに乗り、基隆の海門天険へ向かう。

台湾 基隆市 二沙湾砲台 海門天険

$
0
0
イメージ 1
役政公園。
2016127()。基隆市。
九份から11時過ぎに、基隆行きのバスに乗り、基隆の海門天険へ向かった。
歩き方を見たら、海門天険ぐらいしか見るべき史跡がなかった。「海門天険」は通称で、正式には基隆二沙湾砲台とよばれる。「海門天険」の文字が刻まれた城門は砲台の中央部にある。
 
一級古跡なのだから選択は良かったと思うが、アクセスが分かりづらく、時間も要した。
中正公園の北端から延びる道伝いに徒歩20分、または基隆駅前からバスで海門天険下車とある。徒歩20分だけ見て、中正公園入口から歩いたが30分以上要した。中正公園の北端まで20分以上は要するので、この20分という表現を安易に信じて失敗した。
グーグルマップを見ながら歩いたが、南の二沙湾砲台入口付近に、海門天険と表示されており、文字が刻まれた城門の場所は実際は砲台跡の北ないし下部にあるので、なかなか辿りつけない状態に陥らせられた。基隆駅前からバスかタクシーの方が良かったのかもしれないが、海門天険の城門の発見は至難のわざ。2度同じ園路を歩いてようやく発見したが、時間のロスは大きかった。
帰りはタクシーを運よく捕まえて利用できたが、安かったのでタクシーを使えばよかった。
 
基隆行きのバスに乗り、田寮河沿い信一路の中國信託商業銀行基隆分行あたりで下車。上り坂の壽山路を登っていった。大きな寺院風の資料館に立ち寄ったり、途中には野犬が群れていたりする人通りの少ない道路を30分以上歩いて、野犬がいる歩道を歩き、左折して、まもなく戦車や重火器がならぶ地区に到達。ここは役政公園といい戦闘機や軍艦の一部など陸海空軍の武器を展示する公園であった。
 
さらに北へ歩くと、二二八記念塔を経て、公園に着いた。若いカップルが座っていたりする公園の中をさらに歩くと、ようやく二沙湾砲台の説明板が出現した。
ここから北の基隆港方面へ下る丘の斜面に二沙湾砲台(海門天険)の遺構が残っている。
 
イメージ 2
二沙湾砲台の説明板。
イギリスは1840年のアヘン戦争後に台湾へ侵攻しようとした。清は二沙湾にそびえる丘が基隆港を広く遠くまで看視できるという地理的優位性を考慮し、丘の上に砲台を建設した。砲台には大小8基のカノン砲が設置され、城門には海門天険という文字が刻まれた。
イギリス軍は翌年8月に侵攻したが、清軍指揮官の達洪阿が兵を率いて反撃し、複数の英軍艦を沈め、多くの英兵を捕虜とした。その後3年間英軍は攻略してきたが、その都度撃退された。
1884年、フランスと清の戦争が始まると、基隆はフランス軍に占領され、二沙湾砲台も破壊されたが、城門と外壁は残された。
1895年の日本への併合後は、戦略上の変化により二沙湾砲台跡は荒廃したままとなって残った。
 
イメージ 3
別の古い説明板。
1885年の休戦後、台湾知事の劉銘傳により二沙湾砲台は再建された。砲台群の二つの主要砲台のうち一つが清朝時代も残ったという。
清の近代式砲台建築として、砲台の四周に防御用の連絡通路を設け、小型陣地を連続して廻らしている。8インチのアームストロング砲が東砲座区、6インチのアームストロング砲が北砲座区にそれぞれ弾薬庫を伴い据えられた。
「海門天険」とは天然の険しさを備えた海の門という意味である。
 
イメージ 4
二沙湾砲台案内図。
 
イメージ 5
二沙湾砲台案内図。凡例。
古井戸から下へ階段を下ると、地図中央の「営盤区(Millitary camp site)」という兵営地区があり、その下部の城門に「海門天険」の文字がある。
入口に近い右側に東砲座区。左側に北砲座区。北砲座区と古井戸の間のスロープを下って、「海門天険」の城門に近付くこともできる。
 
イメージ 6
基隆港周辺の地図。
清代なのか日本統治時代なのか不明。
 
イメージ 7
清代末期の砲台群。
 
イメージ 8
東砲座区。
 
イメージ 9
東砲座区。
 
イメージ 10
北砲座区へ。
手前の道標に、左へは営盤区へ行くということが示されている。
 
イメージ 11
北砲座区からの眺望。湾口の和平島方面。
和平島はもとは社寮島といい、国分直一が発掘調査をしているので、見てみたかった。
 
イメージ 12
北砲座区からの眺望。北の基隆港対岸。
 
イメージ 13
北砲座区。
 
イメージ 14
湾口の和平島方面。
古井戸まで行ったが、営盤区という言葉が理解できていなかった。また、下に営盤区があるというような風景でもなかった。
入口に帰り、もう一度案内図を確認して、営盤区の位置を了解した。
北砲座区と古井戸の間のスロープを下って、「海門天険」の城門に近付いた。
 
イメージ 15
「海門天険」の城門。
 
イメージ 16
「海門天険」。劉銘傳の揮毫という。
 
イメージ 17
「海門天険」の城門下の広場。
 
イメージ 18
「海門天険」の城門上から対岸の基隆港。
城門付属の階段を登ると、城門の上から四周を眺めることができる。
 
イメージ 19
「海門天険」の城門上から営盤区。
 
イメージ 20
「海門天険」の城門上から北西方向。右が付属階段。
 
イメージ 21
営盤区。「海門天険」の城門方向。
 
イメージ 22
営盤区から古井戸地へ登る石段。
 
1340分頃、二沙湾砲台を出て、壽山路を戻る。時間がなくなりかけてきたので、運よく通りかかったタクシーに乗り、基隆駅へ向かう。
 
イメージ 23
基隆港。
工事中の基隆駅で台鉄の時刻表を入手。台北駅で下車し、地下鉄で新北投駅へ向かった。

読書メモ マリノフスキー 『西太平洋の遠洋航海者』 倭人社会と南島語族

$
0
0
『西太平洋の遠洋航海者』 泉靖一・増田義郎編訳『世界の名著(59)マリノフスキー/レヴィ=ストロース』所収 中央公論社、1967年。
 
トロブリアンド島人。未婚の少女。性的な自由を持つ。カトゥヤウシ。
 
P132.
首長はキリウィナのオマラカナに住んでいる。大変な権力を持っている。たくさんの村が彼に貢物を捧げ、彼の権威に服している。戦争のさいは、村々は首長の同盟軍となり、彼の村にはせ参じなければならない。大きな祭式では、首長は儀典長として行動する。首長は提供された奉仕に対し、支払いをしなければならない。また、貢物を受け取るときにも、蓄えた富によって支払いをする。
 
