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マーシャル・タッカー・バンドの名曲 その4 「24 Hours At A Time」 「This Ol' Cowboy」

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マーシャル・タッカー・バンドThe Marshall Tucker Bandは、サウスカロライナ州スパータンバーグで1972年に結成されたサザン・ロックバンド。
ロックを基本に、カントリー、ブルース、RB、ジャズなどアメリカンミュージックのすべての要素を取り込んだサウンドである。
オリジナルメンバーは、リードギターでほとんどの曲の作詞作曲をしたトイ・コールドウェルToyCaldwell、ベースで弟のトミー・コールドウェルTommy Caldwell、リズムギターで曲も書いたジョージ・マッコークルGeorge McCorkle、フルート・サックスでこのバンドの味付けをしたジェリー・ユーバンクスJerry Eubanks、ドラムでジャズ畑のポール・リドルPaulRiddle、ボーカルのダグ・グレイDoug Gray
ゆったりしたカントリーフレイバーあふれる大陸的な曲もあれば、タイトなリズムにあふれるハードなギターソロもある、ジャムセッションみたいな曲もあるという幅広いサウンドだ。ダグ・グレイの深みのある伸びやかな歌声はほかのバンドにはない印象を与えている。ユーバンクスのフルート・サックスもいい味付けになっている。
 
トイ・コールドウェルのサム・ピッキング奏法Thumb Pickingまたは親指奏法について。
トイ・コールドウェルが親指でギターを弾いていることは、1978年ごろに購入したLP3枚に言及されていなかったので、全く知らずに聴いていた。音楽評論家やミュージシャンでもないリスナーにとっては、結果としてのサウンドに主要な興味をもっていただけなのだ。動画は、今ではyoutubeで簡単に視聴可能だが、日本で人気のあるミュージシャンでなければ、当時は簡単に見られるわけではなかった。
2000年代になり、輸入物のDVDを購入して親指で弾いていることに気づくことになる。2006年末に購入したDVD1981年のライブ収録)の解説や証言には、その奏法への言及があり、カントリーが好きだった父親の影響で子供のときからトイとトミーが親指の腹で弾くことを覚えたことを知った。トイはベトナム戦争従軍中に同じ親指奏法のウェス・モンゴリーの奏法を練習したという。ジャズ・ギターのような雰囲気があるのはその影響かもしれない。指の腹から血が噴き出して、ジョージ・マッコークルの顔に当たっても演奏を続けたと言う話は印象的だった。
ところで、もしトイが普通にピックを使っていたら、楽曲はどう違ったのだろう。彼の脳内の音楽風景は変わらないので、曲の骨格は同じだろう。ギターのリフが違ってくるのかどうか。どちらが良かったのだろうか。
 
 
24 Hours At A Time」。アルバム「A New Life」(19742月)収録。
作詞・作曲トイ・コールドウェル。フィドルはチャーリー・ダニエルズ。スタジオ録音にもライブにもゲスト参加することが多かった。チャーリー・ダニエルズ・バンドとマーシャル・タッカー・バンドは一緒に巡業することが多かったようだ。
 
This Ol' Cowboy」。アルバム「Where We All Belong」(197411月)
作詞・作曲トイ・コールドウェル。スタジオ版のフィドルはチャーリー・ダニエルズ、リード・ボーカルはトイ・コールドウェル。トイのボーカルは淡々として物静か、味わい深い。
のちのライブではダグ・グレイがボーカルをとる。
この曲はアマチュアのカバーが多い人気曲。10年以上、比較して見てきたが、ほぼがっかり。2007年に初めてこの曲の存在を教えてくれたThe Montgomery BurnsBandの演奏は素晴らしい。
 
This Ol' Cowboy
 
Well I'm sittin' down in San Anton'  
Waiting on an eight o'clock train
My woman left me here last night
Things ain't been quite the same
I gotta get back to Dallas
And tie up a few loose ends
I'm gonna work a week make a hundred dollars
Aw and hit the road again
 
So I don't want you to think
That you're the first one
To leave me out here on my own
'Cause this ain't gonna be the first time
This ol' cowboy spent the night alone
 
Now honey I've been a fool but a bigger fool
I can't remember when I've been
Just to open up my heart
And let you walk right in
But there's one thing in this life
That ain't hard for me to do
That's as soon as I kiss the lips of another  woman
I'm gonna forget all about you
 
So I don't want you to think
That you're the first one
To leave me out here on my own
'Cause this ain't gonna be the first time
This ol' cowboy spent the night alone
 
If you wrote all the woman's names down I know
 And let me pick one out
 I don't think there'd be one in the whole bunch
 Aw I'd give a hoot about
 
 So I don't want you to think
 That you're the first one
 To leave this ol'  boy out here on his own
 
 Cause this ain't gonna be the first time
 This ol' cowboy spent the night alone
 No this ain't gonna be the first time
 This ol' cowboy spent the night alone

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マーシャル・タッカー・バンドの名曲 その5 「Fire on the Mountain」「Searchin' for a Rainbow」「Virginia」        

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マーシャル・タッカー・バンドThe Marshall Tucker Bandは、サウスカロライナ州スパータンバーグで1972年に結成されたサザン・ロックバンド。ロックを基本に、カントリー、ブルース、RB、ジャズなどアメリカンミュージックのすべての要素を取り込んだサウンドである。
オリジナルメンバーは、リードギターでほとんどの曲の作詞作曲をしたトイ・コールドウェル、ベースで弟のトミー・コールドウェル、リズムギターで曲も書いたジョージ・マッコークル、フルート・サックスでこのバンドの味付けをしたジェリー・ユーバンクス、ドラムでジャズ畑のポール・リドル、ボーカルのダグ・グレイ
ゆったりしたカントリーフレイバーあふれる大陸的な曲もあれば、タイトなリズムにあふれるハードなギターソロもある、ジャムセッションみたいな曲もあるという幅広いサウンドだ。ダグ・グレイの深みのある伸びやかな歌声はほかのバンドにはない印象を与えている。ユーバンクスのフルート・サックスもいい味付けになっている。

 
1975年のアルバム「Searchin' fora Rainbow」(ビルボード15位)から3曲。 
日本盤のスリーブ。
「心地よいアメリカン・ロックを聴かせ、益々好調のマーシャル・タッカー・バンド快心の第4作。そのスケールの大きいサウンドは、サザン・バンドのなかでもひときわ光りを増す。」

MTBはこの時期から全国的な人気を得た。ゲスト参加にオールマン・ブラザースからディッキー・ベッツ(ギター)と「ジェシカ」でのピアノが絶賛されたチャック・リーヴェル(エレクトリック・ピアノ)、常連のチャーリー・ダニエルズ(フィドル)など。
 
Fire on the Mountain」。作詞作曲ジョージ・マッコークル。
ビルボード38位とヒットした。マッコークルが友人のチャーリー・ダニエルズに提供しようとした曲だが、使われなかった。
ペダル・スティールはトイ・コールドウェル。マッコークルによれば、音程が外れているのは、トイが購入したばかりで正しいチューニングの方法を知らなかったためという。そうであっても、心地よいサウンドだ。
解説者の島田耕氏もそんなことは見破いていない。別の曲でジェリー・ガルシアのようなビギナーぶりと書いてはいる。また、ボーカルを含め全体をウエストコースト風に仕立てたという。
 
