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Channel: いちご畑よ永遠に
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台湾 高雄 路面電車LRT 六合夜市

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高雄の路面電車
LRT前鎮之星駅。
2016123()。高雄市。
本日は霧台・三地門の原住民族文化園区の見学を終え、台鉄塀東駅から乗車し、18時に高雄駅へ着いた。翌日は日曜日なので、月休となる台南の国立歴史博物館を見ておかねばならない。高雄から昼頃には台南へ向かう必要がある。
高雄の見学ポイントは多くはないが、翌日、旗津半島、高雄市立歴史博物館、鳳儀書院を見学する予定。今夜の予約ホテルは市議会駅付近なので、土曜の夜の内にLRTを済ましておこう、ついでに六合夜市で夕食も済ませて、ホテルに行こうと考えた。
 
LRT(ライトレール)路面電車は、日本でも復活の動きがあり、富山市の事例がある。私も欧米豪の各都市で数十年前から随分利用している。名古屋でもその動きがあったが、専用車道のバスで決まってしまった。
歩き方に高雄でLRTを試験運行していると知ったので乗車することにしていた。
 
台鉄高雄駅から地下鉄へ向かう。駅の階段上に寿司コーナーがあり、安いのを覚えておいたので、翌日の昼に購入した。駅から地下鉄へ近いが、入口が横にあるので分かりにくい。地下鉄駅では予想どおり悠遊カードが使えた。凱旋駅で下車し、地上に上がると、右側にLRTの駅があった。前鎮之星駅というらしい。日本的感覚でいえば、接続上、凱旋駅のほうが便利はいい。
 
正式には高雄捷運環状軽軌というらしい。路面電車というイメージに反して、専用軌道がある。反対線路に渡る踏切もある。
 
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乗車券無料の告知。
試験運転期間なので、無料。自販機は使えない。
 
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東の籬仔内駅へ向かう電車が到着。
おおむね、15分間隔。乗客は多い。
車両はスペインのCAF社製で、エクステリアデザインはイタリアのジウジアーロという。
 
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凱旋中華駅。
西の高雄展覧館行きに乗車。隣の駅の凱旋中華駅で下車。
左右に車道があり、車道幅100mほどの中央に専用軌道がある。安全ではあるが、LRTとはいえない。
10分ほど待って、前鎮之星駅へ行き、凱旋駅から六合夜市最寄駅の美麗島駅で下車。
 
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美麗島駅。
19時過ぎに、到着。高雄のイメージ写真で昔から見ている光景だ。エレクトーンの演奏をしていた。駅ライブはコンサート的なものは日本でもあるが、恒常的なものは少ない気がする。
 
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六合夜市。
5分ほどで、夜市の端に到着。土曜の夜ということもあるだろうが、異常な人出だった。
 
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六合夜市。
日本アニメのコスプレコーナーは大人気だった。
四代目火影とは、アニメ『NARUTO -ナルト-』の登場人物四代目でナルトの父親という。
 
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六合夜市。海鮮粥。
名物という海鮮粥を食べた。特に美味いものでもない。席の向いの日本人青年は蚵仔煎(牡蠣オムレツ)を食べて、美味いと言っていた。
 
その後、市議会駅付近のホテルへ向かった。

台湾 高雄市 旗津半島 旗津フェリー 旗後砲台

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旗津フェリー乗り場。
2016124()。高雄市。
本日は昼に台南へ向かう予定。市議会駅から地下鉄に乗り終点の西子灣駅で下車。南西へ歩いて10分ほどでフェリー乗り場に着いた。休日は混むということもあり、8時ごろに着いた。
人と軽車両は入口が違う。待合室右端から入り、25元を支払う。
 
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旗津フェリー乗り場。
船が到着すると、自転車やバイクが降りてくる。船内へ入り、2階の無蓋部へ向かう。
 
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旗津フェリー。港の風景。
 
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旗津フェリー。出航。
 
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市内から続く丘の上に赤いレンガ色の旧英国領事館が見える。
 
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高雄港北西部の風景。手前の小高い山が寿山、奥が鼓山かと思われる。
 
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高雄港南部。
中央奥にうっすらと高雄85大楼が見える。ドックもあり、規模の大きな港湾ということを理解した。
 
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高雄港。北の湾口部。フェリー港に近付く。
左に見学予定の旗后山とその頂上に旗後灯台が見える。
5分ほどの乗船。旗后山へ向かうため、大通りの廟前路ではなく、海岸沿いに道路を歩いた。
 
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旗后山の登山道途中から海岸公園を見下ろす。
旗后山への登り口は狭い道が行き止まりになったところにあった。
旗后山頂上部にある旗後砲台・旗後灯台は入場無料である。
 
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旗後砲台。入口付近の練兵区を見下ろす。
旗後砲台は清が1731年に砲台1座、烽火台3座、物見櫓1座などを建設したことに始まる。
1874年の牡丹社事件の後、台湾に派遣された欽差大臣の沈葆が1876年に、イギリス人建築家HW・ハーウッドに設計させ、山上横長の珊瑚礁台地に新式砲台を造らせた。
長方形の構造物である砲台内部の空間は「目」の字型に区切られ、第一区域は練兵区、第二区域は連絡通路と弾薬庫、第三区域も練兵区であった。
砲台には4門のイギリス製のアームストロング砲が設置され、左右に砲座が1門ずつ、南側には2門配置された。

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旗後砲台。南東
方向への眺望。
 
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旗後砲台。北西方向への眺望。
日清戦争の後半、1895417日清講和条約(下関条約)が調印、58日の日清講和条約発効後、割譲された台湾に近衛師団が派遣され、台湾占領を開始した。617日に台北で台湾総督府始政式が行われた後、19日に南進が始まったが、困難を極めた。
916日台南を目指す南進軍が編成され、1021日、日本軍が台南に入った。1118日、大本営に全島平定が報告され、日清戦争が終結した。
 
18951015日午前655分、日本軍巡洋艦「吉野」「秋津州」その他からなる艦隊が旗後砲台に砲撃を開始した。
砲台の指揮官の劉成良は日本艦隊の砲撃の前に内陸の安平に逃げていたため、統率を失った砲台側は砲弾を5発発射したのみだった。
砲撃の後、1430分に日本軍は上陸を開始した。そのとき既に砲台は放棄されており、砲台はすぐに占領された。
日本統治時代になると砲台は使われなくなり、廃墟となった。
 
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旗後砲台。北の旗後灯台方向。
 
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旗後砲台。西の練兵区方向。
 
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旗後砲台。南東の高雄港方向。
 
遊歩道をさらに北へ進み、旗後灯台へと向かった。

台湾 高雄市 旗後灯台

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旗後灯台。正門前。
2016124()。高雄市。
旗後砲台横の遊歩道を北へ進むと、軍事施設の建物跡が左右に現れる。小規模だが、太平洋戦争中の日本軍の施設のように思われた。旗後灯台が見えたが裏門だったので、一旦下り登り返して正門へ850分頃着いた。プレートには9時開門と書いてあった。
 
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旗後灯台の正門前から南東の高雄港方面。
旗津フェリーの船と遠くに霞む85大楼ビルが見える。
93分頃開門。遅いなと思ったら、裏門を先に開けていた。
 
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旗後灯台。
塔頂高15.2 m。初期の灯台は清により1883年に建設され、日本統治時代の1918年に現在の灯台に改築された。
1860年イギリス・フランス両国はアロー戦争により、清朝に対し鶏籠(現在の基隆市)、滬尾(現在の台北県淡水鎮)、安平(現在の台南市安平区)、打狗(現在の高雄市)の4つの港の開港を迫った。1864年の打狗港の開港直後から灯台建設の声が上がり、イギリス人技師を招聘して1883年に西洋式灯台が旗後山に完成した。当時はレンガ造りの四角形の塔で、器具や設備は全てイギリスから購入したものだった。
 
日本統治時代の1918年、高雄港が拡張され、新しい灯台が旧灯台の位置に造られた。灯台の横には西洋式の城壁の事務所が設けられ、芝生の上には日時計も造られた。
 
新灯台は本体が八角形で、最上部は円筒状になっており、ベランダからは遠方を眺望できる。最上部には風向儀があり、その上には漢字で東西南北の文字があり、本体は白色、最上部は黒色になっている。
太平洋戦争で多少の被害を受けたが、戦後に何度か補修を行っている。現在では内部の設備も最新式の4等回転レンズ灯が備え付けられ、光度は85万カンデラとなっている。
 
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旗後灯台横からの展望。南東の高雄港方面と旗津市街。
 
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旗後灯台横からの展望。北の寿山方面。
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旗後灯台敷地の模型。灯台内1階の資料室。

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灯台内1階の資料室。旧設備が展示されている。

施設内を通り裏門から出て、旗後砲台横の遊歩道へ進む。
 
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旗後砲台。
西南の隅部。旗後灯台が奥に見える。
往路の坂道を下ると、多くの見学客が登ってくるところだった。
 
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旗后山の麓。旗後砲台・灯台の入口付近。
イカが吊るされていた。民家からはマージャンの音が聞こえてきた。日曜日の漁港風景であった。
 
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旗津フェリーに乗り、地下鉄で高雄市立歴史博物館の最寄駅である隣の駅の塩埕埔駅で下車。

台湾 高雄市 高雄市立歴史博物館 日本統治時代の旅行

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高雄市立歴史博物館。
2016124()。高雄市。
地下鉄で高雄市立歴史博物館の最寄駅である塩埕埔駅で下車。北東の公園を通り抜け、大通りに出たが、道路反対側だったので、横断できず歩道橋まで戻って、近づいた。帰りは公園北側の歩道から駅へ戻った。
 
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高雄市立歴史博物館。
日本統治時代に建てられた建物として貴重である。
1938年に高雄市役所の庁舎として、清水組(現・清水建設)の設計により建設が開始され、1939年に完成した。
戦後は高雄市政府の庁舎として使われたが、19921月に市政府が移転したため、高雄市関連の歴史資料を保存する為に再利用する事となり、199810月に高雄市立歴史博物館として開館した。
 
当時流行した帝冠様式の建築で、コンクリート造の躯体に和風の屋根を載せたデザインが特徴である。愛知県庁舎、名古屋市役所庁舎も帝冠様式の建築物で、重要文化財に指定されている。
 
正面の形状は「高」を模したデザインという。薄い黄緑色とクリーム色のパステル調の色合いは軽やかな印象を与えている。隅部の帝冠は中央の天守に対する櫓という面もちをしている。瓦屋根の頂は宝瓶型の棟飾りがある。
1階の入口にはポーチが設けられ、その上部のバルコニーは当時、検閲や式典の際の司令台として使用された。
躯体部の装飾にはアールデコ様式の影響が見られ、内部も同様である。
 
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高雄市立歴史博物館。
Y字型の階段。
1015分ごろ入場。入場は無料。
 
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高雄市立歴史博物館。階段にある大理石の時計。
アールデコ様式。
 
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雄市立歴史博物館。
2階廊下。アーチ型の回廊。
窓の装飾は幾何学的なアールデコ様式。
 
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高雄市立歴史博物館。
2階廊下。
ライトの光と影が面白い。
 
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高雄市立歴史博物館。部屋の扉。
アールデコ様式。
 
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高雄市立歴史博物館。天井部。
 
常設展示として、高雄における二二八事件が紹介されていた。
日本統治時代の旅行に関する特別展示が開催されていた。
 
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「台湾へ」。昭和
81933)年、台湾総督府鉄道部発行。
鉄道旅行のモデルコース案内書とみられる。
 