首長はどのようにして富を得るのか。
従属する村々の義務として、首長はそれぞれの村から妻を貰う。妻の家族はトロブリアンドの法により。彼に多量の作物を供給しなければならない。妻は村の頭の係累なので、村の共同体全体が首長のために働かねばならない。
首長は巨大な倉庫を持ち、収穫のたびごとに屋根がヤム芋でいっぱいになる。

首長は一夫多妻婚ができるという特権を利用して、食物や貴重品の形でいつも豊かに富の供給を受け、彼の高い地位を維持するためにその富を供給する。部族の祭祀や企業を組織したり、自分に認められた多くの個人的奉仕にたいし、習慣にしたがって支払いを行ったりして富を消費する。
 
首長の権威に関して、権力を握ることは、利得を得る可能性を持つばかりでなく、処罰の手段を持つことを意味する。これは、原則として妖術によってなされる。
 
母系社会。子供は母の氏族に属す。真の親族関係は、男とその母方の親族の間にだけ存在すると考えられている。母方の伯父は法と慣習による権利である。
しかし、父は子供に一番近い友達であり、相続では子供に与えたいという個人的感情をもつ。
社会的地位や富は、父から息子でなく、母方の伯父から甥へ相続される。
 
p198.
トロブリアンドの人々は継続して能率的に働く能力がある。
働くためにはある種の有効な刺激がいる。彼らは部族の慣習によって、定められた義務のために否応なしに労働するか、あるいは慣習と伝統に支配される野心や価値のためにすすんで労働するかのいずれかである。
文明社会では利得が労働のための刺激となることが多いが、純粋な原住民社会では、これは刺激としての役割を果たさない。
豊かな自然の恵みが熟して落ちてくるのを待つ怠け者、個人主義者、欲深の野蛮人ではない。
 
p204.
私の物とあなたの物という区別がないのが特徴の黄金時代、という世に流布する誤った観念、食物の個人的追求とか、孤立した家族による食料入手の段階を考える見方、原始人の経済の中に単に生命を維持するための行動しかみない理論、これらの見方にはトロブリアンドに見られる実情は反映されていない。
 
事実は、部族の全生活は継続的な授受関係が豊富に存在する。あらゆる儀式、法的および慣習的行為は、具体的な贈与とその代償をともなう。富の授受は、社会を組織し、首長が権力を握り、親族がきずなをもって結び合い、法的な関係が成立するための有力な手段の一つである。
 
原始人類や未開人には私有財産がない、未開人の共産制という意見は唯物史観の著者たちが今でも抱いている昔ながらの偏見である。
 
食物の蓄積は、経済的に将来をおもんばかって行われるばかりでなく、富の所有によって社会的特権を高めたり、みせびらかしたいという欲望にうながされている。
 
宴会の主眼点は、食べることでなく、食物を展示し、儀式的に料理することにある。一頭の豚を屠殺するのは大変な椀飯振舞を意味する。どんなときでも、食物の多いことが一番重大である。食物が豊富にあると知って、彼らは社会的に楽しむのである。蓄積された食物がシンボルとなり、権力の媒介物となる。
 
原住民の習慣と心理に関する基本的事実、つまりギブアンドテイクをそれ自体のために愛すること、富を人に渡すことを通して、富の所有を心から楽しんでいる。
彼らは人にものをあげるということを熱心に考えるがゆえに、自分のものと他人のものとの間の区別がむしろひどくなる。
贈与の基本的な動機は、所有と権力を誇示したいという虚栄心であって、共産主義的傾向があると仮定することなど、元々できない。
富の贈与は多くの場合、贈与する側の、受け取る側への優越性の表現である。ある場合には、贈与は首長あるいは親族、姻族への従属を意味する。
贈与を通じて、社会的なきずなを作りたいという根強い傾向がある。 
 
クラは商業的なものと儀礼的なものの中間にある。
 
トーテム、マナ、タブー。モースの贈与論。
 
経済上の事業と、呪術的儀礼が解き放ちがたい一つの全体を構成している。
 
合理主義的な人間として未開人を考えることへの批判。唯物史観の根底には、人間とは、功利主義的な型の物質的利益しか念頭におかないという考え方がある。
 
呪術。言葉。日本の神事、キリスト教の祈り、と変わらない。初めにロゴスありき。
 
毎年の祭りの季節には、霊が村々に帰ってくる。日本人と同じ心性。
 
すべての経済的活動は呪術をともなう。
 


台北市 新北投温泉 凱達格蘭(ケタガラン)文化館

$
0
0
イメージ 1
MRT
北投駅。新北投駅行きの列車。
2016127()
基隆駅で台鉄に乗り、台北駅で下車し、MRTで北投駅へ1545分ごろに着いた。新北投駅行きのホームからは専用列車が往復している。
 
イメージ 2
新北投駅前。北投温泉街は公園の右側に並んでいるが、左側にある凱達格蘭(ケタガラン)文化館へ向かう。
 
 
イメージ 3
凱達格蘭文化館。
凱達格蘭(ケタガラン)族は台湾北部に先住していた原住民族で、平埔族に分類される。漢民族と同化して、独自の文化は消失している。
淡水河の南岸にあたる新竹市八里区の十三行遺跡を標式遺跡とする十三行文化は、1800年前から500年前の鉄器時代の文化で、ケタガラン族と関係があるとされている。
 