Searchin' for a Rainbow」。作詞作曲トイ・コールドウェル。
ディッキー・ベッツはこの曲のみ参加で、220秒あたりからの美しくまろやかなギターソロを演奏。
 
Virginia」(作詞作曲トイ・コールドウェル)
ドラマチックな曲調が印象的。
 
このほか、「Walkin' and Talkin'」は当時流行していたウエスタン・スウィングのサウンド。「Can't You See」は定評のあるライブ版。
1978年ごろに「Together Forever」に続けて購入。カントリー・ロックでもなく、カントリーでもなく、親しみやすいポップな曲調に、またまた感動したものだ。歌詞はいずれも、ゴールドラッシュ時代をテーマにしている。
 
ライナーノートは島田耕氏。
MTBは大衆的でポップな路線で南部の開放感にあふれたロック・サウンドをクリエイトし、レーナード・スキナードなどハードなサザン・ロック派と一線を画す。
MTBにはオールマンに欠けている、カントリー・フィーリング、カントリーの要素がある。
トイ・コールドウェルは「僕自身はもともとカントリー音楽の影響下にあったんだよ。だけど、ハード・カントリーとは違い、ロイ・エーカフなのさ。」と語っている。
トイとトミーの兄弟はかつてカントリー・バンドでもっぱらハンク・ウィリアムズなどを歌っていたが、それをやめてロックやR&Bに変えた理由はディスコティックの踊れる雰囲気に合わなかったからだという。

マーシャル・タッカー・バンドの名曲 その6 「Fly Like an Eagle」「Heard It in a Love Song」など

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マーシャル・タッカー・バンドThe Marshall Tucker Bandは、サウスカロライナ州スパータンバーグで1972年に結成されたサザン・ロックバンド。ロックを基本に、カントリー、ブルース、RB、ジャズなどアメリカンミュージックのすべての要素を取り込んだサウンドである。
オリジナルメンバーは、リードギターでほとんどの曲の作詞作曲をしたトイ・コールドウェル、ベースで弟のトミー・コールドウェル、リズムギターで曲も書いたジョージ・マッコークル、フルート・サックスでこのバンドの味付けをしたジェリー・ユーバンクス、ドラムでジャズ畑のポール・リドル、ボーカルのダグ・グレイ。
ゆったりしたカントリーフレイバーあふれる大陸的な曲もあれば、タイトなリズムにあふれるハードなギターソロもある、ジャムセッションみたいな曲もあるという幅広いサウンドだ。ダグ・グレイの深みのある伸びやかな歌声はほかのバンドにはない印象を与えている。ユーバンクスのフルート・サックスもいい味付けになっている。
 
19771月のアルバム「Carolina Dreams キャロライナの夢」(ビルボード23位)から5曲。 
日本語スリーブ、「よりスケールの大きい独自のサウンドで快調。南キャロライナのスパータンバーグからやってきた6人の快男児は、今やアメリカン・ロックの真髄を爽快に演奏する大物グループになった。サザン・カントリー、ジャズ、ロック、リズム&ブルースを様々な形でミックスしたマーシャル・タッカー・バンドの傑作」。
 
唯一のプラチナアルバムに認定された名盤。シングルカットされた「Heard It Ina Love Song」はビルボード14位とMTBの曲では最大のヒット曲となった。
10772月付け、北中正和氏のライナーノート。
オールマン・ブラザーズ・バンドの停滞・解散という出来事があり、キャプリコーンレコードはスランプに陥った。しかし、1976年の大統領選挙で南部出身のジミー・カーターをバックアップするため、キャプリコーンは傘下のミュージシャンを動員した。カーターが大統領に就任した19771月には、オールマンのメンバーが作ったシー・レヴェルやマーシャル・タッカー・バンド、チャーリー・ダニエルズ・バンドらがワシントン・D.C.に集まり、集中的なコンサートを行って話題を呼んだ。D.C.Armonyでのマーシャル・タッカー・バンド、チャーリー・ダニエルズ・バンドのコンサートでは、深夜にカーター大統領がステージから6000人の聴衆に挨拶を送り、トイ・コールドウェルの5歳になる娘を抱いてカメラマンにポーズをとるという一幕も見られた。

トイとトミーのコールドウェル兄弟は、子供のころから父親がやっていたカントリー・ダンス・バンドの音楽を聴いて育ち、自分たちもギター・デュオとしてハンク・ウィリアムズの曲を演奏するようになっていた。ハイスクール時代には早くもプロになることを決心、ローリング・ストーンズやビートルズの曲を演奏しながらクラブ回りを始めた。
 
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トイ・コールドウェルの長女キャサディとジャスティン・マッコークル。
 
1978年ごろ「Together Forever 」に続けて購入。広大なアメリカ大陸を馬や車に乗って、ゆったりしたり疾走したりするような感覚に浸った。カセットに落してドライブするときによく聴いた。
前作の1976年のアルバム「Long Hard Ride」は購入しなかった。セールスとしてはゴールドにならなかった失敗作だった。カントリー色が余りにも濃いとロックファンには感じられたか、ロックすぎてカントリー愛好層にも嫌われたのか、中途半端に受け取られたのだろう。
Youtubeで全曲聴いてみると、表題曲には、ニッティー・グリッティー・ダート・バンドのジョン・マッキューエンがゲストでバンジョーを演奏しているのだが、曲そのものに魅力がない。それ以外の曲は普通の出来栄えだと思う。
 
Fly Like an Eagle」。作詞作曲トイ・コールドウェル。
女にふられた男が、彼女のことを忘れるために、やけになってリバーボートに乗ってニューオーリンズへ向かうという話。フルートの音色が鷲のように空を舞っている。
 
Heard It in a Love Song」。作詞作曲トイ・コールドウェル。
「俺は一か所には落ち着いていられないたちの男だ。夜明けにはいっちまうぜ。お前のことが好きだけど、それはじっと俺の心の奥底にしまっておくんだ。」という男の気持ちがテーマになっている。
 
I Should Have Never Started Lovin' You」。作詞作曲トイ・コールドウェル、ダグ・グレイ、ジョージ・マッコークル。
恋をするんじゃなかったと嘆く男のバラード。
 
Life in a Song」。作詞作曲、ジェリー・ユーバンクス、ジョージ・マッコークル。
武骨な男の純情な気持ちを歌う。元オールマンのチャック・リーヴェルがピアノでゲスト演奏
 
Desert Skies」作詞作曲トイ・コールドウェル。
西部劇のテーマソングによくあるカウボーイ・ソング調の歌。チャーリー・ダニエルズがフィドルでゲスト演奏。サックス、フィドル、トイのギターは古いジャズを聴いている雰囲気にさせる。

マーシャル・タッカー・バンドの名曲 その7 「Running Like the Wind」「Silverado」「Stay in the Country」「Ballad of M.T.B.」  

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マーシャル・タッカー・バンドThe Marshall Tucker Bandは、サウスカロライナ州スパータンバーグで1972年に結成されたサザン・ロックバンド。ロックを基本に、カントリー、ブルース、RB、ジャズなどアメリカンミュージックのすべての要素を取り込んだサウンドである。
結成メンバーは、リードギターでほとんどの曲の作詞作曲をしたトイ・コールドウェル、ベースで弟のトミー・コールドウェル、リズムギターで曲も書いたジョージ・マッコークル、フルート・サックスでこのバンドの味付けをしたジェリー・ユーバンクス、ドラムでジャズ畑のポール・リドル、ボーカルのダグ・グレイ。
 