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「台湾へ」。
 
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「台湾へ」。
 
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航空旅行。
1940年ごろ。
 
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航空旅行。ビデオ上映。
 
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戦前、台湾の民間航空。
1036年から日本航空運送株式会社が台北・福岡便を週3回運航し、早朝台北を出れば、夕方には東京で皇居を拝することができるといわれた。
19368月には、東線の台北―宜蘭―花蓮港、西線の台北―台中―台南―高雄、馬公線の台南―馬公が開設された。日支事変の進展とともに、燃料節約のため1940年から運航は縮減され、1941年には運航停止となり、飛行機が軍用に転用された。
台南―屏東―台東と繋いで台湾一周の循環運航がされたという。

建湾 高雄市 高雄市立歴史博物館 絵地図 原住民の内地観光

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絵地図。吉田初三郎。
1935年。高雄市立歴史博物館。
2016124()。高雄市。
日本統治時代の旅行に関する特別展。吉田初三郎は台湾日日新聞の招きで来台し、絵地図を描いた。台湾北部の場面には、富士山も描き加えられている。
 
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絵地図。台湾南部。石門、四重渓温泉、琉球蕃民墓、ガランビ灯台などが描かれている。
 
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絵地図。台湾南部。
 
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絵地図。台湾南部。
 
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弁当の包装紙。
 
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鉄道の乗車券。
 
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旅行カバン、行李。
 
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列車の行先標。
 
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原住民の内地観光記事。
19349月、台湾日日新報。
高雄州のパイワン族など20名。
 
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原住民の内地観光記事。
1934年、台湾日日新報。
門司に上陸、宮城、伊勢神宮参拝。
 
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原住民の内地観光。陸軍歩兵操練の参観。
 
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原住民の内地観光。東京を観光するタイヤル族。
 
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原住民の内地観光。
 
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塀東蕃屋。
1915年屏東公園に建設。パイワン族の石板家屋。原住民の生活を紹介する目的および山間から降りてきた原住民の住居としても使用された。
 
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鵝鑾鼻(がらんび)。
灯台は1898年に再建された。台湾神社から分祀した鵝鑾鼻神社があった。隔年ごとに、鯨の顎骨を材料とした鳥居が造られた。
 
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台湾土産。糖化バナナのラベル。
 
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台湾土産。彩絵竹筏芭蕉紋図盤。
 
1050分頃に退館。迷ったが時間があったので、四合院建築と紹介されていた鳳儀書院を見学することにした。

台湾 高雄市 鳳儀書院

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鳳山城隍廟。
2016124()。高雄市。
高雄市立歴史博物館の見学を終え、四合院建築と紹介されている鳳儀書院を見学するため、地下鉄の鳳山駅で下車。大通りから北の脇道に入り、東へ向かうと城隍廟があった。鳳儀書院は隣にあるというが、ここからは見えず、隣というよりも右の小道を進むと、切符売場があった。駅から徒歩5分と書いてあるが15分ほどかかった。
鳳儀書院の入場料は66元と高い。入口にいた女性職員から日本語リーフレットを貰い、入場。
 
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鳳儀書院。頭門(大門)。
鳳儀書院は、清朝時代の1814年に建設された台湾で最大の規模を誇る書院で、科挙に備える名門校の一つであった。
鳳山県には新旧二つの城があった。旧城(左営)にあった書院が林爽文事件で破壊され、新城(鳳山)に鳳儀書院が建設された。
日本統治時代には陸軍台南衛戍病院鳳山分院、鳳山郡役所宿舍などとして使用された。戦後は賃貸住宅となったが、1985年古跡に指定後、文化局が取得し、修復工事が行われ、2014年に一般公開された。
 
園内各所には、人形による展示が置かれている。門の全面には授業を視察に訪れた清代の鳳山県知事・曹謹一行が書院を訪問した群像が再現されている。
左奥は鳳山にあった牛市場の様子が再現されている。
 
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鳳儀書院。講堂(教室)。
頭門を越えて北に進むと、講堂(教室)がある。講堂を南としてその奥の中庭を挟んで、東西に二列に並んだ学舍(学生宿舎)があり、北中央に廳事(祭祀空間)があるという四合院建築の様式で建てられている。
 
書院には私塾教育を終えて童試を受ける童生と、童試に合格し郷試を受ける生員の2種類の学生が住んでいた。
 
清朝時代に建てられた台湾の古い書院建築には儒教と道教が融合した建築の特色があり、教育施設の空間の中に宗教建築の要素が見られる。建物は閩南様式や広東東部の建築様式が採用され、木造の小屋組みに燕尾式の屋根、赤レンガと白塗りの壁、色鮮やかな装飾が施された梁などにより、高尚で典雅な趣を感じさせる。
 
講堂の前面に置かれた人形は武科の練武風景を表している。清代の科挙試験には文科のほか武科試験もあり、馬騎、歩射、技勇(弓を引く、刀の演舞、石を持ち上げる)の順で屋外での試験が行われた。
 
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廳事(祭祀空間)。
改修後特別に迎えられた学問の神様である文昌帝君を祀った「文昌祠」では、おみくじを引いたり、文昌燈を灯したりしている。
 
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台湾県宏文書院師課童生試巻。光緒年間。試題「知物不失人」。科挙関連展示。
当時学生宿舎だった学舍の両側は展示空間になっている。
書院の東側にはもともと36部屋の試院(試験を受ける場所)があり、鳳山県で行われる郷試(科挙の試験段階の一つ)の場所となっていた。
 
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貢院號舎。復元図。
受験者の宿舎兼試験会場であった貢院の號舎の説明図。
 
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講堂の建設図解。
 
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旧部材。
 
20分ほど見学して、台南の国立台湾歴史博物館を見学するため、12時過ぎに出て、1240分頃台鉄高雄駅に着いた。1255分の列車に乗り、1333分に台南駅に到着。
 

台湾 台南市 国立台湾歴史博物館 鉄器時代 原住民クバラン族の遺跡 淇武蘭遺跡 

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国立台湾歴史博物館。
2016124()。台南市安南区。
高雄市内の見学を終え、台鉄高雄駅1255分の列車に乗り、1333分に台南駅に到着。駅前のバス停へ。国立台湾歴史博物館は台南市の北東郊外にある。
バス停は南北あり、時刻表を確かめながら、ようやく18番系統に14時に乗車、1445分に博物館前で下車した。
 
台南市内見学は本日と月曜日を予定、火曜日は烏山頭へ行き、台北で泊る予定。博物館は月休なので、本日しかない。台南の観光地は年中無休が多いので月曜日でも見学可能。
 
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国立台湾歴史博物館。
201110月開館。台北の国立博物館は歴史博物館ではない、台東の国立台湾史前文化博物館は考古と原住民文化に特化した博物館であることに対し、この博物館は紀元前から現代までの台湾の歴史を包括的に扱った唯一の博物館として評価できる。

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2階の常設展示室。国立台湾歴史博物館。
巨大なジオラマで日本人街などを復元している。
「図説台湾の歴史」周婉窈著などを事前に読んでおいたので、ジオラマや実物資料を興味深く見学することができた。
 
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長濱文化。旧石器時代。
いずれも、礫石偏鋒砍器、小馬洞穴遺跡出土。
 
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墾丁遺跡。復元ジオラマ。新石器時代。
4000年前の文化。台湾において初めて考古学的な発掘調査が日本人学者によりなされた遺跡。狩猟用具や漁具のほかに、農業用具、彩紅縄紋土器、玉器も出土した。
 
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大坌坑文化。黄褐色夾砂縄紋土器口縁。
卑南文化。玉矛。
大坌坑文化は6000年~5000年前。海岸、河口の近くに集落があり、海洋資源をもとにした文化。
 
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卑南文化。突起付環状玦形玉耳飾り。円山文化。磨製有形石斧。
 
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縄紋土器の製作。石と縄紋押し板による装飾。
 
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縄紋土器の製作。口縁部の縄紋装飾。陰干し。露天焼成。
 
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縄紋土器の製作。縄紋土器の完成。
 
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淇武蘭遺跡。復元ジオラマ。
淇武蘭遺跡は鉄器時代の宜蘭県にある1500年~100年前までの台湾原住民クバラン族の遺跡。
鉄器時代の十三行文化に属する。
2002年に原住民族として認定されたクバラン族(噶瑪蘭族)は元来は宜蘭県の蘭陽平野一帯に居住していたが、19世紀に漢民族の進入にともない、同化が進んだものは宜蘭県でホーロー人となり、同化を拒んで南に移動したものが、花蓮県豊浜郷新社村などに独自の言語と習俗を保っている。
伝承によれば、クバラン族の祖先は南の島Sanasai から海を渡って台湾に着き、蘭陽平野に着いた時、タイヤル族と戦ってタイヤル族の土地を奪ったという。
クバラン族は海や川を問わず、水辺に住居を構えることを好み、周囲に竹林を囲いとして植えた。
 
十三行文化の標式遺跡である十三行遺跡は、淡水河の南岸八里区にある1800年前から500年前の鉄器時代文化の遺跡で、平埔族に属するケタガラン族と関係があるとされる。
陶器、鉄器、煉鉄炉、埋葬品などが発見され、墓跡や村落の遺跡も残されている。
 
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鉄製矛鏃。木製彫刻板。淇武蘭遺跡出土。
 
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鉄器時代。青花碟(染付磁器皿)。宜蘭県淇武蘭遺跡出土。
十三行文化。玻璃珠飾り。
黄金銅飾り。

台湾 台南市 国立台湾歴史博物館 浜田弥兵衛事件 公廨(コンカイ) 媽祖遶境 

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末吉家朱印船清水寺奉納絵馬。寛永
11 (1634) 年。国立台湾歴史博物館。
2016124()。台南市安南区。
天下統一を達成した豊臣秀吉は1593年に「高山国」宛てに心服するよう要求文書を出したが、当時の台湾に国としての実態はなく、無に帰した。しかし、日本人の間に台湾への関心が高まり、1609年に島原日野江城主有馬晴信が、1615年には長崎代官村山等安が船を派遣した。
 
1624年(寛永元年)、オランダは台湾島を占領、ゼーランディア城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始める。オランダはタイオワンに寄港する外国船に10%の関税をかけることとした。中国商人はこれを受け入れたが、浜田弥兵衛(長崎代官末次平蔵の配下)ら日本の商人達はこれを拒否した。
1627年オランダ領台湾行政長官ノイツは江戸幕府と交渉を求めたが、先住民を江戸城で謁見させた浜田弥兵衛に阻止された。1628年(寛永5)ノイツはタイオワン(台南・安平)で、帰国した先住民達を全員捕らえて贈り物を取り上げ監禁、浜田弥兵衛の船も渡航を禁止して武器を取り上げた。この措置に弥兵衛は激しく抗議したが、それを拒否したノイツに対し弥兵衛は、隙をついてノイツを組み伏せて人質にとり、騙して長崎に送り、牢に入れた。
これが、浜田弥兵衛事件(タイオワン事件)といわれる紛争である。

その後、末次平蔵が1630年に入獄殺害されたのち、1636年オランダ東インド会社が幕府と交渉し、ノイツは釈放された。
 
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ャンク船模型。
1617世紀に台湾や東南アジアの交易船として使用された中国式帆船。香料、陶磁器、綿布、絹織物、鹿側、金銀製品、漆製品などが交易された。
 