ビルの一室に展示室がある。ケタガラン族の展示があるというが、実際には気付かなかった。認定された原住民族の展示が主体であった。
 
イメージ 4
竹製柄杓。アミ族。
1980年。飯用。古くはシカの骨や椰子殻で制作されていた。
 
イメージ 5
頭目の帽子。サイシャット族。
2000年。丸い鏡は太陽を象徴している。イノシシ牙。螺旋織。
 
イメージ 6
樹皮の衣服。アミ族。
2000年。桑の木の樹皮。
男子が制作する。竹または柚子で針を作り、バナナから糸を作る。
 
イメージ 7
連杯。パイワン族。
1980年。
 
イメージ 8
卜占道具箱。パイワン族。
1980年。木、麻製。
 
イメージ 9
神像。石製。平埔族。
平埔族は神像や神殿は造らなかったが、様々な物を神像の代用とした。
 
イメージ 10
竹製柄杓。飲食用。
 
イメージ 11
洗濯石。平埔族。漢人と同じ風俗。
 
イメージ 12
鹿肉盤。平埔族。木製品。
鹿猟は平埔族にとり重要な集団行事であった。妊娠した母鹿を避けて、鹿の生息数を安定させるため、鹿猟は決められた狩場で、秋と冬という決まった季節に行われた。
捕えた鹿の皮は漢人の持つ塩・米・衣服と交換された。
この皿は鹿の肉を盛るための食器である。
 
イメージ 13
水壺。アミ族。
1980年。
 
イメージ 14
皮製背負い袋。ツォウ族。キョンの皮。
 
イメージ 15
黒陶壺。パイワン族。
2010年。
パイワン族の伝承では、先祖は壺の中に住んでいるという。
4匹の蛇と男女の頭像が浮き彫りされている。
 
イメージ 16
甑(蒸し器)。木製。
丸太を刳りぬいて作られる。厚みは不均等で、口部は薄く、中央部は厚い。
中央部に持ち手が付けられている。
 
イメージ 17
警鈴。プユマ族。
2010年。木、鉄製。
人面が彫刻されている。青年会所に詰めた少年が、警戒のため、村人に知らせるために使用する。
 
15分ほど見学して、北投温泉博物館へ向かった。

台湾 台北 北投温泉博物館 滝乃湯

$
0
0
イメージ 1
北投温泉博物館。
2016127()。台北市。
北投温泉街にある凱達格蘭(ケタガラン)文化館を見学し、公園西の道路右側にある北投温泉博物館へ向かった。公園の右側に入口があると思い、公園の遊歩道を抜けると公園の中に台北市立図書館北投分館があった。
 
イメージ 2
台北市立図書館北投分館。
木材を大量に使用したエコ建築で、環境共生建築とも緑の建築ともいわれ、世界で最も美しい図書館の上位に選ばれているという評判をネットでみかけていたので、外観を眺めたが、時間がないので、中には入らなかった。
 
公園を抜けて東側道路を歩くと、北投温泉博物館の入口が公園西道路側にあることに気づいて、もう一度公園を通って、西側道路へ戻った。
 
イメージ 3
北投温泉博物館。入口。
入口は西側道路沿いにあり、2階部分にあたる。入口脇には人力車用の待合が設けられていた。
 
この建物は北投温泉公共浴場として、19136月、当時の台北庁長井村大吉の発案により、日本の静岡県伊豆山温泉を模して、建設された。
当時東南アジア最大の公共浴場であったという。
設計者は台湾総督府、台南州庁など多くの官庁建築を手がけたことで知られる森山松之助である。敷地は約700坪で、一階はレンガ造りの洋風、二階は木造の和風で、外観は「和洋折衷」を基調として建てられた。一階が浴場、二階が休憩所となっており、利用客は一階で入浴して着替えを済ませた後、階段を上がって二階の大広間で涼んだり、展望テラスに出て北投渓沿岸の美しい風景を楽しむことができた。
 
イメージ 4
北投温泉博物館。入口。
戦後、国民党政府や台湾人は温泉文化に関心がなく、「北投温泉公共浴場」は、荒廃する一方であった。1994年北投小学校の教師と児童たちが郷土学習の中でこの荒廃した公共浴場を発見、浴場を守ろうと陳情書を書きいた。1997年に政府から市定古跡に指定する旨の公告が発布され、19981031日には「北投温泉博物館」が設立された。
 
入館したのが、1625分ごろで暗くなりかけていたが、観光客は多かった。
 
イメージ 5
2
階。大広間。
48畳の大広間。当時は四方に障子が立ち、休憩、お茶や食事、囲碁・将棋などが楽しめる場所であった。
 
イメージ 6
2
階。大広間。
現在は館内のイベントロビーとなっている。
 
イメージ 7
2
階。廊下。
 
イメージ 8
当時の北投公園。
 
イメージ 9
1
階へ下る階段手摺りの装飾。
 
イメージ 10
1
階。個室の浴場
大浴場は男性客のみに提供されるので、女性客は家族連れとして、より狭い個室の浴場を使わなければならなかった。浴場の広さから、当時の男尊女卑という保守的な風習が垣間見ることができる。
 
イメージ 11
景観台からは中山路沿いにある小さな池が見える。その形はハート型とも「心」という字を模しているともいわれている。
 
イメージ 12
展示。
左。1912414日付け「台湾日日新報」の北投公共浴場設計の報道。
右。1913617日落成後の北投公共浴場。
 
イメージ 13
800
キロの北投石。
北投石(ほくとうせき・Hokutolite)は、世界中の4000種類の鉱物の中で唯一台湾の地名で命名された鉱石。北投石が生成されるのには特殊な地質条件が必要で、地熱谷にあるラジウム温泉と「瀧」がその生成の鍵を握る。
 
イメージ 14
800
キロの北投石。
 
イメージ 15
北投石と自然放射線。
北投石はとても珍しく、世界でもここ北投と秋田の玉川温泉でしか産出されない。ラジウムが体内に浸透すると、強い解毒作用が働くといわれている。
 