マーシャル・タッカー・バンドは、今も現役でライブを続けており、2019年のスケジュールも発表されている。結成メンバーで残っているのは、ボーカルのダグ・グレイのみ。

1978年のアルバム「TogetherForever」発売後、キャプリコーンレコードは197910月に倒産した。MTBはワーナー・ブラザーズへ移籍後、1979年にアルバム「Running Like the Wind」、1980年に「Tenth」を発売。

19804月、実質的なバンドリーダーであったベースのトミー・コールドウェルが自動車事故で死亡。下の弟ティムもその1か月前に交通事故で死亡していた。ベースの後任には、前身バンドで一緒にプレイしていたフランクリン・ウィルキーを招き、夏からツアーを継続した。このころから、70年代ほどの人気は回復できなくなった。

1981年トミー・コールドウェルに捧げるアルバム「Dedicated」をトム・ダウドをプロデューサーに迎えて発売。1982年アルバム「Tuckerized」発売。メンバーの作品は2曲のみで、ほかはカバー曲で構成。演奏はMTBらしいものだが曲想は違うので、転換を図る意図があったのかも。1982年ごろから、キーボードのロニー・ゴッドフライが準メンバーになっていたようだ。

81年と82年ごろのライブ映像では、トイはフロントに立たず表情が暗くなっている。
1983;年アルバム「Just Us」と「Greetings from South Carolina」を発売。同年、トイ・コールドウェルが脱退。84年ジョージ・マッコークル、ポール・リドル、フランクリン・ウィルキーが脱退し、一旦解散状態となった。
 
トイ・コールドウェルはのちにトイ・コールドウェル・バンドを結成して演奏を続け、1992年に同名のCDを発売したが、1993年に心筋炎により亡くなった。
ジョージ・マッコークルはソングライターとなり、ソロアルバムを制作。2007年ガンにより死亡。
なお、ジェリー・ユーバンクスは1996年に引退した。
 
1988年、ダグ・グレイとジェリー・ユーバンクスは、スタジオミューシャンの演奏でアルバム「Still Holdin' On」をマーキュリーから発売。その後、新メンバーを補充してMTBを継続した。

1990年、アルバム「 SouthernSpirit」をシサパレコード(日本ではワーナーパイオニア)から発売。

1992年、アルバム「Still Smokin'」をキャビン・フィーヴァーから発売。旧式拳銃の銃口から煙が出ているアルバムジャケット。

1993年、アルバム「Walk Outsidethe Lines」を発売。カントリー寄りに戻ったアルバムで、タイトル曲は長年MTBのファンであったガース・ブルックスとの共作。

その後2007年まで6枚のアルバムをK-TelShout! Factoryのレーベルから発売している。
 

1978年ごろに「Searchin' for aRainbow」(1975年)、「Carolina Dreams」(1977年)、「Together Forever」(1978年)の3枚のアルバムを購入し、長らく愛聴したが、80年代以降はレコードも情報も途絶えた。


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2000
年から2005年ごろに、中古CDで「 Southern Spirit」を購入した。これは、日本で発売されたもので、日本文の解説もある。半分ほどは良曲だった。同じく輸入中古盤で「Still Smokin'」を購入した。余り良くなかった。

ネット通販で、Shout! Factory制作、日本のGENEONが発売したDVD「ライブ・フロム・ザ・ガーデン・ステイト1981」を購入。15曲のうち「Dedicated」から半分ほど。定番曲は「Take the Highway」、「Can't You See」「This Ol' Cowboy」、「Fire on the Mountain」、「Searchin' for aRainbow」、「Heard It in a Love Song」。

同じく、輸入盤DVDSOUND STAGE ‘82」を購入。テレビ番組のビデオ。キーボードにロニー・ゴッドフライが参加。上記の定番曲がほとんどだが、「Together Forever」収録の「Change is GonnaCome」のジャズ的なソロ回しが秀逸だった。

2000年ごろからMTBの公式ホームページをよく見ていた。30曲ほどで各30秒ほどの試聴コーナーがあり、「Running Like the Wind」、「Silverado」などを発見した。
2007年ごろからyoutubeを見て新発見の連続となった。
当時から、ダグ・グレイの声がつぶれている、トイとトミーに敬意を表してバンドをやめてほしい、というコメントを見かける。
 
Running Like the Wind」。作詞作曲トイ・コールドウェル。 

1979年のアルバム「Running Likethe Wind」はポップ・ロック、ジャズ・フュージョンのサウンドといわれるが、実際に聴いてみると、「Carolina Dreams」と「Together Forever」の中間のようなサウンドでバンドの作風は踏襲している。このタイトル曲は題名どおり、颯爽と馬で駆けるイメージの曲。

 
Silverado」。作詞作曲ジョージ・マッコークル。

1981年トミー・コールドウェルに捧げたアルバム「Dedicated」は、トム・ダウドをプロデューサーに迎えた。なるほど、音質はよい。この曲は「Running Like the Wind」に似た曲調。

 
Stay in the Country」。作詞作曲ティム・ローター(メンバーでベース担当)。

1990年のアルバム「SouthernSpirit」収録。

オリジナルバンドの雰囲気を想起させる曲調。
 
Ballad of M.T.B.」。作詞作曲ティム・ローター。
Southern Spirit」収録。MTBの過去を振り返る内容の歌詞。
このアルバムでは、「Country road」の演奏が良いが、youtubeにはなかった。
 
"Ballad Of M.T.B."
 
They got their name

 From an old key chain

 Left  lyin' on the floor

 They  said it came

 From  an old man that played

 You know we opened up the door

 

 So  they took off on their own

 And  they left their families home

 Takin'  it  day by day

 And  they  spend most of their time

 Writin'  songs 'bout Caroline

 They  gonna make it, one day

 

 The  years, they passed

 And  the songs, went by

 Like  travelin' through those blue ridge mountain skies

 All  the years today have all gone by

 You  can still see it in their eyes

 

 So  they played from Caroline

 To  the coast of California

 Workin'  every day
 Makin'  all their dreams come true
 Brought  the music back to you

 You  know they made it there this way

 
 Wasn't   that long ago

 Seems  to me

 The  long hard ride is over now

 Can't   you see
 Can't   you see

エリック・ドルフィーの名演 「ラスト・デイト」から「You don't know what love is」「Miss Ann」

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1972年に大学へ入学してからジャズを聴きはじめ、そのころから70年代末にかけてLP15枚ほど購入した。同時に、ラジオのジャズ番組を聴きはじめた。当時は毎夜どこかで流れていたような気がする。
油井正一の番組だったような気がするが、ジャズの歴史を紹介していて、チャーリー・パーカーから説き起こしてくれた。

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ある日、エリック・ドルフィーの「ラスト・デイト - Last Date」の話題になり、「音楽は終わると空中に消えてしまう。もう二度と取り戻すことはできない。When you hear music ,after it's over, it's gone in the air. You cannever capture it again」と、エリック・ドルフィーがアルバムの最後に語っている、と話した。これには感動してしまった。