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公廨(コンカイ)。平埔族の壷を祀る風習。
コンカイと呼ばれる村中にある祭場で、広場には四本の竹を柱として茅の葉で葺いただけの粗末な小屋が建っている。イノシシの頭骨が竹の柱に括り付けられ、その下には壺が置かれている。
元々は平埔族原住民の男性の住居あるいは集会所を指す。1603年の中国の文献に「公廨」が初出する。19世紀後半ポール・アイビスが宗教祭祀の場所として記録した。
 
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国分直一の著作『壷を祀る村』(昭和
19年)では、シラヤ族の村で、祖神アリズの神体であるという壺が祭壇に祀られていたことを記している。
昭和38年に国分はシラヤ地方を再訪し、知母義より東方山麓の左鎮郷で阿立祖信仰の遺風に出会う。双角木柱の神座にはキョンやイノシシの頭骨が掲げられていた。壺を祀る形式は簡略化されたものと理解された。
さらに古式があり、「安平県雑記」には、太い竹の上に、人を殺して馘首して皮肉を去った頭骨を掲げていたが、清朝が禁止したので獣骨に変わったと記されている。
 
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平埔族シラヤ族。漢族の圧迫による
4大集落の移動経路。  (拡大可)
シラヤ族(西拉雅族)は台湾原住民の一つであり、平埔族の一支族に分類される。主に台南に住み、高雄、屏東にも居住している。八田與一で知られる烏山頭や関子嶺温泉のある地区がシラヤ国家風景区になっている。
4大集落は蕭壠社、麻豆社、目加溜灣社、新港社。
 
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1874
年牡丹社事件。牡丹社降伏後、西郷従道および蕃社琅嶠十八社会合。
 
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牡丹社事件に参加した原住民。
 
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媽祖遶境。媽祖が街を巡る行事。
媽祖を迎えるお祭り。漢人文化。「媽祖遶境」の行事では慈悲をもって衆生の普渡が願われ、信徒にとって重要な拠り所となっている。
行事の最中には神輿の行進に伴って銅鑼や太鼓が叩かれ、至る所で線香を上げて媽祖を迎え入れ、爆竹を鳴らし、敬虔な信徒は跪いて媽祖を迎えると共に祈りを捧げる。

台湾 台南市 国立台湾歴史博物館 日本統治時代 戦前の台湾紹介映像

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国立台湾歴史博物館。
再現された日本統治時代の家屋や街並み。雑貨店、呉服店、写真館、喫茶店、診察所など。
2016124()。台南市安南区。
 
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鳥居龍蔵とヤミ(タオ)族の船。
1897年。
鳥居龍蔵は明治291896)年に東京帝国大学から派遣されて、台湾での人類学調査に着手し、1911年までの間に、5回の調査を実施し、原住民族の言語・風俗・習慣を記録し、多くの写真を撮影した。
 
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1913
(大正2)年のタイヤル族キナジー蕃との戦闘。
2,778名の軍・警察が出動、245名の死傷者を出し、1,368挺の銃と1万2,469発の弾薬を押収した。
1906(明治39)年から1915まで第5代台湾総督を務めた佐久間左馬太は銃器押収を主眼とする五ヶ年計画理蕃事業を推進し、1914(大正3)年の「タロコ戦役」まで、原住民族との戦闘が続いた。
 
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蕃童教育所。日本統治時代の台湾において設置された台湾原住民児童に対する初等教育機関であり、教師は全て日本人警察官が兼務した。
台湾人の子弟への第一段階の教育機関は公学校である。
 
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原住民族。
 
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霧社事件。霧社公学校校長官舎での惨状。
19301027日に台湾の台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で起こった台湾原住民セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした6つの社300人が、霧社公学校の運動会を襲い日本人約140人が殺害された。日本時代後期における最大規模の抗日暴動事件。

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霧社事件での投降を呼びかけるビラ。

「ハヤクコウサンスルモノハ、コロサナイ。コウサンスルモノハ、テツポウヲすて、リヨウテヲアゲテ、マヘボバンシャヘデテコイ。」
カタカナで書かれているのは、原住民族たちに主としてカタカナで教育を行っていたためである。
 
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米糖相剋問題。
台湾米の日本への輸出が成功したため、農民たちは米の増産に励んだため、サトウコビの生産が減少した。総督府は砂糖の生産コストを下げるため、砂糖会社の収益を確保するため、サトウキビ生産を増やす各種の方策を講じた。
 
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ポスター。銃後の総親和。第2回総選挙。台湾自治協会。
193511月地方自治議会議員の第1回総選挙が実施された。選挙権は25歳以上で選挙区に6か月以上居住し、毎年5ドル以上の税を支払った男性のみに制限されていた。
被選挙者は公学校卒業者で日本語に堪能なものに限られた。総督府の努力により、投票率は95.9%に達した。
 
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選挙標語。
 
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公学校高等科国語読本巻一。総督府発行。
 
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優等生になれる国語の新研究。第五学年用後期。台湾図書株式会社発行。
 
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教育勅語。
 
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公学校用国語読本。
 
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公学校修身書。
 
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ポスター「南無警察大菩薩」。台北州警察衛生展覧会(
1925年)写真帖(1926年)より。
左手に数珠。右手に剣。「左側通行」、「思想取締」、「犯人逮捕」、「救助救護」、「蕃人授」、「惡疫豫防」という警察の六大任務を示す 

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再現された嘉義市東門町派出所。

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嘉義市東門町派出所。
2010年歴史建築に指定。面積約20坪。事務所1部屋、居間3部屋。留置所はない。赤色灯。樋。ポーチ。

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日本帝国海外旅券。明治39
9月発行。

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渡邊台湾キャラメル。富士印グラニュー糖缶。
 
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タカサゴビール。
 
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仁武丹。
 
17時頃に博物館を出て、路線バスに乗り、台南駅前に戻った。宿泊は駅前の鉄道大飯店。2泊で4482円。欧米個人客の利用も多い。朝食は下のコンビニとコーヒー店を利用でき便利だった。歩き疲れたので、夕食は南に徒歩10分ほどの屋台街を利用。翌日は月曜休みの飲食店があったので、失敗した面もあった。台南はもう一度訪れてもよい町なので、良しとしよう。

台湾 台南市 赤崁楼 海神廟 文昌閣 御贔屓碑 断足の石馬 瓶形の門

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赤崁楼。海神廟とその前に立つ
9基の石碑「御贔屓碑」。
201612月5(月)。台南市。
宿泊は駅前の鉄道大飯店。朝食券でコーヒーを飲めるので、8時頃にコーヒースタンドへ行くと、10人ほどが待っていた。女性職員が来たが、すぐには飲めないので同金額で栄養ドリンクと缶コーヒーをゲット。翌朝もこの手を使った。
前日昼に台南駅に着いたときに、駅前の観光案内所で多くのパンフレットを入手した。今回回った観光地では一番優れていた。
830分に駅前のバス停から台湾好行88安平線に乗車し、赤崁楼で下車。昼頃気付いたが、安平行きの本数は少ないので、先に安平へ行ったほうが良かった。古都台南では赤崁楼観光がまず思い浮かぶ。ホテルで見たトリップアドバイザーでは安平樹屋が一番人気がある。
日本人シニア夫婦も赤崁楼で下車したが、赤崁楼へ入らずに西へ歩いていった。美食の街台南では朝からグルメが人気である。入口で日本語の詳細なリーフレットを貰った。
 
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赤崁楼。鄭成功和議の像と海神廟。
明時代1653年に台湾南部を占領したオランダ人によって築城され、当初は「プロヴィンティア」(Provintia、普羅民遮城)とよばれた。
1624年、澎湖を拠点に明と争っていたオランダと明の間に講和が成立し、オランダは澎湖の経営を放棄し、その代替地として台湾南部に上陸し、「ゼーランディア」(Zeelandia、熱蘭遮城、現・安平古堡)を築城して商館や砲台を築き、台湾統治の中心とした。
 
1625年にオランダ人は布15束で原住民から赤崁の土地を買い取り、商館、市街、倉庫、病院を設置して普羅民遮街と名付けた。
 
1652年にオランダ人による統治への不満により、「郭懷一事件」が発生すると、オランダ人は事件の再発を防止するために、周囲約141m、城壁高さ10.5mの城砦「プロヴィンティア城」を建築し、行政と商業の中心とした。
 
1661年鄭成功がプロヴィンティアを攻撃し、鄭成功は普羅民遮城を東都明京と定め、承天府を設置し、台湾全島の最高行政機関とした。
 
1664年に東都承天府が廃止されると、赤崁楼は火薬貯蔵庫として用いられるようになり、人為的な破壊、風雨による侵食、地震による被害を受け赤崁楼は周囲の城壁を残すのみにまで荒廃した。
1886年台湾の沈受謙知事が赤崁楼の跡地に文昌閣、五子祠を建立、海神廟を修復し、西側に蓬壷書院を建設し、昔日の様子を取り戻すようになった。日本統治時代には陸軍の衛戍病院及び医学生の宿舎として利用された。
 
1921年、台湾総督府により大士殿の解体修復が行なわれた際、プロヴィンティア時代の堡門が発見され、また東北部からはオランダ時代の砲台跡が発掘され、歴史館が設置された。
戦後は修復が重ねられて、現在の外観となった。
 
「鄭成功和議の像」は1980年地元のライオンズクラブにより建てられた「鄭成功受降図」がもとで、その後ひざまずいて投降したオランダ人の像を立像に改めて、改名された。
 
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「御贔屓碑」右横の滝と流れ。
 
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「御贔屓碑」。
花崗石でできた亀の上に碑文が立てられ、その石碑の上部には竜が彫られている。
清朝乾隆帝時代1781年に台湾で林爽文事件が起き、陜甘総督の福康安に平定させた。1788年に乾隆帝は自ら筆を執って5編の詩文を書き、満州文と漢文で石碑を刻ませた。
石碑の額の上方には篆書体で「御製」と刻まれた額を咥えた龍の群れがあり、8匹の飛龍が左右両側を這いつたっている。龍の足の爪は皇帝だけが使える本数と同じ5本と格調が高い。
石碑の様式は、龍が生んだ9匹の子のうち、1匹が重荷を背負う神痛力を持つ亀に似た動物である贔屓になり、石碑を背負っているという伝説にちなんでいる。
 
以前は別の場所にあり、移築された。
 
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「御贔屓碑」左の円形アーチをくぐると、右の基壇上に、清の時代に造営された海神廟と文昌閣が建っている。
 
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「御贔屓碑」の裏側。海神廟の回廊から。
 
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小碑林。海神廟の基壇の城壁に陳列されている。
戦後、台南市歴史館となっていた時代に収集された石碑20数基が陳列されている。
 
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「断足の石馬」像。
清朝の武将であった鄭其仁の墓前にあった石の彫刻。
もともと鄭成功の墓前を守っていた石馬であったが、鄭成功の墓が福建省に移された後、鄭其仁が鄭成功の墓穴だった場所に埋葬された。石馬は、その墓を守ることを拒み、夜になると付近の田んぼを踏み潰すという災いを起こすようになり、怒った農民に脚を鋸で切られてしまい今の姿になったと伝わる。
 
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プロヴィンティア城正門跡。石馬の後ろにある基壇下部。
1944年の日本による修復時に発見された。かつての階段の跡が残っている。
 
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蓬壺書院。
1886年、文化と教育を提唱した沈受謙知事は、「引心書院」を赤崁の北側に移転して改修し、蓬壺書院と改名し、科挙試験に参加する学生の教育機関とした。
日本統治時代に地震の被害によち多くは倒壊したが、閩南様式の門庁(応接間)が残っている。
 