イメージ 16
1905
年、岡本要八郎(当時台北博物館に勤務)が北投渓の川底で北投石を発見した。
 
イメージ 17
大浴場。
9m、横6m、男性専用の大浴場の規模は東アジア最大で、ローマ式浴場とよばれた。浴槽、廻廊、列柱、ステンドグラスなど、大浴場の中にある部材はすべて64の比率で作られて、秩序の美を来客に体感させた。
入口にあたるところには2段の階段があり、そこを降りると40cmの深さの湯船が奥に行くにしたがって段々と深くなって1番深いところで130cm。立ったままお湯に浸かる「立湯」も、この大浴場の特徴の一つであった。
 
イメージ 18
当時の大浴場。
5060人もの人たちが一度に湯に浸かることができたという。
 
イメージ 19
廻廊の上のステンドグラス。
大浴場に色彩を投影していた。
 
イメージ 20
北投温泉博物館。外観。
 
イメージ 21
滝乃湯。
和風の温泉立ち寄り湯で有名な滝乃湯は、明治40年ごろの創業で、台湾に現存する浴場の中では最古の部類にあたる。
 
イメージ 22
滝乃湯。
すごく期待していたのだが、工事中だった。再開は来年といわれたが、確かめると201747日から再開となっている。
他の浴場へ入る気も失せてしまったので、台北駅前のホテルへ戻って、預けたデイパックを受け取り、今回の旅行を終了した。
128日午前155分発のジェットスター便で中部国際空港へ帰った。

ボリビア ラパス 国立民族博物館 織物 糸紡ぎ棒を回すインディオの女性

$
0
0
イメージ 1糸紡ぎ棒を回すインディオの女性たちの映像。国立民族博物館。

201571日(水)。ボリビア。ラパス。
ムリリョ広場から北西2ブロックのところにある。18世紀に建てられた大きな建物を転用している。入館料20ボリ、撮影料20ボリ。
 
ボリビアの文化や伝統を紹介しており、織物、土器、仮面など多岐にわたり展示している。南米の博物館では珍しく立派なリーフレットが置いてあった。
 
入口近くには織物の展示がある。
映像では、インディオの女性たちが、紡ぎコマを空中で回して羊やアルパカの毛糸を紡いでいる。
 
イメージ 2
糸紡ぎ棒と紡錘車。1900年から現代。低地地方。
糸紡ぎ棒を回すインディオの女性棒は綿や獣毛から繊維を細く引き出し、手で撚りをかけながら巻き取る為の道具で、中程にある紡錘車が錘の役割をする。
 
イメージ 3
古代の糸紡ぎ棒。
BC200AD600年。ナスカ文化。
紡錘車には彩文が施されている。
 
イメージ 4
染色用へら。
BC200AD600年。ナスカ文化。
 
色素入れ。先スペイン時代。動物の骨製、鉱物色素。
 
イメージ 5
織物用器具。リャマの骨製。
BC200AD600年。ナスカ文化。
 
イメージ 6
織物の製作。
 
イメージ 7
織機。チャンカイ文化。
A.D10001400年。
チャンカイ文化はペルーのリマの北方に栄えた先インカの地方文化。
 
イメージ 8
織機。A型枠。
1900年ごろ。
 
イメージ 9
織物。
BC200AD600年。ナスカ文化。
 
イメージ 10
埋葬用織物の断片。ナスカ・ワリ文化。
6001000年。
 
イメージ 11
袋。
1900年~現代。
 
イメージ 12
房。
BC200AD600年。ナスカ文化。
 
イメージ 13
物。先インカ期。
 
イメージ 14
織物。ナスカ・ワリ文化。
6001000年。
 

ボリビア ラパス 国立民族博物館 被り物(帽子) 仮面

$
0
0
イメージ 1
被り物(帽子)。国立民族博物館。
201571日(水)。ボリビア。ラパス。

イメージ 2
被り物(帽子)。
左、ナスカ文化(~AD500年)。
中、三角錐型、ティティカカ湖周辺文化(BC200AD500)。
右、ペルー山間部、ワリ文化期(AD550900年)。
 
イメージ 3
被り物。
4つの角のある被り物、ティワナク文化、(6001100年)、ティティカカ湖周辺。
 
イメージ 4
イメージ 5
4
つの角のある被り物。
ペルー山間部、ワリ文化期(AD550900年)。
 
イメージ 6
羽毛付き半球形の被り物。地方発展期後期(
AD11001450年)。
 
イメージ 7
房付きの毛皮の被り物。地方発展期後期(
AD11001450年)。
 
イメージ 8
現代の被り物。
 
イメージ 9
現代の被り物。
 
イメージ 10
パティオの回廊。
 
イメージ 11
地方別の仮面。
 
イメージ 12
死者の仮面。木製。ナスカ文化。
BC100AD600年。ペルー南部海岸地区。
 
イメージ 13
カーニバルの仮面。
 
イメージ 14
カーニバルの仮面。

ボリビア ラパス 国立民族博物館 土器展示室

$
0
0
イメージ 1
土器。鉢。
GRAN FUENTE CHIRIPA。国立民族博物館。
201571日(水)。ボリビア。ラパス。
BC800BC200年。ティティカカ湖南岸。チリパ文化。
 