1974年に「ラスト・デイト」の限定廉価版が発売されたので、売り切れる前にとすぐ購入して愛聴した。ドルフィーのほかのアルバムは持っていない。

「ラスト・デイト」には6曲の演奏があるが、最後の曲「「Miss Ann」」が一番好きになった。偶然だが、この曲の終わりに例の名言を語っている。


パーソネル。

Eric Dolphy – bass clarinet, flute, altosaxophone

Misha Mengelberg – piano

Jacques Schols – double bass

Han Bennink – drums

196462日録音。

 

Miss Ann」は、アルトサックスを吹くドルフィーの節回しが面白い。あっちこっちを飛び跳ねているような演奏だ。それでいて、ジャズの生命であるスイング感がしっかり聴こえる。
Youtubeでほかの演奏を聴くと、同じスタイルだった。
 
You don't know what love is」。ドルフィーのフルートは、始めは能の能管のように聴こえる。そのあと、蝶が舞うように飛翔を続ける。
この曲が一番人気のようだ。たしかに、私も好きだが、スイング感がないのが欠点。ジャズではなく音楽として聴けば最高の音楽。
 
ドライブ用にカセットに録音したジャズの演奏は、この「Miss Ann」と、ステファン・グラッペリ&バーニー・ケッセルの1曲。
 

エリック・ドルフィーの名盤はほかに「At The Five Spot, Vol. 1(1961) 」と「Out to Lunch!」が挙げられている。

Youtubeで聴いてみたが、「ラスト・デイト」ではエリック・ドルフィーのみが、フューチャーされているのでドルフィーの演奏を純粋に楽しめるが、ほかの楽器演奏が邪魔になってドルフィーに集中できない。
「ネイマ– Naima」はいい。
私が持っている唯一のコルトレーンのLPOlé Coltrane」に参加していた。


ライナーノートは油井正一氏。

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ジャズ・バイオリンの名演 ステファン・グラッペリ、ジョー・ヴェヌーティ

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ステファン・グラッペリStéphane Grappelli1908年~1997年)はフランス、パリ出身のジャズ・ヴァイオリニスト。1934年、モダンジャズ・ギターの源流となったジャンゴ・ラインハルトとともにに「フランス・ホット・クラブ五重奏団 (the Quintette du Hot Club de France)」を結成し、第二次世界大戦前から晩年まで精力的な演奏活動を続けた。ジャズ・ヴァイオリニストの第一人者として、長年に渡って晩年まで第一線で活躍した。
 
父親はイタリア人侯爵でイタリア語を教える学者であった。母は彼が5歳の時に亡くなった。第一次世界大戦が始まると。父親はイタリア兵となり、当時パリに住んでいたダンサーのイサドラ・ダンカンに息子を預け、ステファンは6歳からダンカンのダンス学校に通った。彼はドビュッシーらの印象主義的音楽を好んだ。戦乱のため学校が閉鎖されると、父親は彼を孤児院に預け、そこでは食事に困るほど粗末な扱いを受けた。戦後、父親が帰ってパリの下町で同居した。彼は1919年にフランス国籍を得た。

父親がスーツを質入れして得た費用でバイオリンを学び始めたのは12才のころだった。レッスンも受けたが、独学を好んだ。1920年、名門のパリ国立高等音楽学校Conservatoire de Parisに入校し、1923年優秀な成績で卒業した。
1923年から2年あまり無声映画上演の際に演奏を行うヴァイオリニストとして仕事をした。演奏の合間に訪れたブラッセリーでジャズに出会った。1928年、アメリカのポール・ホワイトマン楽団の公演でジャズ・ヴァイオリニストのジョー・ヴェヌーティの演奏に接し、奏法に影響を受けた。収入を増やすため、一時ビッグ・バンドでピアノを弾いた時期もある。

1931年、ジプシー・ギタリストのジャンゴ・ラインハルトに出会い、彼のキャラヴァンで一緒に演奏する機会を得た。1934年、二人はロンドンで再会し、フランス・ホット・クラブ五重奏団を結成した。
1937年から五重奏団はモンマルトルのナイトクラブやサロンで定期的な演奏を始めたが、1939年第二次大戦が始まると解散した。グラッペリはロンドンに移ってバンドを結成し、ピアニストのジョージ・シアリングをデビューさせた。
1949年、グラッペリとラインハルトは再結成し、「ジャンゴロジー」などを録音した。以後、晩年まで活動を続けた。
グラッペリはジャズ以外の分野の演奏家とも共演し、クラシック分野では1971年にユーディ・メニューインと、のちにヨーヨー・マらと共演している。
 
私は、1972年に「これがモダンジャズ。VOL1コンテンポラリー編」を購入し、ジャズ・ロックバンド、マハヴィシュヌ・オーケストラMahavishnuOrchestraAwakening目覚め」に衝撃を受けた。ジョン・マクラフリンのギターは当然素晴らしかったが、それ以上にジェリー・グッドマンのバイオリンは凄かった。
 
それで、ジャズ・バイオリンに興味を持ち、「バイオリン・サミットStéphaneGrappelli/Stuff Smith/Svend Asmussen/Jean-Luc Ponty: Violin Summit (1967)」、「ニュー・バイオリン・サミット」を購入したが、なかでもジャズらしい一方で優雅に弾くステファン・グラッペリが好きになった。

次に購入したのが、ステファン・グラッペリ、ジョー・ヴェヌーティ、バーニー・ケッセルが共演した「Venupelli Blues 二人でお茶を」であった。

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Venupelli Blues」。19691022日パリで録音。
Stephane Grapelli, john Venuti - vln
George Wein - p
Barney Kessel - g
Larry Ridley - b
Don Lamond – dr
 
I can't give you anything but love 捧ぐるは愛のみ」。
バイオリン、ギター、ピアノ、ベースのソロと続く。ベースソロのときの、ギターの伴奏コードの刻みがいい。

Undecided アンディサイデッド」。
 
Honeysuckle Rose」。Stéphane Grappelli Meets Barney Kessel (1991/1969) - Track 2
BarneyKessel (guitar), Stéphane Grappelli (violin), Michel Gaudry (bass), Nini Rosso(rhythm guitar), Jean-Louis Viale (drums)
 
Nuages Django Reinhardt & Stephane Grappelli
 
1988年、宿泊したロサンゼルス・ビヴァリーヒルズのホテルを出たとき、歩道の壁にステファン・グラッペリ公演のポスターを見つけて、まだ生きて公演しているのかと驚いた。ひょっとして、日本でもと思っていたら、19895月にグラッペリの来日公演が告知された。東京と大阪での公演だったので、大阪のサンケイホールでの公演を聴きにいった。どの曲を弾いても同じ曲に聴こえて笑えてきたが、長年聴きたかったグラッペリを聴けてたいへん満足した。


ライナーノートは油井正一氏。

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ジャズの名盤 ソニー・ロリンズ  「サキソフォン・コロッサス(Saxophone Colossus)」

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ソニー・ロリンズSonny Rollins1930年~)は、アメリカのジャズ・サックス奏者。ハード・バップ。
ジャズの名盤というと、マイルス・デイビスの「カインド・オブ・ブルー」とソニー・ロリンズの「サキソフォン・コロッサス」はトップに必ず入るベタな定番。私も1970年代後期に購入した。
両方とも、分かりやすく、明解なジャズ。「カインド・オブ・ブルー」はクールで暗いが、「サキソフォン・コロッサス」は明るく陽気な雰囲気がある。
 