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蓬壺書院から眺める文昌閣と海神廟。
基壇にはプロヴィンティア城時代の主砦の基礎となる城壁が残存している。オランダ時代のレンガには、砂糖水、もち米汁、カキ殻の灰を調合したものが使われており、堅固な土台を築いている。
 
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プロヴィンティア城時代の遺構。
プロヴィンティア城は四角形の主砦に加え、東北側と西南側に堡塁が築かれた菱形の構造をして、防衛機能を高めていた。
東北側の堡塁跡に建てられた五子祠は台風により崩壊したが、1944年の改修時に堡塁の遺構が発見された。
 
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堡塁構造図。
煉瓦造の壁の厚さと防御構造を示す。
 
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昌閣の
2階から眺める海神廟。
海神廟は古式ゆかしい楼閣で、伝統的な「歇山重簷式」という屋根の先は、生き生きと水の中を踊る鯉の造型で飾られている。
 
文昌閣は1886年、台湾知事を務めた沈受謙により建立された。2階には学問の神である魁星爺が祀られている。現在でも試験の神として参拝する学生たちに姿が見られる。
 
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扁額「赤嵌樓」。海神廟
1階。
海神廟は1875年に牡丹社事件を受けて派遣された沈葆が海神の庇護を感謝するために建立した。
廟門の上の梁には黄杰による「赤嵌樓」の扁額があるが、文昌閣には沈受謙による「赤崁樓」の扁額があり、「嵌」と「崁」のどちらが正しいか論争となった。
 
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扁額「東海流霞」と鄭成功の肖像画。海神廟
1階。
「東海流霞」は鄭成功による五言詩「礼楽衣冠第、文章孔孟家、南山開寿域、東海醸流霞」(服装から人となりを判断し、生活の哲学は儒家に学び、南山のように長寿であり、最上の酒は東海で造られる)から採られた。
 
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瓶形の門。海神廟
1階。
海神廟東方の壁にあり、平穏無事という意味がある。
 
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ウサギと芭蕉の葉の図案。瓶形の門。海神廟
1階。
ウサギは月を表し、「玉兎東昇(長寿と子孫繁栄)」を象徴する縁起のよい図案である。芭蕉の葉は五行思想で木に属するもので、東方を象徴している。
 
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プロヴィンティア城復元模型。海神廟
1階。
 
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ゼーランディア城想像図。海神廟
1階。
 
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清時代後半の赤崁楼。文昌閣、五子祠、海神廟。海神廟
1階。
 
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扁額「海神廟」。海神廟
2階。
 
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ゼーランディア城時代の古絵図。海神廟
2階。
 
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昔の漢族楼船、広船、南京船、蒙衝船などの船舶模型。海神廟
2階。
 
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文昌廟の
2階と屋根。海神廟2階から。
海神廟と同じく、「歇山重簷式」という中国式建築様式で、屋根が弓なりに曲がり、屋根の軒先が緩やか空に向かって延びている。軒先の鯉の造形は水しぶきを上げている。
 
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文昌廟の屋根。海神廟
2階から。
獅子の威厳のある顔は厄除の意味を表す。
 
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海神廟
2階から南方向の風景。
 
1時間ほど見学して、南の祀典武廟へ向かった。

台湾 台南市 祀典武廟 祀典台南大天后宮 月下老人

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祀典武廟。
2016125()。台南市。
赤崁楼の見学後、南へ徒歩数分で祀典武廟に着いた。
1661年(永暦15年)に建てられたと伝えられ、関羽を祀っている。台湾では唯一祭典が行われる武廟であるため、祀典武廟とよばれる。
台南の武廟と孔廟は台湾で最も古く、かつ最も完全な形で保存されている古廟で、国家一級古跡に指定されている。
 
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祀典武廟。扁額の多さも特徴といわれる。
廟中で有名な「大丈夫」扁額は、《孟子》の「富貴、能く淫さず、貧賤、能く移さず、威武、能く屈さず、此れを大丈夫と謂う。」によるもので、気迫に満ちた「大丈夫」は府城四大名扁の一つに数えられている。
 
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祀典武廟。
関羽は理財に長け、簿記法を発明したことから「商業の神様」としても台湾の人々の信仰を集めているという。
 
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月老公。月下老人。祀典武廟。
縁結びの神様で月下老人を参拝する人のために金紙を売っている。受付で許願文に氏名、生年月日、住所などを書いて、金紙を購入してから参拝する。
 
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金紙を燃やす焼却炉は金爐とよばれる。
 
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金紙を燃やして祈願していた。
 
西へ徒歩数分の大天后宮へ向かった。
 
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大天后宮。
祀典台南大天后宮は媽祖を祀っている。大天后宮の前身は明王族の末裔である寧靖王朱術桂が住んでいた寧靖王府邸で、1683年清朝統治の時代には、「大天妃宮」として改築され、正式に媽祖を「大天妃」として祀るようになった。
西向きに建てられ、前殿から拜殿、正殿、後殿に至るようにできており、前から後ろに行くにつれて格式が上がる。
建物の前は商店街の駐車場のようになっていて、雑然としていた。
 
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屋根飾り。大天后宮。
中央は媽祖と思われる。
 
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屋根飾り。大天后宮。
航海の女神らしく、船の形をした飾り物が置かれている。
 
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大天后宮。
大天后宮は台湾で初めて政府が建てた媽祖廟である。
 
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大天后宮。
 
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媽祖像。大天后宮。
中国福建省から招いた職人が、2人分の背丈で地獄耳と千里眼を持つという媽祖像を彫り上げた。
 
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月下老人。大天后宮。
左奥の一室にある。
 
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月下老人。お礼の写真が所狭しと貼られている。
 
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月老公許願牌。大天后宮。
 
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布袋像と仏像。大天后宮。
西側には多くの部屋があり、道教系の神像が多いが、仏像が安置されている部屋が一つだけあった。
 
南東の気象博物館方面へ向かった。

台湾 台南市 日本統治時代の遺構 旧台南測候所 鶯料理店

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旧鶯料理店。
2016125()。台南市。
大天后宮から南東の旧台南測候所・気象博物館方面へ向かって歩き、北極殿を超えると、日本人の老男性二人がカメラ片手に散策して姿があった。その先に旧台南測候所と手前に、日本家屋が見えてきた。

これは、鶯料理店という高級料亭の一部で、大正15年に天野久吉が開業し、日本統治時代は上流社会の社交場として繁栄していたという。
 
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旧鶯料理店。
土地建物は1951年に国有になり、2008年に台風により敷地内の主な建物は倒壊したが、残った3分の1部分の建物を20137月に台南市が修復公開した。
10時から21時まで無料開放されているが、月曜日は休園らしく、門は閉じていた。
歩くとすぐに、旧台南測候所の裏手にある入口に着いた。
 
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旧台南測候所・気象博物館。
旧台南測候所は1898(明治31)年に落成した現存する台湾最古の気象観測施設で、中央の塔はその形状から「ペッパーミル(胡椒管)」の愛称で親しまれていたという。また、「鷲嶺台地」と呼ばれた当時の台南で最も高い場所に建造されたこの建物は、高層ビルがなかった頃の重要なランドマークでもあった。
 
日本統治時代においては台湾各地に測候所が設置されたが、台南測候所は唯一残った歴史的な測候所である。内部は、気象博物館として、草創期の気象観測史料のほか、ウィーヘルト式地震計も展示されている。
 
台湾人ガイドが常駐しており、案内してくれたが、中国語しか話せないのが残念。
 
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旧台南測候所・気象博物館。南側から。
1895年から始まった日本による台湾統治にあたり、台湾総督府はインフラ整備を展開した。その中で、台湾の経済と生活を掌握するためには、気象観測が極めて重要なポイントになると考えた。翌1896年、台湾総督府の通信課長であった土居通豫は中央気象台の協力の下、台湾に気象観測の設備を構築することを計画した。同年3月、台湾総督府民政局に測候所に関する部署が誕生した。同年712日、台北測候所、台中測候所、台南測候所、恒春測候所および離島の澎湖測候所の5つの測候所の所在地と名称が決定された。台湾測候所の予定地は、台南市中心部で最も標高が高い鷲嶺と呼ばれる地域と決まった。
 
1998年、気象観測業務を完全に終了し、同時に台南市政府から市定古跡に指定された。19世紀末の希少な大型建築物であり、同時期に建設された測候所は日本国内のものも含めてほとんど取り壊されている事などから、建物の大規模改修を経て2003年に内政部から国定古跡に指定された。
 
左の七階建ての建物は中央気象局台湾南区気象センターという新庁舎で、1階は現代の気象観測に関する博物館となっている。
 
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赤レンガの外壁。旧台南測候所。
建物はレンガ造りを基本とし、建造時には屋根に黒瓦が用いられていた。建造時に漆喰塗りだった外壁は赤レンガに変わっている。
 
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修復工事の状況、旧台南測候所。
1978年には新庁舎の完成で取り壊し案も出たが、歴史的価値があるとする職員から反対され中止となった。1998年に測候所としての役目を終えたが、同年に台南市が市定古跡に指定。2003年には国定古跡に昇格し、修復を経て2004年からは気象博物館として活用されている。
 
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構造模型。旧台南測候所。
主体は正十八角形の円形の建物と広い煙突塔楼の二部構成となっており、中央には白い円柱があり、環状の屋根は18 等分に分割している。屋根には扇形の黒い文化瓦を舗設して、18 面の環状外壁にも延伸している。
 
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旧状図。旧台南測候所。
屋根には扇形の黒い文化瓦を舗設して、18 面の環状外壁にも延伸している。
 
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旧状図。旧台南測候所。
下部の層は直径約15m、面積は約180㎡となっている。中央部からは直径約3m、高さ約6.5mの白色の塔(風力計)が突き出ており、塔の最上部まで含めた高さは約11.6mとなっている。
下部の層の屋根には塔から18本の隅棟が伸びている。
 
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室内配置図。旧台南測候所。
東西方向と中央の塔の外側に廊下が設けられ、塔を取り囲むように所長室、予報室、観測作業室、当番室、地震室、通信室など6つの執務室が設置されていた。
 
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内部。旧台南測候所。
精工舎の柱時計。台湾全土の気象観測所配置図。
 
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精工舎の柱時計。旧台南測候所。
 
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展示資料。旧台南測候所。
沿革史や当時の備品など。
 
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観測用の塔に昇る螺旋階段。旧台南測候所。
 
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中央塔と入口。旧台南測候所。
 
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地震計。
2倍強震計。旧台南測候所。
1933年から1988年まで観測した。
 
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地震計。旧台南測候所。
 
旧台南測候所を10分余り見学して、隣の気象センター1階の気象観測に関する博物館を見てから、ロータリー(湯徳章記念公園)方向へ向かった。

台湾 台南市 度小月坦仔麺 再発号 富盛号 金得春捲 湯徳章記念公園 旧台南州庁舎 嘉南農田水利会 旧台南警察署 

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太平境教会。
2016125()。台南市。
1879年に英国長老教会がこの地で日曜学校を開始したのち、現在の教会堂が1902年に落成した。1865年に最初に来台した宣教師のマクスウェル医師を記念し、マクスウェル記念教会と命名された。
 