国立民族博物館MUSEFHPに全品ではないが詳細なカタログ・解説が掲載されている。
 
イメージ 2
土器。鉢。
ESCUDILLA CERRADA QEYA
AD200500年。 ティワナク文化Ⅲ期。
 
イメージ 3
土器。
KERU TIWANAKU
AD5001100年。ティワナク文化。
 
イメージ 4
土器。
KERU TIWANAKU
AD5001100年。ティワナク文化。
 
イメージ 5
彩色壺。
AD5001100年。ティワナク文化。
 
イメージ 6
香炉。
AD5001100年。ティワナク文化。
 
イメージ 7
樹冠形瓶。
AD5001100年。VASO ACOPADO DE ESTH O CINTI
 

イメージ 8
土器。AD5001100年。CUENCO DE BORDES RECURVADOS YURA
ユラ様式。ポトシ近郊。
 
イメージ 9
祭祀用容器。低地地方。人面。年代不明。

イメージ 10
人面容器。BC200AD500年。MOJOCOYA様式。
 チュキサカ県。スクレ周辺。
イメージ 11
展示風景。
 
イメージ 12
ラクダ科動物像。
AD5001100年。ティワナク文化。
 
イメージ 13
壺。現代。ケチュア様式。コチャバンバ。
 
イメージ 14
土器展示室のホール。
 
国立民族博物館を1時間半ほど見学。

読書メモ。「尾張の大型古墳群 国史跡 志段味古墳群の実像」深谷淳著、2015.3、名古屋市教育委員会文化財保護室、六一書房。

$
0
0
広瀬和雄氏 (国立歴史民俗博物館名誉教授)の書評。
「永年におよぶ志段味古墳群の調査成果を、カラー写真や図表を多く使ってコンパクトに、わかりやすくまとめたガイドブックである。
主要古墳の解説だけにとどまらず、古墳群の立地や環境、分布と構成、変遷と特徴などをつうじて、王権の地方経営などにも言及しながら志段味古墳群の歴史的有意性、国史跡の学術的価値を明らかにした、専門性の深い一書に仕上がっている。」
 
尾張の古墳造営の動向。
前期前半(3世紀中葉から4世紀初め)
前期前半に尾張で最初の首長墓である東之宮古墳が築かれる。前方後方墳ながら施設・副葬品から倭王権中枢部との密接な関係がうかがえる。

前期後半(4世紀前半~後半)。
尾張で最初の大型前方後円墳である白鳥塚古墳が築かれる。その後、青塚古墳が築かれる。

前期末~中期(4世紀末~5世紀)。
前期末に志段味古墳群では造営が途絶える。味美古墳群、名古屋台地東部では継続的に造営される。

中期末から後期前半(5世紀末~6世紀前半)。
尾張最大の前方後円墳の断夫山古墳が築かれる。大阪府土師ニサンザイ古墳に類似した墳丘形態、平面盾形の周堤など大王墓の墳墓様式が採用された。被葬者はのちに尾張国造の尾張連を輩出した一族の首長を想定する。その後、大須二子山古墳、味美二子山古墳、小幡長塚古墳など大型・中型の前方後円墳が築かれた。

後期後半(6世紀後半)。
畿内系の左片袖式横穴式石室を採用した小幡茶臼山古墳などを最後に尾張では前方後円墳の築造が停止される。

後期末から終末期(6世紀末~7世紀)
志段味古墳群など横穴式石室を埋葬施設とする群集墳が造営される。
 
志段味古墳群の変遷と特徴。
4世紀前半から中葉の古墳
白鳥塚古墳は大王墓の柳本行燈山古墳と墳丘の平面形が類似する。石英を用いた墳丘装飾は四国東部で出現し、近畿地方では柳本行燈山古墳が最初に採用した。
白鳥塚古墳は首長墓で尾張戸神社古墳はその首長をささえた有力者の円墳である。その次代が中社古墳南社古墳の組合せで、東海地方で最も早く埴輪を導入した。
被葬者は庄内川を利用した河川交通と深い関係を持っていた。集団の本拠地は庄内川中流域で名古屋台地北側の志賀遺跡群と推定する。
 
倭王権は東日本への勢力伸長戦略の一つとして、大和から伊勢南部、伊勢湾、東三河、遠江を経由して東へ進む原東海道をもとに、伊勢南部から分岐して伊勢湾、尾張の庄内川、東濃を通り信濃へ達するルートを設定した。そのルート上にある庄内川中流域下位を本拠とする白鳥塚古墳の被葬者と政治的関係を結び、被葬者は北岸の高御堂・天王山古墳などを下位首長群として従えて庄内川中流域全体を影響下におさめた。

庄内川の最奥の入江(津)で、東濃へ抜ける内津峠へ向かう陸路との結節点からは北東にランドマークである東谷山を望むことができ、その東谷山の山頂と麓に白鳥塚古墳などが築造された。

前期末から中期初頭になると、倭王権は王権内部の勢力交代により、信濃へのルートを伊勢北部から西濃を通って東に進むルートを重視するようになったため、志段味地区の古墳造営は停止された。中社古墳に続く首長墓は本拠地の志賀遺跡群を見下ろす守山台地西端の守山白山古墳の可能性がある。
 
5世紀中葉から6世紀前葉の古墳
西大久手古墳・大久手5号墳・東大久手古墳、志段味大塚古墳・勝手塚古墳の順で築造された二つの首長墓の系譜に分けられる。

倭王権は5世紀中葉に、畿内と東日本内陸部を結ぶ馬を用いた遠距離交通システムの整備に着手し、伊那谷や上野西部に渡来系集団を配して馬匹生産地(牧)を設置した。庄内川を経由し東濃へ至る原東山道への接続ルートが再び重要視された。

志段味古墳群の帆立貝式古墳の被葬者となったのは、5世紀中葉の時点で庄内川中流域を治めていた中規模勢力の味美古墳群の首長であった。帆立貝式古墳の墳形は前方後円墳より格付けが低いことを表示し、王権の地方経営の一端を担う官僚的な役割であったことを示す。
 
断夫山古墳は伊勢湾最奥部の熱田台地南端にあり、6世紀前半以降に尾張連を輩出した熱田台地南部を本拠とする集団の最有力者が葬られた。拠点集落のあった古渡遺跡群では5世紀中葉を境に、以前の小規模な集落群が集約化され居館域が形成された。
古墳時代以前から伊勢湾の海上交通の拠点の一つであった古渡が、倭王権から接続ルートの要衝として位置付けられ、最有力者の尾張国造就任へつながっていった。

断夫山古墳の築造と同時に尾張に導入された周堤は熱田台地南部集団と連絡路沿いの有力諸集団とのネットワークを背景に、勝手塚古墳など尾張東部の首長墓に波及していった。
 
535年に全国に屯倉が設置される。尾張に設置された間敷屯倉は春日井市勝川付近に比定される。
それにともない、庄内川と内津峠を結ぶ陸路の結節点は庄内川中流上位から中位へ移動し、上志段味の首長墓系譜は造営を停止した。
 