アルバム「サキソフォン・コロッサス(Saxophone Colossus)」は、ジャズ・サックス奏者ソニー・ロリンズが、1956年にプレスティッジ・レコードから発表したアルバム。発売直後から英米のメディアで絶賛され、ロリンズの名を一躍広めた。現在もロリンズの代表作に挙げられる。
 
「セント・トーマス」は、カリプソに影響を受けた明るい曲で、タイトルの由来は米国領ヴァージン諸島セント・トーマス島。ロリンズの母方が米国領ヴァージン諸島出身ということもあって、ロリンズも幼い頃からカリプソに親しんできたという。その後長きに渡って、コンサートの重要なレパートリーとなり、2005年に行われた最後の日本公演でも演奏された。
一般的にはロリンズの作曲作品とされているが、旋律はイングランドの伝承歌曲「TheLincolnshire Poacher」に基づいている。民間で伝承されるあいだに、ヴァージン諸島では子守唄に変容し、これをロリンズの母親が、子供だったロリンズに歌って聞かせた。こうした経緯から、この曲には明瞭なカリブ音楽の躍動感が盛り込まれている。
 
パーソネル
ソニー・ロリンズ - テナー・サックス
トミー・フラナガン - ピアノ
ダグ・ワトキンス - ベース
マックス・ローチ - ドラム
録音       1956622
 
「セント・トーマス - St. Thomas」(Sonny Rollins
ロリンズ以外のソロが長すぎるのが欠点。

「ストロード・ロード - Strode Rode」(S. Rollins
軽快。

「モリタート– Moritat」(Brecht, Weill) 
ローチのドラムはジャズの基本である「チャカブン」が明瞭。
 
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2005年の公演を鑑賞した。人間国宝、伝説の巨人が見られる最後のチャンスだと思った。席はバックステージ上方約50mだったので、ロリンズが体を揺らしながら吹いている様子が良く分かった。音量も豊かで、「セント・トーマス」を聴けたのは至福の体験だった。

youtubeで大橋巨泉やタモリのジャズ講座を見ると結構おもしろい。

マイルス・デイビスの代表曲  「ソー・ホワット - So What」

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マイルス・デイビス Miles Davis1926年~ 1991年)。
 
マイルス・デイビスのアルバム『カインド・オブ・ブルー Kind of Blue』は、ジャズ史上1位の傑作アルバム。
従前のハード・バップ・スタイルに留まらない、「モード・ジャズ」と呼ばれる新たな演奏手法を確立した。
 
1970年代後半に購入し、愛聴した。ジャズのLP20枚近く購入したが、これが一番。マイルス・デイビスの名盤はこれ以外は意見が分かれて、迷ってしまい、これしか購入していない。
 
「ソー・ホワット - So What」。アルバム『カインド・オブ・ブルー』の1曲目。19593月録音。
マイルスの口癖をタイトルにした曲。
イントロのベース・ソロのリフの積み重ね部分が印象的。ベースの重低音はパソコンのスピーカーでは聴き取れない。
この曲はポップ性がある。親しみやすいメロディーがあり、ボーーカライズして歌にすることもできる。
 
パーソネル。
マイルス・デイビス     トランペット
ジョン・コルトレーン    テナーサックス
キャノンボール・アダレイ  アルト・サックス
ウイントン・ケリー     ピアノ
ビル・エバンス       ピアノ
ポール・チェンバース    ベース
ジミー・コブ        ドラムス
 
 
ライブ版は、1960年のオランダでのライブのようで、Cannonball Adderley 抜きで pianoEvans からWynton Kellyに代わり疾走感抜群で一聴の価値がある。
正直な話、ビル・エバンスのよさが分からない。「ワルツ・フォー・デビー」も好きではない。バド・パウエルのような正統派が好きだ。
マイルスの60年代後半からの「ビッチェズ・ブリュー」以降の作風は好みではない。
 
Miles Davis & Charlie Parker - ANight In Tunisia」。1940年代後半。
70年代のラジオ番組の解説で今だに忘れられない油井正一の解説は、モダンジャズ創始者のひとりチャーリー・パーカーは晩年、テイクを重ねるごとに出来が悪くなるが、マイルスはテイクを重ねるごとによくなっていった。」という逸話。

アマゾンのコメントによると、1947年ごろの録音で、チャーリー・パーカー(as)と、20歳そこそこのマイルス・デイビス(tp)。デューク・ジョーダン(ac-p),マックス・ローチ(ds),トミー・ポッター(ac-b)のクインテット編成。
チャーリーパーカーは、この時期、ヘロインで身体が相当侵されていたのだが、そんなことは微塵も感じさせないエキサイティングで「ヒップ」な演奏を繰り広げている。
マイルスの自伝によると、「ジョン・コルトレーンもバードに似た演奏をしたものだが、結局バードのような演奏を出来た奴は誰一人もいなかった」
「さっきまでクスリ(ヘロイン)でヘロヘロになっていたくせに、いざパーカーが演奏を始めると誰にも真似できない芸当をした」等と、絶賛している。
 
マイルスは身長167cmと小柄で唇が弱く、ディジー・ガレスビーのような速く力強いパーッセージやハイトーン、高音域の演奏をし続けるには限界があった。そこで独自のビバップの解釈で産み出されたのが、無駄なノートを排除し音数を抑えつつも印象的に一音一音をブロウするあの個性的な奏法だったという。
 
Miles Davis & Kenny Garrett -Strawberry Fields Forever JOHN LENNON tributeto live 21 DEC 1990
1990年には東京ドームで行われたジョン・レノン追悼コンサートに出演し、レノン作曲の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」をカバーした。
 
タモリのジャズスタジオマイルス・デイヴィスの話
菊地成孔 マイルス・デイビスを語る(2018/01/22
 
粟村政昭氏のライナーノート。
1970年代後半の再発盤とおもわれるが、最後に「この作品を凌駕するほどの傑作はその後に見当たらない」と述べている。
 
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(ジャケット裏のビル・エバンスによる英文解説)
IMPROVISATION IN JAZZ BY BILL EVANS
 
There is a Japanese visual art in which theartist is forced to be spontaneous. He must paint on a thin stretched parchmentwith a special brush and black water paint in such a way that an unnatural orinterrupted stroke will destroy the line or break through the parchment.Erasures or changes are impossible. These artists must practice a particulardiscipline, that of allowing the idea to express itself in communication withtheir hands in such a direct way that deliberation cannot interfere.
 
The resulting pictures lack the complexcomposition and textures of ordinary painting, but it is said that those whosee well find something captured that escapes explanation.
 
This conviction that direct deed is themost meaningful reflections, I believe, has prompted the evolution of theextremely severe and unique disciplines of the jazz or improvising musician.
 
Group improvisation is a further challenge.Aside from the weighty technical problem of collective coherent thinking, thereis the very human, even social need for sympathy from all members to bend forthe common result. This most difficult problem, I think, is beautifully met andsolved on this recording.
 
As the painter needs his framework ofparchment, the improvising musical group needs its framework in time. MilesDavis presents here frameworks which are exquisite in their simplicity and yetcontain all that is necessary to stimulate performance with sure reference tothe primary conception.
 
Miles conceived these settings only hoursbefore the recording dates and arrived with sketches which indicated to thegroup what was to be played. Therefore, you will hear something close to purespontaneity in these performances. The group had never played these piecesprior to the recordings and I think without exception the first completeperformance of each was a "take."
 