旧台南測候所を見学し、ロータリー(湯徳章記念公園)方向へ向かうと、この教会が視界に入った。
 
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湯徳章記念公園。湯徳章銅像と奥に国立台湾文学館。
湯徳章(坂井章、19071947年)は、台湾の弁護士。日本人の父と台湾人の母の間に生まれる。
小学校卒業でありながら貧困の中、文官高等試験司法科・行政科に合格し、台南に戻って弁護士事務所を開設した。
1947年の二二八事件のさい、台南学生・市民を庇ったため、国民党政権により、日本統治時代には「大正公園」と呼ばれていた「民生緑園」で、銃殺された。
目隠しを拒否し、「目隠しも必要ない」「私には大和魂の血が流れている」と台湾語で叫び、最後に日本語で「台湾人バンザイ」と叫んだ。
民生緑園は、1998年に「湯徳章紀念公園」と改められ、湯章の胸像が設置された。
 
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国立台湾文学館。旧台南州庁舎。
元台南州庁は大正51916 )年、日本統治時期の台南州庁として落成した。建築家森山松之助の手がけた西洋歴史建築様式で、台湾総督府及び監察院と共に台湾における有名な建築の一つである。
 
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国立台湾文学館。旧台南州庁舎。
イギリスヴィクトリア朝の赤レンガや、ヨーロッパ風の石材建築をまねた建築で、正面のマンサード屋根や妻壁、両側の衛塔、ポルチコなど古典的な建築形式は当時の典型的な官衙建築を表している。
第二次世界大戦後、空軍司令部、台南市政府の所有となったが、1997年に市政府が転出後、修復され、2003 年に台湾初の国家級文学博物館として開館した。
月曜日休館とは分かっていた。
 
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嘉南農田水利会。旧嘉南大圳組合事務所。
1940年に嘉南農田水利組合により建設された。戦時中のため物資が以前のように豊かでなかったため、建築は装飾がないシンプルなL字型建築となっている。
烏山頭ダムや嘉南大圳等多くの土木工事開発計画に携わった八田與一(1886-1942)に関連する建物である。
 
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旧台南市警察署。旧台南警察署。
台南州庁の東側に、昭和6 年(1931 年)に落成した。
アール・デコの建築様式で建てられた。
台南市立美術館の建設予定地となっているようで、工事中であった。
 
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旧台南市警察署。元台南警察署。
せっかくなので、玄関部を覗いてみた。
 
北西方向にある度小月坦仔麺が11時開店なので、国立台湾文学館から北西へ向かうと、工事中の旧台南合同庁舎がある。
 
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旧台南合同庁舎。台南消防局中正分隊事務所。 
日本統治時代の台南合同庁舎で、中央にある塔は「御大典記念塔」といい、昭和天皇の即位を記念して昭和5 年(1930 年)建てられた。塔は当時の台南で最も高い建築物で、その後消防の監視台として使われるようになった。
昭和12 年(1937 年)に増築され、警察会館と錦町督察官吏派出所との合同庁舎となった。
 
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度小月坦仔麺(台南中正路本店)。
古都台南は美食の宝庫として知られる。11時からは、食べ歩きモードに切り替えた。歩き方の台南小吃(伝統的な軽食)案内を参考に歩いてみた。
旧台南合同庁舎前の道を西に数分歩くと、度小月の店員に呼び止められたが、通り過ぎてしまったが、振り返って度小月と気づいた。
 
台湾料理で最も有名な小吃といえば、担仔麵だが、台南で「度小月」店が創始したので、屋台から発展したこの店が発祥である。
台湾の漁師にとって、この夏場は非常に生活しにくい時期だったので、この時期に副業として麺やその他の店を出す人がたくさんいた。
この「度小月」の創業者の洪芋頭もかつては漁師で、この苦しい夏場(小月)を乗り越える(渡る=度)ために、この「担仔麵」を売り始めた。「担仔」とは担ぐという意味で、当時はお碗や食材のほかに椅子や机まで全てを天秤棒に担いで屋台を開いていたという。
 
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店内の様子。度小月坦仔麺(台南中正路本店)。
土作りの釜に木炭を炊いて、鉄鍋に木の蓋、陶器の甕、そして長年受け継がれてきた味の肉そぼろを使っている。現在の煮込み鍋もすでに数十年使い続けている。
 
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店内の様子。度小月坦仔麺(台南中正路本店)。
度小月はすでに4代目に受け継がれているが、昔ながらの提灯や腰掛け椅子はそのままという。
 
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メニュー。坦仔麺。
 
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メニュー。烤虱目魚肚(サバヒーの塩焼き)。
 
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坦仔麺。
度小月の肉そぼろは豚の後ろモモ肉と肩バラ肉から出来ていて、少量の麺に、肉そぼろとむきエビ、香菜をのせ、エビのスープと黒酢、胡椒を加えている。
名古屋の味仙「台湾ラーメン」は坦仔麺をもとにしたといわれる。たしかに似ていた。小さい碗は同じだが、味が甘くて薄い。やはり、日本人はラーメンに限ると思った。
ただ、食べ歩きには少量を多種という点では好都合かもしれない。
 
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烤虱目魚肚(サバヒーの塩焼き)。
サバヒー(ミルクフィッシュ)を塩だけで焼き上げたもの。虱目魚を一度食べたいと思っていた。見た目よりまろやかな味だった。
 
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八宝肉粽。再発号。
度小月坦仔麺から北へ歩く。再発号は清代の1872年に開店した老舗。
 
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八宝肉粽。再発号。
特級海鮮八寶肉粽には、アワビや干し貝柱、桜海老や栗の身など豪華な食材が使われていて具沢山でモッチリしている。腹一杯になってしまった。
 
さらに、北西のグルメ街國華街へ歩いた。
 
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國華街。金得春捲。富盛号。
赤崁楼の西にあるグルメ街。1230分頃だったので、人出が多い。
 
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富盛号。碗粿。
1947年開業の店は稲穂のマークが目印。
 
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碗粿。富盛号。
台南発祥の碗粿は茶色い。エビ、豚肉、しいたけ、卵黄など豊富な具材と米粉から作られたもちもちの生地が、甘めのソースによく絡んでいる。硬めのプディングのような食べ物。
 
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金得春捲。
1954年開業の老舗で、人気店なので行列が絶えない。店頭では春捲をせっせと作っている。
 
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金得春捲。
春捲には、豚肉、エビ、錦糸卵、キャベツ、そら豆、乾燥豆腐、セロリ、香菜など、盛りだくさんな具材が入り、ピーナッツ粉と砂糖をかけて包み、最後に軽く鉄板で皮に焼き目をつけてクレープのような形に出来上がる。甘く、ボリューム満点な分量。
 
安平へ行くため、赤崁楼前のバス停へ歩く。バスの本数が少ないので待ち時間が長かった。

台湾 台南市安平 徳記洋行 安平樹屋

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徳記洋行。
2016125()。台南市安平。
赤崁楼前のバス停で安平方面行きの88番バスに乗車。台湾運河の周囲を回り、清朝の名臣、沈保禎により1874年に建てられたフランス式の要塞である億載金城の外壁を眺めながら、安北路の安平古堡バス停に1350分頃到着。時間がないので、徳記洋行・安平樹屋と安平古堡のみ見学する予定。安平樹屋はミシュランの二つ星でトリップアドバイザーでも一番人気。
安平古堡バス停からは北へ徒歩5分ほどと近い徳記洋行・安平樹屋をまず見学することにした。
 
徳記洋行はアヘン戦争後、1865年に開港された安平に1867年に設立されたイギリス商人の貿易会社で、茶葉の輸出業および保険と銀行の代理業を経営して、安平五大洋行の一つとよばれた。
日本統治時代、アヘンと樟脳が日本の専売になると、。アヘン、樟脳、砂糖などの大口取引を扱っていた外国商社は次々と撤退し、徳記洋行の土地・建物は1911年台湾製塩株式会社が買収し、戦後は台湾製塩総工場の事務庁舎として使った。1979年からは蝋人形館、現在は貿易史の資料館として開放されている。
 
西洋風の2階建ての白い建物は南向きに建てられ、以前は行員宿舎として使用されていた。屋根はトラス構造で瓦が敷かれ、左右二つの屋根からなる四つの傾斜で排水がされている。
1階は通路を挟んだ左右にそれぞれ3部屋あり、東西南の三方は周囲に拱廊(アーケード)が廻らされている。2階は1階と同様の構造であるが、回廊の欄干には緑釉瓶の装飾が施され、白い漆喰の壁と相まって、東洋と西洋の建築様式が入り混じっている。
 
右側の入口から入り、政治家・書家の朱玖瑩の旧居で書を見てから、徳記洋行へ。
 
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徳記洋行。小学校のグラウンドの先に安平古堡の塔が見える。
西洋人が台湾で建設した家屋の多くは拱廊が採用され、雨水と日差しを避けるためにアーチが設計の重要な要素として取り入られた。徳記洋行はその代表的な例である。
 
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徳記洋行。内部。
 
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徳記洋行。内部。
 
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徳記洋行の招牌(看板)。昭和
31928)年。
旧台南市入船町に掲げられていたもの。入船町は安平港から台南市内に開かれた5本の運河が流れ込んでいた五條港地区にあった。
 
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安平樹屋。
徳記洋行の裏手にある安平樹屋へ。安平樹屋は同じ敷地にある徳記洋行の倉庫跡で、日本統治時代は大日本塩業株式会社安平出張所の倉庫とされていた。
ガジュマルが建物の内外に絡みつく様子が熱帯の廃墟跡を想像させ、人気がある。
 
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安平樹屋。
ガジュマルの木の樹幹は壁に沿って成長していき、枝や葉が屋根になって、天然の芸術作品のようになっている。
 
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安平樹屋。
 
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安平樹屋。
 
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安平樹屋。
屋上部には遊歩道が設けられている。
 
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安平樹屋。
 
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安平樹屋。
 
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安平樹屋。
 
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安平樹屋。
 
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安平樹屋。
 
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安平樹屋。
 
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安平樹屋。
 
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安平樹屋。
 
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ブリッジ歩道と安平樹屋。
樹屋の端にはブリッジ歩道の先に展望台が設けられている。池には足踏み式水車が置かれている。
 
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展望台からの眺望。塩水渓が流れている。
 
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展望台からの眺望。
かつての五條港の運河の出口にあたる場所で、清代には外国船が出入りしていたが、徐々に土砂が堆積して運河の機能は失われた。
台江内海にはマングローブが繁茂している。
 
安平古堡へ向かう。

台湾 台南市安平 安平古堡 陳家蚵捲

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安平古堡の空撮図。
2016125()。台南市安平。
安平樹屋の見学後、南へ10分ほど歩いて安平古堡の入口に着いた。
 
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オランダ統治時代のゼーランディア城の模型。安平古堡。
安平古堡は1624年にオランダ人により建設され、オランダ統治時代はゼーランディア城(熱蘭遮城、台湾城)といわれ、オランダ東インド会社による台湾統治と対外貿易の拠点であった。
 
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安平古堡。
ゼーランディア城は行政の中心である「内城」と防衛用の「外城」で構成されていた。
 
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ゼーランディア城の城壁跡。
古堡の西北側に、高さ約10mの壁が残る。
建設当時はセメントがなかったので、もち米汁、砂糖水、牡蠣殻灰、砂などから作られた三合土で築造された。
古い壁の上には梁の部分を固定し安定させ、脱落防止のために取り付けた「鉄ばさみ」、別名「壁鎖」という遺構も見ることができる。
 