6世紀後半から7世紀の古墳
群集墳の時代。東谷山白鳥古墳など。前期の首長墓の白鳥塚古墳を集団の「始祖墓」に位置付け、それを核として群集墳を造営した。
近畿地方の渡来系集団が始めた石室の奥壁隅に土師器を据える儀礼行為が3基で認められることから、渡来系集団との関わりが指摘される。飛鳥戸・春日戸など戸を名乗る氏族のほとんどが渡来系氏族であることから尾張戸も渡来系氏族の可能性がある。

屯倉の経営を委任されていた尾張連は庄内川中流域の各所に広がっていた間敷屯倉にともなう田地の開発や耕作などに従事していた複数の集団に対して、ミヤケ関係集団の一体性を保持させるために、共同墓地を上志段味に設定したと考える。
 
志段味古墳群における石英を用いた墳丘装飾について。
石英の採取地。東谷山・瀬戸一帯からは石英が採取できた。対岸の高座山では現在でも採取できる。白鳥塚古墳では石英は葺石の表面に撒かれ、大きいものは葺石の石材としても使われていた。尾張戸神社古墳、中社古墳にも使用された。
 
志段味古墳群の群集墳と「尾治戸」。
馬具・武器の副葬は少ない。石室の奥壁隅に土師器を据える儀礼行為は「鎮め」の儀礼。
 
<感想>。
白鳥塚古墳の被葬者の集団は志賀遺跡群の集団であり、尾張氏となった熱田台地南部の集団とは違うことになる。志賀遺跡群の集団は5世紀中葉および7世紀にはどうなっていたのか。
尾張氏のルーツは大和にあるという説との整合性はどうか。
 
東谷山の山頂にある尾張戸神社は尾張氏の祖先を祀っているのか。渡来系集団は志賀遺跡群集団の首長墓と分かっている尾張戸神社を祀ることができたのか。

三重県車中泊旅行 桑名市 七里の渡跡 桑名城跡 宝暦治水工事薩摩義士の墓所・海蔵寺

$
0
0
三重県を2017510日から14日、16日から22日まで合計12日間、車中泊旅行し、歴史散歩・温泉などを楽しんだ。自宅・名古屋からの2往復走行距離は概算で1250km、ガソリン代9300円を含め、旅行費用は約23,000円。
 
本来は、大杉谷の桃の木小屋泊、迷岳、池小屋山などの山行を含めて、連続25日程度を予定していたが、4月末に山トレの下山時に転倒して、左人差し指の関節を脱臼した。週1日通院する必要があったので、その都度自宅へ帰ることになった。予定したのが三重県という隣県なので、自宅へ戻るのが短距離だったのは幸いであった。
 
登山は手とは関係なく、可能だと思ったが、5月初めに左足がむくんで、登山靴がはけない状態になったので、登山は諦めることにした。516日以降は足のむくみが軽減したので、霧山城などの山城を登ることは問題なくなった。
 
三重県は隣県なので、何度も見学しているが、B級史跡を中心に見学した。
 
2017510日(水)。午前11時過ぎに名古屋市守山区を出発し、国道1号線を経て、13時過ぎに三重県桑名市の七里の渡の駐車場へ到着。以前見学した六華苑の道路向かいの川沿いにある無料駐車場で、南側に観光案内所があり、地図を入手した。桑名城跡前の駐車場も無料と案内されたが、実際は有料だったので、この駐車場に駐車したまま歩いて正解だった。
 
イメージ 1
七里の渡跡。大鳥居と蟠龍櫓。
桑名は中世より「十楽の津」と呼ばれ、商人の港町と交易の中心地として発展した。永正12年(1515年)頃の連歌師・宗長の手記では「港の広さが56町。寺々家々の数が数千軒、停泊する数千艘の船の明かりが川に映って、星のきらめくように見える」とある。
 
江戸時代、桑名は、東海道の42番目の宿場町として大賑わいを見せていた。熱田・宮の渡しから海上七里を船に乗り、桑名の渡しに着いたことから「七里の渡」と呼ばれていた。ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられている。
右に見えるのが、河口のまち桑名を象徴する蟠龍櫓。蟠龍櫓は、航海の守護神として、桑名城の北端にあたるこの地に据えられたものと考えられている。
かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルを忠実に復元したもの。かの有名な歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いている。
2階の展望室は月曜を除き、午前930分から午後3時まで無料で開放されている。
 
イメージ 2
蟠龍櫓からの眺め。下流の伊勢湾方向。橋は国道
23号線の鉄橋。
対岸を見ても、陸地ばかりなので、どういう海路をとったのか、ボランティアに尋ねると、海図を見てほしいと案内された。
 
イメージ 3
渡海路絵図。左下が宮宿、右下が桑名宿。
文政81825)年に描かれた桑名から宮までの七里の渡の航路図で、宮までの所要時間は34時間と思われるが、満潮と干潮によって航路が代わり、所要時間にも長短があったことがよく分かる。一番手前の航路は、長島の青鷺川を通ったもので、現在は埋められて碑だけが建っている。
 
絵図には、現在は干拓地として埋め立てられた中州が多く描かれている。
蟠龍櫓には、旧東海道を歩く旅人が、たまに立ち寄るとのこと。
川端を歩き、桑名城跡へ向かう。
 
イメージ 4
桑名城跡。正保城絵図。
揖斐川に臨む平城で、その形から扇城ともいわれた。
永正10年(1513年)に土豪の伊藤武左衛門がこの地に城館を築いたのが桑名城の起源といわれる。天正2年(1574年)織田信長がこの地を征し、部将の滝川一益が城を配下に置いた。豊臣秀吉の時代になると神戸信孝、天野景俊、服部一正、一柳直盛、氏家貞和、松平家乗と支配者が目まぐるしく入れ替わった。
 
関ヶ原の戦い後、慶長6年(1601年)徳川四天王の本多忠勝が桑名10万石に封じられた。忠勝は入封直後、揖斐川沿いに城郭の建造を開始した。城には船着場も整備し、46階の天守をはじめ51基の櫓、46基の多聞が立ち並んだ。また同時に城下町も整備された。
 