Although it is not uncommon for a jazzmusician to be expected to improvise on new material at a recording session,the character of these pieces represents a particular challenge.
 
Briefly, the formal character of the fivesettings are: "So What" is a simple figure based on 16 measures ofone scale, 8 of another and 8 more of the first, following a piano and bassintroduction in free rhythmic style. "Freddie Freeloader" is a12-measure blues form given new personality by effective melodic and rhythmicsimplicity. "Blue in Green" is a 10-measure circular form following a4-measure introduction, and played by soloists in various augmentation anddiminution of time values. "All Blues" is a 6/8 12-measure blues formthat produces its mood through only a few modal changes and Miles Davis' freemelodic conception. "Flamenco Sketches" is a series of five scales,each to be played as long as the soloist wishes until he has completed theseries.

エリック・クラプトンの名曲 「Layla」「I Shot The Sheriff」「Tears In Heaven」「Change the World」

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エリック・クラプトンEric Clapton1945年~)の来日公演が4月にあるというWEB広告が最近まで、出ていた。いったいどれほど来日したのか、これで22回目になるらしい。
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私も
1990年に見ている。覚えているのは、早く「レイラ」を演奏してくれないかという気持ちで見ていたことだ。
 
「エリック・クラプトン 12小節の人生」(2017年)という映画が201811月から日本で公開されていたようだが、知らなかった。映画を見た人々の感想を読んでいると、ほとんど知っているエピソードだった。
1年から2年前にBS-TBSの「SONG TO SOUL」で「レイラ」の成立物語を見た。こちらのほうが面白い。知ってる人は知っていたようだが、「レイラ」のイントロから何度も使われるギター・リフは「アルバート・キングの「As the Years Go Passing By」の歌メロディを短く縮めたものだということを、この番組で初めて知った。現在のパティ・ボイドもインタビューで心境を語っていた。
 
パティ・ボイドとジョージ・ハリソンの結婚(19661)当時の写真特集が音楽雑誌「ミュージック・ライフ」に掲載されている号を1970年ごろ古書店で入手して眺めていた。美男・美女で幸せそうだった。
同じころビートルズ・シネ・クラブに入会して、「A Hard Day's Night」を何度も見たが、その中で可愛いなと思っていたブロンドの女学生がボイドだったのは最近知った。
エリック・クラプトンがハリソンの妻のボイドに横恋慕して奪い取ったのを知ったのも、1979年に結婚したあたりで、そのころに「レイラ」がボイドへの片思いを歌った歌だと分かった。
ジョージ・ハリソンの「While My Guitar Gently Weeps」でのギター・ソロがクラプトンだと知ったのは1975年ごろだった。
1970年代までは、情報というのは、なかなか簡単に一般リスナーには伝わってこなかった。
 
エリック・クラプトンは母親が16歳のときの子供で、父親のカナダ軍駐留兵士はクラプトンの出生前にカナダへ帰ってしまった。クラプトンは祖父母を父母と、実母を姉と思って育った。実母は幼いクラプトンを残して、別のカナダ軍兵士と結婚しドイツへ移住した。クラプトンは13歳のときにドイツ製の安いギターを貰ったが、安物ぶりに興味を失い、15歳のときから本格的にギターの練習を始め、ブルースに熱中した。
1962年ごろからバンド活動を始めた。
196310月ヤードバーズに加入、リードギタリストとしてスローハンドのニックネームがつく。19653月ポップ化・商業化を嫌い、ブルースに専念するため脱退。
19654月ジョン・メイオール・ブルースブレイカーズに参加。19667月脱退。
1967年、ロンドンの街中に“CLAPTON IS GOD”の落書きが現れ、「ギターの神」と呼ばれるようになった。
1968年、9月ビートルズ「While My Guitar Gently Weeps」録音に参加。11月クリーム解散。
1969年ブラインド・フェイス結成、6月ハイド・パークでデビューコンサート。10月解散。
19706月デレク・アンド・ザ・ドミノスを結成。8月からマイアミでアルバム『いとしのレイラ』(Layla and Ot her Assorted Love Songsを録音。デュアン・オールマンがゲストとして14曲中11曲でリード及びスライドギターを演奏した。
1971年解散。クラプトンはデュアンやジミ・ヘンドリックスの相次ぐ死などから精神を病み、ドラッグとアルコールに溺れしばらく音楽活動から遠ざかったのち、ソロとして活動する。
19731月、レインボー・コンサートで復活。
19749月ボブ・マーリーのカバー曲である、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」 (I Shot The Sheriff) で米1位のヒット。同年、パティ・ボイドと同居を始める。
1979年パティ・ボイドと結婚。
1985年イボンヌ・ケリーとの娘が生まれる。
1986年イタリア人モデルとの息子コナーが生まれる。
1988年パティ・ボイドと離婚。
1991年息子コナーがビルの53階から転落死。
1992年「ティアーズ・イン・ヘヴン」(Tears In Heaven) がヒット。亡くなった息子に捧げた楽曲。
1996年「チェンジ・ザ・ワールドChange the World」がヒット。映画『フェノミナン』に提供したカバー曲。
2002年、メリア・マッケネリーと結婚。3人の娘をもうける。
 
クリーム(エリック・クラプトン)を初めて知ったのは「White Room」からで、日本に紹介されたのは1968年暮か1969年初めだろうか。私を含めて一般のリスナーはそれまで知らなかった。
エリック・クラプトンのサウンドがいつ生まれたのか。19669月にジミ・ヘンドリックスが渡英しロンドンで演奏活動を始め、クラプトンたちが聴きはじめた。「フレッシュ・クリーム - Fresh Cream1966年)のサウンドとジミ・ヘンに触発されてできた曲「Sunshine of Your Love」を含む「カラフル・クリーム -Disraeli Gears1967年)」は明らかに違い、この時点でクリームやエリック・クラプトンのサウンドが確立した。
ジョン・メイオール・ブルースブレイカーズのライブ盤と「フレッシュ・クリーム」ほぼ同じサウンドをしていた。
 
ジミ・ヘンドリックスが渡英する条件として、エリック・クラプトンに会わせろ、というほどクラプトンのファンだったらしいので、アメリカでもブルースブレイカーズ時代から有名だったようだ。
クラプトンはジミ・ヘンの「Little Wing」のカバーをよく演奏しているが、ジミ・ヘンドリックスの曲の本質をとらえていない。アレンジもギターもヘタクソ。
 
「レイラ」が日本のラジオで流れだしたのは、1971年か72年か分からないが、聴いたとたん印象的なリフに驚嘆した。現在でも最高のリフだろう。たとえ、アルバート・キングからのパクリでも関係ない。それをリフとして作り出したことが素晴らしい。
このころは、レイド・バック、ダウン・トゥー・アースという言葉が流行していた。
 
ほかのヒット曲は、名曲には間違いないが、べつにクラプトンでなくてもいいのではないかと思う。
クラプトンの絶頂期はクリーム時代の1967年から69年の間である。「レイラ」あたりまでは進歩したといえるが、あとは惰性。アンプラグドというつまらないブームを巻き起こした張本人でもある。
しかし、ギターの神様なので長く現役でがんばってほしい。
 