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史跡記念館と展望台。
明の永暦16年(1662年)、明の遺臣・鄭成功はオランダ人を駆逐し、台湾史上初めて漢人による政権が樹立された。鄭成功は熱蘭遮城を安平城と改称し、鄭氏政権3代にわたって支配者の居城となり「王城」と呼ばれるようになった。
1683年、清による台湾統治が開始されると、政治の中心は城内に移り、安平城は軍装局として用いられ、城砦の重要性は漸次低減、改修が行なわれることなく次第に荒廃していった。1874年、牡丹社事件後、派遣された沈葆は、台湾海防の充実のために安平城城壁を二鯤身に運搬、億載金城建設の資材とした。
 
日本統治時代、1896年に日本は安平税関の宿舎施設とするため、レンガを積み上げて現在の3段の平台を造成した。上部には安平税関高官の公邸が造られたが、1930年に洋風の迎賓館に改築されて、現在は史料館となっている。
展望台は1908年に移築した清代の灯台をもとに、1975年に上部の三角屋根を追加したものである。
 
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安平古堡石碑。旧浜田弥兵衛功績碑。
1638年に、関税撤廃を要求してオランダ行政長官を捕え長崎に入牢させた日本人商人浜田弥兵衛の事績を記念して日本統治時代に「贈從五位濱田彌兵衛武勇之趾」と刻まれた石碑が建てられたが、戦後「安平古堡」と書き換えられた。
 
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ゼーランディア城。古絵図。史跡記念館の展示。
 
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年のゼーランディア城。古絵図。史跡記念館の展示。
 
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オランダ人の武器。史跡記念館の展示。
 
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鄭成功軍の武具・武器。史跡記念館の展示。
 
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展望台。
赤い屋根のタワー型建築で、高さは約6mある。修理工事中のため立入り禁止。
 
安平古堡を20分ほど見学し、外に出た。
 
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陳家蚵捲。
安平古堡から東南へ徒歩数分の角地にある。台南で初めて蚵捲(カキの巻き揚げ)を売り出した有名店。
 
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蚵捲(カキの巻き揚げ)。陳家蚵捲。
店内に入り、注文の方法が分からずにまごついていたら、台湾人の若い女性に、伝票に記入して、先に注文と会計を済ませることを教えられた。
要するにカキフライで、私の大好物なので美味い。

1515分になり、台南市街の見所が残っている。豆花は前夜、台南駅前の屋台街で食べたので、有名店の「安平同記豆花」と「周氏蝦捲」は諦めた。
 
北へ10分ほど歩いて、東にある安平古堡のバス停へ着いた。15分ほど待って、バスに乗り、台南市街へ帰った。

台湾 台南市 旧・日本勧業銀行台南支店 林百貨 旧・台南山林事務所 台南武徳殿 台南孔子廟 旧・台南愛国婦人会館  

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旧・日本勧業銀行台南支店。現・台湾土地銀行台南分行。
2016125()。台南市。
安平樹屋、安平古堡を見学し、陳家蚵捲でカキフライを食べたあと、安平古堡のバス停から台南市街へ戻り、赤崁楼で下車し、南へ歩く。
台南には日本統治時代の建物が多く残っている。まず、旧・日本勧業銀行台南支店へ。
 
1998 年に市指定古跡と公告された旧日本勧業銀行台南支店は、中正路と忠義路交差点にあり、林百貨と向かい合っている。当区は日本統治時代に府城地区で最も繁栄していた町で、戦後は該当建築は土地銀行の支店として現在まで使用されている。
 
日本統治時代、大阪中立銀行、日本銀行、勧業銀行が続々と台湾に営業拠点を設置し、勧銀は昭和3年に台南支店を設立、昭和12年に現在の場所(当時の白金町と末広町の銀座通り)に移転した。
この建物は銀行営繕課が自ら設計したもので、近代的洋風建築ではあるが、道路に面した柱の列はギリシャ神殿様式のドーリア式の石柱が並び、銀行建築らしく重厚で落ち着いた外観を示している。
 
旧・日本勧業銀行台南支店。
道路に面した柱の内側の歩道部分の天井には「藻井」と呼ばれる、中央に花飾りがついた四角形の枠のような装飾が施されている。
 
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林百貨。ハヤシ百貨店。
林百貨店は1932年山口県出身の実業家である林方一により創業された。林方一は明治16(1883)生まれ、明治45(1912)に台湾に渡り、呉服店を開業した。経営が軌道に乗り、莫大な利益を上げたのち、昭和7年(1932年)1215日、ハヤシ百貨店は、通称「銀座通り」と呼ばれていた台南一の目抜き通りであった末広通りに南台湾初の百貨店としてオープンた。しかし林氏は百貨店オープン直前に病で倒れ、自らハヤシ百貨店のオープンを見ることなく、19321210日に台北で亡くなった。
日本統治時代の台南において唯一近代的エレベーターを備えていた建物は、現地人にとっては嫁入り道具を購入するトップクラスの商店で、台北市栄町の菊元百貨店と並び南北二大百貨ビルともいわれていた。
 
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林百貨。
設計者は石川県出身の建築家で、当時台南州地方技師兼台湾建築会台南州支部長の梅沢捨次郎。
建物は鉄筋コンクリート造の6階建てだが、最上階の面積が小さく5階建てに見える。
当時はむき出しのコンクリートが一般の人々に受け入れられず、壁面に石やタイル貼りを使って、石とレンガの模様に似せる工夫をした。
 
1-4階は売場、5階にレストラン、屋上階6階に機械室と展望台、そして屋上庭園と神社があった。建築技術も材料も当時最先端のものがふんだんに使われている。
194531日、連合国軍による大規模な空爆で、屋上、神社、外壁、床などが損傷した。
戦後建物は改修され、台湾製塩総工場、中華民国空軍および警官の派出所などに使われたが、1980年代から空きビルとなっていた。
 
台南市により1998年、市定古跡に認定され、2010年から修復作業が行われ、2014614日に、特産品販売施設「林百貨」として開業、文化創作の新しいスタイルの百貨店として再活用されている。
 
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階エレベーター乗り場。6人乗りで、針式の階数表示板が当時の雰囲気を残す。
 
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階屋上に登ると台南の街の景色を望むことができる。
 
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階屋上。デパートの屋上には神社があった。
祭られていたのは商売繁盛の神様であるお稲荷様で、神社は開業の半年後に完成し、一般には公開されなかったが「末広社」と呼ばれ、産業の守り神として信仰の対象となっていた。
周りに置いてある黒っぽい石は当時のままで、当時6階は一般客への開放はしておらず、関係者のみがこの神社へ参ることができたという。
 
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階屋上。エレベーター機械室。
透明ガラスからはエレベーターが眺められるというが、立入りはできない。
 
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階。中庭があり、レストランフロアとなっている。
 
帰りはエスカレーターで下った。南の孔子廟方面へ歩く。
 
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旧・台南山林事務所。現・葉石濤文学記念館。
山林事務所は1925年の日本統治時代に建てられた2階建ての洋館で、赤レンガの壁と窓の装飾が目を引く。大きな庇は雨が多く日差しが強い南台湾の気候に適したもので、建物の最大の特徴となっている。
 
明治35年(1902年)、台湾総督府殖産部は林務課を設置し、1925年台南に林業の育成と管理を担う樹苗養成所を設立した。旧台南山林事務所は昭和6年(1942年)曾文溪森林治水所を合併し、台南山林事務所と改名し、二年後に再び「台南州産業部林務課」に改名された。戦後は南農林区管理処、台湾省林務局嘉義林区管理処台南工作站となり、工作站が移転した後は、台南市政府が建物を引き継ぎ、現在は、台南出身の葉石濤(1925年~2008年)の文学記念館となっている。
 
通りをはさんで南側に台南武徳殿がある。
 
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台南武徳殿。裏側。
日本統治時代、武道と尚武精神を広めるため、大日本武会が台湾各地に武殿を建てた。台南武殿は大正公園(現・湯徳章記念公園)の東側にあったが、昭和111926)年にこの場所に建設され、神社外苑と同時に落成式が行われた。
鉄筋コンクリート造だが、伝統的木造建造に似せた建築様式である。現在忠義小学校の講堂として使用されている
 
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台南武徳殿。正面南側。
唐破風が見事な装飾となっている。武殿の2階西側は柔道などの武道場、東側が剣道場になっていて、北側には祭壇が作られており、現在も使用されている。
 
台南武徳殿脇の路地を南へ抜けると孔子廟への近道となる。
 
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台南孔子廟。文廟。大成門。
台南孔子廟は、鄭氏王朝の1665年に陳永華によって創建された孔子廟である。台湾で最も古い孔子廟で、「全台首学」とも称され、台湾における学問の発祥の地である。
1665 年の初建時には大成殿のみ建設して、孔子を拝んでいたが、その後講学の場所として明倫堂を建設した。清領時代、孔廟は政府主催の台湾府学とされ、若者たちにとっての最高学府となって、「全台首学」と呼ばれるようになった。
 
台南孔廟の造りは標準的な左学右廟で、廟堂部分は三進両廊式の建築で、外には礼門、義路、東・西大成坊や、泮池、泮宮石坊もあり、台湾で唯一泮宮石坊を有する文廟である。泮宮は古代の諸侯が開設した学校で、石坊は孔廟と学校の結合を象徴している。
 
文廟の中には孔子を祭る大成殿があり、その大成殿の前には大成門という門がある。門には文字が書かれた額はなく、孔子の前で字を書くのは恐れ多いからだとされる。また。中央の門扉は祭礼のときや、皇帝が孔子廟に来たときなどのみ開けられ普段は閉められている。
 
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台南孔子廟。文廟。大成殿。
中には孔子が祭られており、孔子の弟子の四配や十哲の位牌も祭られている。大成殿の中には清朝歴代皇帝の額が8つと、中華民国歴代総統の額が5つ飾られている。歴代皇帝や総統の額があるのはこの台南の孔子廟だけだという。
 
孔子廟の南の大通りの南側に旧・台南愛国婦人会館がある。
 
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旧・台南愛国婦人会館。現・台南市政府文化局「文創
Plus-台南創意センター」。
1940年に建設された。
日本の愛国婦人会は、1901年に兵士の慰問,遺族救護の目的で創立された。北清事変の際,慰問使として従軍した奥村五百子が主唱し,皇妃を総裁に,軍部や内務省に後押しされて上流婦人を組織した。創立趣意書は下田歌子が起草。
日露戦争中に一般女性にまで組織を拡張,慰問袋作り,兵士送迎などに女性を動員した。05年には会員数46万人に達した。貴族主義的性格を不満とする軍部の指導で32年に設立された国防婦人会と対抗しつつ,戦時体制づくりに積極的に協力した。1942年大日本婦人会に統合された。
 
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建築模型。旧・台南愛国婦人会館。
北棟と南棟からなり、前者は婦人会館、後者は宿舎で、その間は通路でつながっている。
婦人会館は戦後、中国国民党台南市党本部、アメリカ政府報道局に貸し出された。
 
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階への階段と玄関。旧・台南愛国婦人会館。
 
階段の手すり。旧・台南愛国婦人会館。
 
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階への階段。旧・台南愛国婦人会館。
 
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階広間。旧・台南愛国婦人会館。
 
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階の部屋。旧・台南愛国婦人会館。
 
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莉莉水果店。旧・台南愛国婦人会館の西隣にあるが、月曜日定休であった。
 
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フルーツかき氷。
莉莉水果店でかき氷を食べられなかったので、通りを東に歩いて、かき氷店を見つけて食べた。
 