元和3年(1617年)(久松)松平定勝が入城。(久松)松平定重の時代、元禄14年(1701年)に大火に遭い、天守も焼失し以後再建はされなかった。
 
宝永7年(1710年)松平(奥平)忠雅が入城し7代続く。文政6年(1823年)、(久松)松平定永が白河から再入城。
幕末には松平容保の実弟である松平定敬が藩主となり、京都所司代として兄と共に京都の治安を預かった。大政奉還の後の慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍と共に定敬も江戸に向かった。藩主不在の桑名城では抗戦か恭順か激論となり鎮国守国神社の神籤により上層部では抗戦と決定したが、下級藩士の猛反発にあい、結局は無血開城した。明治政府軍はこの際に辰巳櫓を焼き払い開城の証とした。
 
イメージ 5
桑名城跡。
松平定信没後100年にあたる昭和3年(1928年)に本丸・二之丸一帯を整備し九華公園とした
城跡には現存建造物はなく、石垣、堀が残るのみである。
 
イメージ 6
桑名城本丸跡に建つ鎮国守国神社。
文政6年(1823年)、(久松)松平定永が、藩祖である松平定綱(鎮国公)と実父松平定信(守国公)を祀る鎮国守国神社を城内に勧進した。
 
イメージ 7
桑名城城壁。春日神社鳥居の南東に展望コーナーがある。
正面の堀川東岸(三之丸地内)の城壁は、桑名城城壁の一部で、揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に至る延長約500mが現存し、市の文化財に指定されている。
積石の状態は乱積で、野面はぎ、打込はぎのニ方法によっており、また刻印を刻んだ積石も多く見られる。
片町に面したところには出隅、入隅があった。
戦前までは南大手橋から京橋裏、それに三之丸立教小学校横まで堀川は続いていたが、終戦直後、またたく間に埋めたてられた。この城壁には老松が並木を作り、枝は堀へ垂れ、川水は満々と美しく、行き交う荷船で賑わっていた。

なお、桑名城石垣の多くは、明治政府の桑名藩に対する懲罰処分として、四日市港建設工事の際に、転用され、「潮吹き堤防」が造られたという。数時間後に、その重文「潮吹き堤防」を見学した。
 
イメージ 8
桑名宗社(春日神社)。寛文年間鋳造の青銅の大鳥居と楼門。
桑名神社と中臣神社の両社からなり、天下の奇祭“石取祭”で知られる。
この通りは、昔の東海道筋で、初めて鳥居が建立されたのは、慶長7年(1602)本多忠勝の寄進であるが、51年後の大風で倒壊してしまった。
その後、松平定重が日本随一の青銅鳥居の創建を企画し、桑名の鋳物師辻内善右衛門に命じ、寛文7(1667)に完成した。高さ6.9m、笠木長さ8.1m、柱の周り57.5㎝。
この鳥居は寛永年間に建立された日光二荒山神社の青銅鳥居に酷似しているが、製作意匠は桑名の方が優秀であるという。
 
北西方向へ歩き、海蔵寺へ向かう。
 
イメージ 9
海蔵寺。宝暦治水工事薩摩義士の墓所。
宝暦3年(1753)に幕府より薩摩藩は揖斐・長良・木曽三大河川工事を命ぜられた。宝暦5年工事は完成したが、多くの犠牲者と巨額の経費がかさんだことの責任感から、工事総奉行平田靭負は自刃した。これら義士の墓所は岐阜・三重県下14ヶ寺に埋葬され、ここには平田靭負他21基の墓石が現存し、市指定史跡となっている。
当寺は、宝暦治水工事における自害者51名の半数に近い24名の薩摩義士の墓所である。
 
イメージ 10
海蔵寺。宝暦治水工事薩摩義士の墓所。
平田靭負の供養塔である五輪塔を囲み、コの字型に薩摩藩士の墓23基が並んでいる。
 
イメージ 11
海蔵寺。
 
イメージ 12
海蔵寺。

イメージ 13
海蔵寺。追悼供養法要のポスター。

徒歩のまま、七里の渡駐車場へ戻り、四日市市の国史跡・久留倍官衙遺跡へ向かった。

三重県四日市市 天武天皇・聖武天皇ゆかりの久留倍官衙遺跡(朝明郡衙跡)と志氐神社

$
0
0
イメージ 1
久留倍(くるべ)官衙遺跡。四日市市大矢知町。
2017510日(水)。桑名市七里の渡跡から移動。三岐鉄道大矢知駅南600mの標高約30mの丘陵上にある。国道1号北勢バイパスの久留倍遺跡北交差点から北上して、道迷いとなった。戻って、バイパスの久留倍遺跡北の一つ西の交差点から北側の側道に入ると、遺跡の南側下に到着。
遺跡は歴史公園として整備中で、柵により入場が止められているが、入ることはできる。公式HPで、本年のGWから開園としていたが、続報がなかったので、期待はしていなかったが、予算不足のせいなのか。
 
久留倍官衙遺跡は四日市市内の北部、丘陵の東先端部に位置する古代の官衙遺跡である。多数の掘立柱建物を検出した。検出した遺構は大きくⅠ期からⅢ期に分けられ、Ⅰ期(7 世紀後半~8世紀前半)は東西42m、南北51mの塀で囲われ、正殿、脇殿、八脚門等を整然と配置する政庁、Ⅱ期(8 世紀中葉~後半)は長大な東西棟建物群、Ⅲ期(8 世紀後半から9 世紀末)は稲もみが貯えられていたと考えられる倉庫群からなる正倉院と、時期により異なった性格を示す。
また、これらの遺構群は全て東を正面とする点が特徴となる。その他、丘陵の北東斜面部にも同様にⅠ〜Ⅲ期の変遷をたどる掘立柱建物群があり、館や厨としての機能が想定できる。
 
 久留倍官衙遺跡は官衙の政庁や正倉院等が時期ごとに場所を違えて展開するもので、古代伊勢国朝明郡衙跡である可能性が高い。壬申の乱の際に大海人皇子(後の天武天皇)が朝明郡に立ち寄ったことが知られており、それとの関係も注目される。
 