Albert KingAs the Years Go Passing By

シカゴ・ブルースの名盤 マジック・サム 「ウエスト・サイド・ソウル West Side Soul」

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マジック・サムMagic Sam1937年~1969年)はシカゴのブルース・ギタリスト、シンガー。50年代から60年代にかけて活躍し、オーティス・ラッシュ、バディ・ガイらとともにシカゴ・ブルースに新風を吹き込み、夭折した伝説のブルースマン。
 
1937年サムはミシシッピ州デルタ地域で生まれた。1950年、家族に連れられシカゴへ移住。シル・ジョンソンと出会い、彼からギターを教わる。50年代半ばには、シカゴのブルース・クラブに出演するようになり、彼のフィンガー・ピッキングスタイルが知られるようになっていた。
 
1957年、コブラ・レコードへ初のレコーディングを行う。同レーベルには57年、58年とレコーディングを重ね、"AllYour Love"を始め、計4枚のシングルをリリースした。1959年にコブラが倒産した後、サムは兵役に着くが脱走してしまい、脱走罪で刑務所に服役している。
1960年、音楽活動を再開したサムは、60年、61年とチーフ・レコードでレコーディングを行い、シングルを4枚リリースした。チーフの作品はコブラの作品と比べてよりR&B色が強くなっている。
1966年、デルマークとクラッシュへ相次いでレコーディングを行った。
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1967年に、初のオリジナル・アルバム、「WestSide Soul」をリリースした。このアルバムはシカゴ・ブルースを代表する作品として知られるようになり、彼の知名度も以後うなぎ上りに上がっていった。

1969年、セカンド・アルバム「BlackMagic」をリリース。同年、アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル出演のために渡欧。アン・アーバー・ブルース・フェスティバルへの出演も果たすなど活動を加速させているが、絶頂期の最中、この年の121日、心臓発作により32歳で急死した。
 
生前にリリースしたアルバムは僅か2枚しかないが、1981年にリリースされたライブ盤「Magic Sam Live」は、スタジオ作では味わうことの出来ない、サムの演奏の勢いを感じさせる内容となっている。63年と64年のシカゴのクラブでの演奏と69年のアン・アーバー・ブルース・フェスティバルを収録したもので、没後のリリースながらサムの代表作として知られている。
 
マジック・サムのギター・スタイル、唱法は多くのブルースマンに影響を与えた。シカゴを舞台にした名作映画「ブルース・ブラザーズ」(1980年公開)では、「Sweet HomeChicago」を演奏する前に、ジョン・ベルーシが「偉大な故マジック・サムに捧げる」と叫んでいる。
 
1969年ごろからクリームやジミ・ヘンドリックスが脚光を浴びるとともに、ルーツとなったブルースへの関心が世界的に広まった。日本でも、関西を中心にウエスト・ロード・ブルース・バンド、憂歌団などブルース・バンドが登場し、1970年代を通じてブームとなった。
「ニューミュージック・マガジン」でも特集号が発行された。その中でも、定評のあったのが、マジック・サムの「ウエスト・サイド・ソウル」であった。日本での発売はライナーから推定すると1974年ごろと思われる。
それから数年以内には購入しているはずだ。

エリック・クラプトンがいくら逆立ちしてもマジック・サムになれないだろう。マジック・サムが生きていたらブルースというジャンルがどう変わっていったか。80年代以降はロバート・クレイが活躍している。


198978月にシカゴ、ニューヨーク、ナイアガラを旅行したとき、ミック・ジャガーがよくいくというブルース・クラブ3店のうち1店へブルースを聴きにいった。夜は危ない地区なので往復タクシーを使った。白人青年の姿が多かった。2時間ほど立って聴いていたので疲れてしまった。
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グレン・キャンベルの名曲 「ウィチタ・ラインマン」「ジェントル・オン・マイ・マインド」

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1960年代後半から1970年代にかけ、カントリー・ポップというジャンルでは、グレン・キャンベル、ジョン・デンバー、オリビア・ニュートン・ジョンらたちが名曲を送り出していた。
 
グレン・キャンベルGlen Campbell 1936年~2017年)は、アーカンソー州出身で、歌手、ギター奏者、テレビ司会者、俳優として活躍した。
ヒット曲には「ジェントル・オン・マイ・マインド(Gentle on My Mind)」(1967年、68)、「恋はフェニックス(By the Time I Get to Phoenix)」(1967年)、「ウィチタ・ラインマン(Wichita Lineman)」(1968)、「ガルベストン(Galveston)」(1969)、「ラインストーン・カウボーイ(RhinestoneCowboy)」(1975)、「サザン・ナイツ(Southern Nights)」(1975)などがある。
 
グレン・キャンベルは子供のころからギターを学び、1960年にロサンゼルスに移り、レッキング・クルーとよばれたスタジオ・ミュージシャンの一員として高い評価を受けた。ディーン・マーティン、ナット・キング・コール、モンキーズ、ナンシー・シナトラ、マール・ハガード、エルヴィス・プレスリー、フランク・シナトラ、フィル・スペクターらとレコーディングを行なった。 1964年から1965年にかけ、キャンベルはブライアン・ウィルソンの代役としてザ・ビーチ・ボーイズのツアー公演に参加し、彼らのアルバム『ペット・サウンズ』などのレコーディングにギター奏者として参加した。
その間、1961年からソロ活動を始め、レコードを出したがヒットには至らなかった。
1967年、プロデューサーのアル・ド・ロリーとチームを組むと、「ジェントル・オン・マイ・マインド」がヒットし、1967年の「恋はフェニックス」、1968年の「ウィチタ・ラインマン」が大ヒットした。
1968年から80年代始めまで多くのテレビ番組の司会をつとめ、人気を得た。
1975年の「ラインストーン・カウボーイ」はキャンベルにとって最大のヒットとなった。
 
「ジェントル・オン・マイ・マインドGentle on My Mind」。
ジョン・ハートフォードが作詞作曲し1967年に発表した楽曲。グレン・キャンベルのカバー・バージョンで知られる。ハートフォードが語るところによれば、映画『ドクトル・ジバゴ』を見たあとでインスピレーションがわき30分で書き上げられたという。キャンベルのバージョンはビルボードのカントリー・チャートで30位を記録し、彼にとって最初のヒット作品となった。翌19687月に再発売されるとより大きな成功を収め、ビルボード・Hot 10039位を記録した。
タミー・ワイネット(1968年)、R.E.M.2007年)、ザ・バンド・ペリー(2014)など多くのカバーがある。
 
「ウィチタ・ラインマンWichita Lineman」(1968年)。
ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング5002010年版)では195位にランクされている
作詞作曲はジミー・ウェッブ。オクラホマ州のウォシタ郡をドライブ中にウェッブは歌詞のインスピレーションを受けた。ただし「ウォシタ」は歌にそぐわないと判断され、カンザス州の都市のウィチタに地名が変えられた。
演奏メンバーはレッキング・クルーのメンバーが多く、ギターは、アル・ケイシー、ジェームズ・バートン、キャロル・ケイ、ベースはドン・ベイグリーで、ジム・ゴードン(ドラムズ)、アル・デ・ローリー(ピアノ)。ジミー・ウェッブがオーケストラ・アレンジを担当。中間部のベースはグレン・キャンベル。
 