台南孔子廟あたりで台南駅行きバスを待ったが、さっぱり来ないので、ロータリー経由で歩いて、駅前のホテルへ帰った。途中の屋台街で食事をとった。
翌日は烏山頭の八田與一記念公園を見学して、台北へ戻る行程。

台湾 台南市 台南駅 烏山頭水庫 八田與一記念公園

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台南駅前ロータリー。
2016126()。台南市。
右側の大きなビル内にある鉄道大飯店に2泊した。
本日は八田與一記念公園などがある烏山頭を見学して、台北へ戻る行程。ネットで鉄道・バスの時刻を検索した末、台南駅76分発、善化駅728分着、烏山頭水庫行きバス750分に乗車し、820分ごろ烏山頭水庫に到着という行程とした。
 
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台南駅。
1936(昭和11)年、現駅舎が竣工した。設計は総督府鉄道部技師の宇敷赳夫で、明治からの赤煉瓦を使った古典様式とは違い、昭和初期のモダニズム建築の様式で近代的な感覚が取り入れられており、政府から古跡に指定されている。
2階に鉄道ホテルとレストランが営業していたが、現在は閉鎖されている。駅の地下化が予定されており、現在の駅舎は保存、2階部分の鉄道ホテルは復元される見通しである。
 
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善化駅と烏山頭水庫行きのバス停。
烏山頭水庫行きのバスには台南芸術大学の学生も乗車して、大学前で降車していった。
 
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烏山頭水庫。ロータリーと入口。台南市。
バス停はロータリーにある。830分過ぎに着いたが閑散としていた。入場料は閑散期のせいか割引価格だった。日本語付きの地図リーフレットを貰い、まず、左側にある八田與一記念公園へ向かう。建物もない広い原野の中にある幅の広い車歩道を15分近く歩いて、ようやく記念公園の入口に着いた。
 
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八田與一記念公園。入口。
園路の先に建物が見える。
 
台湾の人々に尊敬されている八田與一(18861942年)は、石川県金沢市に生まれ、四高を経て、1910年に東京帝国大学工学部土木科を卒業、台湾総督府内務局土木課の技手となった。当初は、台湾各地の上下水道の整備を担当、のちに、発電・灌漑事業の部門に移った。八田は、当時着工中であった桃園大圳(たいしゅう)の水利工事を一任され、水利技術者として高い評価を受けた。31歳のとき、故郷金沢の開業医米村吉太郎の長女・外代樹(とよき)(当時16歳)と結婚した。
 
1918年(大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。嘉南平野は広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるため田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。
八田は官田渓の水をせき止め、隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を提出し、国会で認められた。事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施工し、半額を国費で賄うこととなった。八田は国家公務員の職を辞して、組合付きの技師となり、1920年から1930年まで、工事を指揮し完成させた。大貯水池・烏山頭ダムと水路は嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。
 
1939年、八田は台湾総督府に復帰したが、19425月、フィリピンの綿作灌漑調査のため、現地へ向かう途中、乗船がアメリカ海軍の潜水艦により撃沈され、死亡した。194591日、妻の外代樹は夫の後を追うようにして、烏山頭ダムの放水口に投身自殺を遂げた。
 
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八田與一記念公園。防空壕。
 
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八田與一記念公園。展示館外の案内。国を越えた愛。シラヤの土地の物語。
シラヤ族(西拉雅族)は台湾原住民の一つであり、平埔族の一支族に分類される。烏山頭や関子嶺温泉のある地区がシラヤ国家風景区で、国分直一の著作『壷を祀る村』で語られる村はこの地方である。安平や台南市街地に住んでいたが、オランダ人や漢族に圧迫され、移住を余儀なくされた。
展示館で、シラヤ国家風景区の折り畳み地図を入手した。
 
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国を越えた愛。シラヤの土地の物語。                    (拡大可)
馬英九総統が、2009年に八田がダム建設時に住んでいた宿舎跡地を復元・整備して「八田與一記念公園」を建設すると宣言、201158日に完成し、公開された。記念公園は約5万平方メートルで、4棟の宿舎が一般公開されている。
 
嘉南大圳の工事は1920年に開始された。烏山頭宿舍および関連施設は同年9月に建設が開始され、翌年完成した。宿舎は独立棟、2棟続き、4棟続き、8棟続きの4種類で、合計で68棟、234世帯が入居可能であった。当時このエリアには約2000人が生活していた。
短期間で宿舎を建設するため、木材を角材に処理せず、原木の2面または3面のみを切削する「太鼓挽き」とするなど、簡単な工法で工期を短縮した。
 
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八田與一記念公園の主要施設。展示館内の模型。
下部は左(西)からテニスコート、展示館、購買部建物。上部が復元宿舎で、左から「市川及び田中邸」、「八田邸」、「赤堀邸」、「阿部邸」。
見学路は展示館と購買部建物の間を抜け、宿舎群に至る。
 
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烏山頭職員宿舍略圖。展示館。中央右側に八田邸など。   (拡大可)
 
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烏山頭職員宿舍群の説明。展示館。
ダム建設関係者住宅区には家族全員が住める宿舎や共同浴場、商店や娯楽施設(テニスコートや広場、映画館)、学校や医療所も作られた。
 
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復元された宿舎
4棟。中心に「八田邸」。左が「市川及び田中邸」の一部。
 
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「八田邸」。
 
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「八田邸」。説明。
北国新聞社と「仰慕八田技師夫妻及台灣友好會」が共同で、日本各地から家具を集め、タンスは21組、小物は163点もの骨董品が集まった。
 
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「八田邸」。玄関のプレート。
 
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「八田邸」。室内。
 
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「八田邸」。室内。
19358月、台北時代の家族写真。子供は8人いた。
 
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「八田邸」。室内。八田技師の書斎。
 
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「八田邸」。北の池と庭。
家の裏には、池のある庭があり、池の中央付近に、石の燈籠が置かれていた。八田家の跡地で唯一残っていたのが、この燈籠の土台だけで、上部は田中・市川宅に移動していたのを探し出して復元した。
池の部分を掘り起こすと、当時の池のふちの石が残っていた。池は、当時の写真などを元に遺族から聞いた内容から復元した。八田技師は、花が好きだったそうで、来客が来たときは花がきれいに咲いた自慢の庭へ案内したという。
池の造成方法が雑然としていたのは残念であった。
 
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「市川及び田中邸」。
 
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「市川及び田中邸」。説明。
2家族が住んでいたので、日本式家屋が2棟続く形になっていて、入口が2つある。
 
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「赤堀邸」。
八田邸および他の3棟のうち1邸が交代で公開され、他の2棟は公開されない。
 
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「赤堀邸」。説明。
 
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「阿部邸」。赤堀邸から。
当時は堰堤係長であった阿部貞壽が住んでいた。阿部は後に八田技師の後を継いで烏山頭出張所長に就任した。阿部の離職後は、倶楽部として使用され、招待所の役割も兼ねていたため、宿泊者は食事の提供も受けることができた。
 
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「絆の桜」石碑。
201258日の完成式典には、馬英九総統や八田の故郷・石川県出身の元内閣総理大臣・森喜朗が参加した。
 
途中から、ボランティア・ガイドの女性がたどたどしい日本語で案内してくれた。彼女が「分からないものがある。」と言って、私をテニスコートの端に連れてきた。「日本語の文字が分からない。」と言うので、教えた。「絆」という文字が分からないらしい。字が下手なせいのかと思ったが、「絆」という文字は日本独特の文字のようだ。
 
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テニスコートの端にある「絆の桜」。
まだ若木だった。
近くにある展示館へ向かった。

台湾 台南市 国立台湾歴史博物館 日本統治時代 戦前の台湾紹介映像 教育勅語

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国立台湾歴史博物館。
再現された日本統治時代の家屋や街並み。雑貨店、呉服店、写真館、喫茶店、診察所など。
2016124()。台南市安南区。
 
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鳥居龍蔵とヤミ(タオ)族の船。
1897年。
鳥居龍蔵は明治291896)年に東京帝国大学から派遣されて、台湾での人類学調査に着手し、1911年までの間に、5回の調査を実施し、原住民族の言語・風俗・習慣を記録し、多くの写真を撮影した。
 
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1913
(大正2)年のタイヤル族キナジー蕃との戦闘。
2,778名の軍・警察が出動、245名の死傷者を出し、1,368挺の銃と1万2,469発の弾薬を押収した。
1906(明治39)年から1915まで第5代台湾総督を務めた佐久間左馬太は銃器押収を主眼とする五ヶ年計画理蕃事業を推進し、1914(大正3)年の「タロコ戦役」まで、原住民族との戦闘が続いた。
 
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蕃童教育所。日本統治時代の台湾において設置された台湾原住民児童に対する初等教育機関であり、教師は全て日本人警察官が兼務した。
台湾人の子弟への第一段階の教育機関は公学校である。
 
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原住民族。
 
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霧社事件。霧社公学校校長官舎での惨状。
19301027日に台湾の台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で起こった台湾原住民セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした6つの社300人が、霧社公学校の運動会を襲い日本人約140人が殺害された。日本時代後期における最大規模の抗日暴動事件。

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霧社事件での投降を呼びかけるビラ。
「ハヤクコウサンスルモノハ、コロサナイ。コウサンスルモノハ、テツポウヲすて、リヨウテヲアゲテ、マヘボバンシャヘデテコイ。」
カタカナで書かれているのは、原住民族たちに主としてカタカナで教育を行っていたためである。
 
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米糖相剋問題。
台湾米の日本への輸出が成功したため、農民たちは米の増産に励んだため、サトウコビの生産が減少した。総督府は砂糖の生産コストを下げるため、砂糖会社の収益を確保するため、サトウキビ生産を増やす各種の方策を講じた。
 
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ポスター。銃後の総親和。第2回総選挙。台湾自治協会。
193511月地方自治議会議員の第1回総選挙が実施された。選挙権は25歳以上で選挙区に6か月以上居住し、毎年5ドル以上の税を支払った男性のみに制限されていた。
被選挙者は公学校卒業者で日本語に堪能なものに限られた。総督府の努力により、投票率は95.9%に達した。
 
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選挙標語。
 
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公学校高等科国語読本巻一。総督府発行。
 
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優等生になれる国語の新研究。第五学年用後期。台湾図書株式会社発行。
 
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教育勅語。                                                                      (拡大可)


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公学校用国語読本。
 
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公学校修身書。
 
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ポスター「南無警察大菩薩」。台北州警察衛生展覧会(
1925年)写真帖(1926年)より。
左手に数珠。右手に剣。「左側通行」、「思想取締」、「犯人逮捕」、「救助救護」、「蕃人授」、「惡疫豫防」という警察の六大任務を示す 

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再現された嘉義市東門町派出所。

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嘉義市東門町派出所。
2010年歴史建築に指定。面積約20坪。事務所1部屋、居間3部屋。留置所はない。赤色灯。樋。ポーチ。

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日本帝国海外旅券。明治39
9月発行。

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渡邊台湾キャラメル。富士印グラニュー糖缶。
 
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タカサゴビール。
 
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仁武丹。
 
17時頃に博物館を出て、路線バスに乗り、台南駅前に戻った。宿泊は駅前の鉄道大飯店。2泊で4482円。欧米個人客の利用も多い。朝食は下のコンビニとコーヒー店を利用でき便利だった。歩き疲れたので、夕食は南に徒歩10分ほどの屋台街を利用。翌日は月曜休みの飲食店があったので、失敗した面もあった。台南はもう一度訪れてもよい町なので、良しとしよう。