イメージ 2
久留倍官衙遺跡。東の伊勢湾方向。丘陵に阻まれて伊勢湾は見えない。
壬申の乱や聖武天皇の東国行幸などの史実との関連も注目されており、考古学のみならず古代史や万葉集研究にも一石を投じる重要な遺跡である。
 
672年に、天智天皇の子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)との間で皇位継承権をめぐる内乱「壬申の乱」が起こった。大海人皇子は、624日に吉野を発ち、25日に伊賀から鈴鹿山脈を越え、土砂降りの雨の中、三重評へ到着した。寒さのため、小屋を1 棟焼いて体を温めた。26日朝、大海人皇子は、朝明郡の迹太(とお)川のほとりで雲の間から現れた太陽を仰ぎ見て、天照太神を望拝し、戦いの勝利を祈ったという。
 
迹太川は、現在の河川にその名は無く、三滝川・海蔵川・米洗川・部田川・十四川・朝明川・員弁川など複数の河川がその候補に挙がっている。この迹太川が現在のどの河川にあたるのかは非常に重要で、天照太神を望拝した後に朝明郡家に至っているため、朝明郡家がどのあたりにあったのかの重要な手がかりになる。
 
「聖武天皇の東国(伊勢)行幸」では、天平 12 年(740に聖武天皇が、平城宮を後にして、伊賀・伊勢・美濃・近江・山背に立ち寄り、最後に恭仁京に遷都を行った。
聖武天皇は、壬申の乱で勝利した天武天皇の直系の曾孫であり、その正当性と権力を誇示するために、曽祖父の歩んだ東国(伊勢)への行幸を行ったとされるが、740年に起きた藤原広嗣の乱を恐れたためであった可能性が高い。
 
イメージ 3
久留倍官衙遺跡。Ⅰ期の正殿の立体表示。復元建物ではなく、休息所施設。
このほか、八脚門については、当時の姿を推定して復元する計画だが、着工されていない。政庁の塀や脇殿は、柱の位置が分かるように約40 ㎝の高さの柱を立てるという。
丘陵の北にはガイダンス施設が完成しているようだが、公開はされていない。
 
イメージ 4
久留倍官衙遺跡。
鈴鹿山脈から伊勢湾へと東流する朝明川と海蔵川とに挟まれた垂坂丘陵の北東先端部に位置する。標高約 30mを最高所として、西側にやや広い平坦面が広がり、そこから東方向に向かって緩やかに傾斜し、北東方向の沖積地へと繋がる地形に立地する。遺跡から東方向の眼下には沖積平野や伊勢湾もさることながら、対岸の知多半島や、北東方向の名古屋市街地が遠望できるというが、実際には展望できない。
 
このあと、「三重県のかくれた名所」(三重フィールド研究会編、1986年刊)で目に留まった、伊勢湾近くにある万葉集ゆかりの志氐(しで)神社へ移動。
 
イメージ 5
志氐神社。四日市市大宮町。近鉄名古屋線霞ヶ浦駅西南。左背面は志氐神社古墳。
祭神は気吹戸主神(いぶきとぬしのかみ)。延喜式内社。
創祀年代は社記によると垂仁天皇の頃という。
壬申の乱のとき、大海人皇子(天武天皇)が迹太川の辺で天照皇大神宮を遥拝するため、ここに木綿(ゆふ)取り垂(しで)て、御身の禊(みそぎ)をなされたので「志氐」の名がおこり神社の名となったという。「シデ」とは御幣のことで、四方に幣を班し、伊吹戸主神を祀った跡を千有余年後の現在も祭っているという。
天平12年、聖武天皇が北伊勢地方へ行幸の時に供奉した丹比家主真人が当社で詠んだ歌が萬葉集にある。
 
古代はこの付近まで海が迫っていたと思われる洪積台地先端の高台にあり、万葉地名では「四泥(しで)の埼」とよばれていた。
 
イメージ 6
志氐神社。説明板。
 
イメージ 7
志氐神社古墳。
神社境内の古墳。四日市市内に残る唯一の前方後円墳で、4世紀末の築造とされる。
「伊勢名勝志」によると額田連(ぬかたのむらじ)の祖、意富伊我都命(おういがつのみこと)の陵墓と記されている。
古墳は、海蔵川と米洗川に挟まれ、西から東に曲折しながら延びる低い丘陵部に位置する。墳丘は、丘陵の東側で南北に低く延びる標高10mほどの台地の東端に、主軸を南北方向にとって築造された。
明治時代に、神社の境内拡張と社務所造営によって前方部が削られ、現在では後円部と北、西側の周濠の一部が残っている。後円部は、東側と南側が道路や建物などによって削り取られているが、規模は直径30m、高さは5.3m、周濠は、幅4.5m、深さ約2.0mほど。
後円部の墳頂は、嘉永五年(1852)に発掘され、内行花文鏡、車輪石、勾玉、管玉、小玉が出土した。
 
イメージ 8
志氐神社古墳。石碑。
 
イメージ 9
万葉歌碑の説明石碑。
天平12740)年の聖武天皇の御幸の際に、御供の丹比屋主真人(たじひのやぬしのまひと)が当地で、妻を思い無事を祈って詠んだとされる歌が万葉集(第61031番)にある。
 
 後爾之人乎思久四泥能崎木綿取之泥而將住跡其念
 後(おく)れにし 人を思(しの)はく 四泥(しで)の埼 木綿(ゆふ)取りしでて さきくとぞ念(おも)ふ 
 
奈良の都に残した妻を恋しく思い、志氐神社の神さまにお供えものをして妻の無事を祈った歌という。
 
イメージ 10
妻恋稲荷神社。境内社。
日本武尊と弟橘媛命と稲倉魂神を祀る。
江戸時代後期の嘉永6年(1853年)に東京都文京区湯島の妻恋神社を勧請したもの。
 
イメージ 11
妻恋稲荷神社。説明板。
 
このあと、桑名城跡の石垣を、明治政府の桑名藩に対する懲罰処分として、四日市港建設工事の際に転用した重文「潮吹き堤防」を見学に向かった。
Viewing all 1170 articles
Browse latest View live