台湾 台南市 赤崁楼 海神廟 文昌閣 御贔屓碑 断足の石馬 瓶形の門

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赤崁楼。海神廟とその前に立つ
9基の石碑「御贔屓碑」。
201612月5(月)。台南市。
宿泊は駅前の鉄道大飯店。朝食券でコーヒーを飲めるので、8時頃にコーヒースタンドへ行くと、10人ほどが待っていた。女性職員が来たが、すぐには飲めないので同金額で栄養ドリンクと缶コーヒーをゲット。翌朝もこの手を使った。
前日昼に台南駅に着いたときに、駅前の観光案内所で多くのパンフレットを入手した。今回回った観光地では一番優れていた。
830分に駅前のバス停から台湾好行88安平線に乗車し、赤崁楼で下車。昼頃気付いたが、安平行きの本数は少ないので、先に安平へ行ったほうが良かった。古都台南では赤崁楼観光がまず思い浮かぶ。ホテルで見たトリップアドバイザーでは安平樹屋が一番人気がある。
日本人シニア夫婦も赤崁楼で下車したが、赤崁楼へ入らずに西へ歩いていった。美食の街台南では朝からグルメが人気である。入口で日本語の詳細なリーフレットを貰った。
 
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赤崁楼。鄭成功和議の像と海神廟。
明時代1653年に台湾南部を占領したオランダ人によって築城され、当初は「プロヴィンティア」(Provintia、普羅民遮城)とよばれた。
1624年、澎湖を拠点に明と争っていたオランダと明の間に講和が成立し、オランダは澎湖の経営を放棄し、その代替地として台湾南部に上陸し、「ゼーランディア」(Zeelandia、熱蘭遮城、現・安平古堡)を築城して商館や砲台を築き、台湾統治の中心とした。
 
1625年にオランダ人は布15束で原住民から赤崁の土地を買い取り、商館、市街、倉庫、病院を設置して普羅民遮街と名付けた。
 
1652年にオランダ人による統治への不満により、「郭懷一事件」が発生すると、オランダ人は事件の再発を防止するために、周囲約141m、城壁高さ10.5mの城砦「プロヴィンティア城」を建築し、行政と商業の中心とした。
 
1661年鄭成功がプロヴィンティアを攻撃し、鄭成功は普羅民遮城を東都明京と定め、承天府を設置し、台湾全島の最高行政機関とした。
 
1664年に東都承天府が廃止されると、赤崁楼は火薬貯蔵庫として用いられるようになり、人為的な破壊、風雨による侵食、地震による被害を受け赤崁楼は周囲の城壁を残すのみにまで荒廃した。
1886年台湾の沈受謙知事が赤崁楼の跡地に文昌閣、五子祠を建立、海神廟を修復し、西側に蓬壷書院を建設し、昔日の様子を取り戻すようになった。日本統治時代には陸軍の衛戍病院及び医学生の宿舎として利用された。
 
1921年、台湾総督府により大士殿の解体修復が行なわれた際、プロヴィンティア時代の堡門が発見され、また東北部からはオランダ時代の砲台跡が発掘され、歴史館が設置された。
戦後は修復が重ねられて、現在の外観となった。
 
「鄭成功和議の像」は1980年地元のライオンズクラブにより建てられた「鄭成功受降図」がもとで、その後ひざまずいて投降したオランダ人の像を立像に改めて、改名された。
 
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「御贔屓碑」右横の滝と流れ。
 
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「御贔屓碑」。
花崗石でできた亀の上に碑文が立てられ、その石碑の上部には竜が彫られている。
清朝乾隆帝時代1781年に台湾で林爽文事件が起き、陜甘総督の福康安に平定させた。1788年に乾隆帝は自ら筆を執って5編の詩文を書き、満州文と漢文で石碑を刻ませた。
石碑の額の上方には篆書体で「御製」と刻まれた額を咥えた龍の群れがあり、8匹の飛龍が左右両側を這いつたっている。龍の足の爪は皇帝だけが使える本数と同じ5本と格調が高い。
石碑の様式は、龍が生んだ9匹の子のうち、1匹が重荷を背負う神痛力を持つ亀に似た動物である贔屓になり、石碑を背負っているという伝説にちなんでいる。
 
以前は別の場所にあり、移築された。
 
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「御贔屓碑」左の円形アーチをくぐると、右の基壇上に、清の時代に造営された海神廟と文昌閣が建っている。
 
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「御贔屓碑」の裏側。海神廟の回廊から。
 
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小碑林。海神廟の基壇の城壁に陳列されている。
戦後、台南市歴史館となっていた時代に収集された石碑20数基が陳列されている。
 
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「断足の石馬」像。
清朝の武将であった鄭其仁の墓前にあった石の彫刻。
もともと鄭成功の墓前を守っていた石馬であったが、鄭成功の墓が福建省に移された後、鄭其仁が鄭成功の墓穴だった場所に埋葬された。石馬は、その墓を守ることを拒み、夜になると付近の田んぼを踏み潰すという災いを起こすようになり、怒った農民に脚を鋸で切られてしまい今の姿になったと伝わる。
 
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プロヴィンティア城正門跡。石馬の後ろにある基壇下部。
1944年の日本による修復時に発見された。かつての階段の跡が残っている。
 
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蓬壺書院。
1886年、文化と教育を提唱した沈受謙知事は、「引心書院」を赤崁の北側に移転して改修し、蓬壺書院と改名し、科挙試験に参加する学生の教育機関とした。
日本統治時代に地震の被害によち多くは倒壊したが、閩南様式の門庁(応接間)が残っている。
 
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蓬壺書院から眺める文昌閣と海神廟。
基壇にはプロヴィンティア城時代の主砦の基礎となる城壁が残存している。オランダ時代のレンガには、砂糖水、もち米汁、カキ殻の灰を調合したものが使われており、堅固な土台を築いている。
 
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プロヴィンティア城時代の遺構。
プロヴィンティア城は四角形の主砦に加え、東北側と西南側に堡塁が築かれた菱形の構造をして、防衛機能を高めていた。
東北側の堡塁跡に建てられた五子祠は台風により崩壊したが、1944年の改修時に堡塁の遺構が発見された。
 
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堡塁構造図。
煉瓦造の壁の厚さと防御構造を示す。
 
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昌閣の
2階から眺める海神廟。
海神廟は古式ゆかしい楼閣で、伝統的な「歇山重簷式」という屋根の先は、生き生きと水の中を踊る鯉の造型で飾られている。
 
文昌閣は1886年、台湾知事を務めた沈受謙により建立された。2階には学問の神である魁星爺が祀られている。現在でも試験の神として参拝する学生たちに姿が見られる。
 
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扁額「赤嵌樓」。海神廟
1階。
海神廟は1875年に牡丹社事件を受けて派遣された沈葆が海神の庇護を感謝するために建立した。
廟門の上の梁には黄杰による「赤嵌樓」の扁額があるが、文昌閣には沈受謙による「赤崁樓」の扁額があり、「嵌」と「崁」のどちらが正しいか論争となった。
 
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扁額「東海流霞」と鄭成功の肖像画。海神廟
1階。
「東海流霞」は鄭成功による五言詩「礼楽衣冠第、文章孔孟家、南山開寿域、東海醸流霞」(服装から人となりを判断し、生活の哲学は儒家に学び、南山のように長寿であり、最上の酒は東海で造られる)から採られた。
 
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瓶形の門。海神廟
1階。
海神廟東方の壁にあり、平穏無事という意味がある。
 
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ウサギと芭蕉の葉の図案。瓶形の門。海神廟
1階。
ウサギは月を表し、「玉兎東昇(長寿と子孫繁栄)」を象徴する縁起のよい図案である。芭蕉の葉は五行思想で木に属するもので、東方を象徴している。
 
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プロヴィンティア城復元模型。海神廟
1階。
 
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ゼーランディア城想像図。海神廟
1階。
 
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清時代後半の赤崁楼。文昌閣、五子祠、海神廟。海神廟
1階。
 
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扁額「海神廟」。海神廟
2階。
 
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ゼーランディア城時代の古絵図。海神廟
2階。
 
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昔の漢族楼船、広船、南京船、蒙衝船などの船舶模型。海神廟
2階。
 
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文昌廟の
2階と屋根。海神廟2階から。
海神廟と同じく、「歇山重簷式」という中国式建築様式で、屋根が弓なりに曲がり、屋根の軒先が緩やか空に向かって延びている。軒先の鯉の造形は水しぶきを上げている。
 
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文昌廟の屋根。海神廟
2階から。
獅子の威厳のある顔は厄除の意味を表す。
 
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海神廟
2階から南方向の風景。
 
1時間ほど見学して、南の祀典武廟へ向かった。

台湾 台南市 祀典武廟 祀典台南大天后宮 月下老人

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祀典武廟。
2016125()。台南市。
赤崁楼の見学後、南へ徒歩数分で祀典武廟に着いた。
1661年(永暦15年)に建てられたと伝えられ、関羽を祀っている。台湾では唯一祭典が行われる武廟であるため、祀典武廟とよばれる。
台南の武廟と孔廟は台湾で最も古く、かつ最も完全な形で保存されている古廟で、国家一級古跡に指定されている。
 
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祀典武廟。扁額の多さも特徴といわれる。
廟中で有名な「大丈夫」扁額は、《孟子》の「富貴、能く淫さず、貧賤、能く移さず、威武、能く屈さず、此れを大丈夫と謂う。」によるもので、気迫に満ちた「大丈夫」は府城四大名扁の一つに数えられている。
 
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祀典武廟。
関羽は理財に長け、簿記法を発明したことから「商業の神様」としても台湾の人々の信仰を集めているという。
 
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月老公。月下老人。祀典武廟。
縁結びの神様で月下老人を参拝する人のために金紙を売っている。受付で許願文に氏名、生年月日、住所などを書いて、金紙を購入してから参拝する。
 
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金紙を燃やす焼却炉は金爐とよばれる。
 
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金紙を燃やして祈願していた。
 
西へ徒歩数分の大天后宮へ向かった。
 
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大天后宮。
祀典台南大天后宮は媽祖を祀っている。大天后宮の前身は明王族の末裔である寧靖王朱術桂が住んでいた寧靖王府邸で、1683年清朝統治の時代には、「大天妃宮」として改築され、正式に媽祖を「大天妃」として祀るようになった。
西向きに建てられ、前殿から拜殿、正殿、後殿に至るようにできており、前から後ろに行くにつれて格式が上がる。
建物の前は商店街の駐車場のようになっていて、雑然としていた。
 
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屋根飾り。大天后宮。
中央は媽祖と思われる。
 
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屋根飾り。大天后宮。
航海の女神らしく、船の形をした飾り物が置かれている。
 
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大天后宮。
大天后宮は台湾で初めて政府が建てた媽祖廟である。
 
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大天后宮。
 
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媽祖像。大天后宮。
中国福建省から招いた職人が、2人分の背丈で地獄耳と千里眼を持つという媽祖像を彫り上げた。
 
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月下老人。大天后宮。
左奥の一室にある。
 
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月下老人。お礼の写真が所狭しと貼られている。
 
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月老公許願牌。大天后宮。
 
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布袋像と仏像。大天后宮。
西側には多くの部屋があり、道教系の神像が多いが、仏像が安置されている部屋が一つだけあった。
 
南東の気象博物館方面へ向かった。
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