ウェッブは夕日のなか、車を運転中に道路横の電話線の支柱の列が続くなか、柱の上に人影を見つけた。それは、孤独を示す絵画のようであった。郡に雇われて電話線を保守する男は、電話を持って誰かと話しているように思えた。それは、どこにでも見かけるブルーカラーの姿であった。ウェッブは孤独のなかで働く労働者の気持ちを想像していた。
グレン・キャンベルはデモを聴いた時、ホームシックにかかっていたので泣いてしまったと語っている。
始めのヴァースはF長調で、次のヴァースはD短調であるところが実際にはD長調に転調し、独特の効果をあげてている。強く緊張させた弦を使ったバイオリンが電話線を通り過ぎる風の音を作り出している。モールス信号のような音はキーボードで出している。
 
この曲のカヴァーは多い。「ジェントル・オン・マイ・マインドのカヴァーは女性が多いのに比べて、この曲は男性アーティストに人気があるようだ。
最近のロックバンドでは、R.E.M. ストーン・テンプル・パイロッツ、ガンズ&ローゼズがカヴァーしている。
 
1968年か69年、日本でも比較的同時期に「ウィチタ・ラインマン」はヒットし、ラジオでよく流れた。グレン・キャンベルの深みのある低音が変わった曲調を歌いこなしている。やはり、キャンベルのバージョンが一番いい。孤独を感じながら働く男の哀愁を感じさせる出来栄えだ。
Rhinestone Cowboy」は、軽快な曲だが深みはない。ラインストーンとは模造ダイヤモンドのこと。

ポップスの名曲 ジョン・デンバー 「Take Me Home, Country Roads」「Sunshine on My Shoulders」「Leaving               

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ジョン・デンバー John Denver1943年~1997年)は、1970年代のカントリー・ポップスを代表するシンガーソングライター。
本名はHenry John Deutschendorf Jr.。芸名の「デンバー」は、彼が愛したコロラド州の州都デンバーにちなんでつけたもの。
「故郷へかえりたい(カントリー・ロード)」「悲しみのジェット・プレーン」「太陽を背にうけて(Sunshine on My Shoulders)」など数多くのヒット曲を生み出した
 
ニューメキシコ州で生まれる。父親は空軍パイロット。11歳のとき、母方の音楽好きの祖母からアコースティック・ギターをもらう。テキサス州に住んでいた高校3年の時、父親の車でカリフォルニア州の知り合いを訪ね音楽活動を開始。父親が友人のジェット機で彼を連れ戻した。テキサス工科大学で建築学を学ぶが、1963年中退、ロサンゼルスに移住、フォーク・クラブで歌う。
1966年、ビートルズなどのカバーを含むアルバム『JohnDenver Sings』を自主制作。アルバムの中に収められていた「悲しみのジェット・プレーン」(当時のタイトルは「Babe, I Hate To Go」)がプロデューサーのMilt Okunによりピーター・ポール&マリーのアルバム『Album 1700』(1967年)に収録され、1969年にシングルカットされビルボードで1位となる。
 
196910月、デビュー・アルバム『Rhymes & Reasons』を発表。
19714月に発表したシングル「故郷へかえりたい(Take Me Home, Country Roads)」はビルボード2位を記録する大ヒットとなった
1976年、デンバーはコロラド州スノーマス近郊にニューエイジ・コミューンを作り、合気道によって宇宙精神と合致することを目指したり、ピラミッドのなかで瞑想を行い、将来自分が大統領になることなどを信じて、生活をした。
1977年、世界の飢餓に対する組織 HungerProject の創設者の1人となり、死まで組織を支える。
1994年、自伝「Take Me Home 」出版、自らの薬物使用、不倫、元妻への暴力を語る。
19971012、米国内ツアーを終えてカリフォルニアで休日を過ごしていたが、単独で操縦するプロペラ機が墜落し死亡した。葬儀はコロラド州で行われた。
 
 
Take Me Home, Country Roads 故郷へかえりたい」。
作詞・作曲はジョン・デンバー、ビル・ダノフ、タフィー・ニヴァート。
197011月のある日、ビル・ダノフと当時妻であったタフィー・ニヴァートが、ニヴァートの家族が再会する場所へ向かってワシントンDCに近いメリーランド州の曲がりくねった田舎道を車で走っているときに、空いた時間を使ってダノフが作ったバラードがもとになった。
ダノフは、歌詞の選択のさい「マサチューセッツ」ではなく、「ウエスト・ヴァージニア」を選んだ。歌詞にあるラジオというモチーフは、ダノフが育ったマサチューセッツで子供のころ聴いていたラジオ番組がウエスト・ヴァージニア州のラジオ局から流れていたことによる。また、マサチューセッツという言葉が音楽的でなく、既にビージーズが使っていたことも理由となった。
12月に、ワシントンDCのクラブでジョン・デンバーの前座としてデュオとして歌っていた二人はジョニー・キャッシュに提供することを考えていたこの曲をデンバーに聴かせると、デンバーは自分が歌うと主張した。二人は考えを改め、三人はダノフのアパートで、歌詞に手を入れ、未完成だったブリッジ部分を仕上げた。
 
19714月にリリースされ、ゆっくりとチャートを上っていき、8月にキャッシュボックスで1位となったが、ビルボードではビージーズの「How Can You Mend aBroken Heart / 傷心の日々」に阻まれて2位にとどまった。
歌詞に繰り返しウェストバージニア州が登場することから、同州の代名詞的な楽曲となっていたが、2014年に公式にウェストバージニア州の4番目の州歌となった。
なお、moonshineとは密造酒のこと。Sheは州、妻、恋人、母などさまざまに解釈されうる。
 
オリビア・ニュートン=ジョンのカバーバージョンは、イギリスでは19731月の全英シングルチャートで最高位の15位にランクインした。1976年には日本でもシングルカットされ、オリコン洋楽チャートで19761129日付から15週連続1位と大ヒットした。
1995年本名陽子でスタジオジブリのアニメ映画『耳をすませば』の主題歌として使われた。
 
Sunshine on My Shoulders 太陽を背に受けて」。
John Denver, Dick Kniss, Mike Taylorの共作である。1971年のアルバム「Poems, Prayers & Promises」に収録、1973年前半に、「I'd Rather Be a Cowboy」というシングル盤のB面として発売され、同年の後半にA面として発売された。19743月にビルボード1位になる。
197311月にガンで亡くなる若妻のストーリーを描いたNBCのテレビ映画のテーマ曲となり、ヒットを後押しした。この映画は、高視聴率のため1974年夏、3か月の間テレビシリーズとなった。
デンバーは、雪解けの時期に、太陽が輝くときを想って書いた。
 
Leaving on a Jet Plane 悲しみのジェット・プレーン」。
ジョン・デンバーが作詞作曲し、ピーター・ポール&マリーが1967年にアルバム収録曲として発表した楽曲。1969年、シングルカットされ全米チャート1位を記録した。
1966年、ジョン・デンバーはアルバム『JohnDenver Sings』を自費で制作し友人や家族に配った。「悲しみのジェット・プレーン」は「Babe, IHate To Go」というタイトルでその中に収録されていた。彼のレコードを聴いたピーター・ポール&マリーは「Babe, I Hate To Go」に感銘を受け、タイトルを変更して、1967318日発売のアルバム『Album 1700』に収録した。
19699月、ピーター・ポール&マリーは本作品をシングルとして発表した。同年1220日付のビルボード・Hot 1001位を記録した。
ジョン・デンバーは、196910月デビュー・アルバム『Rhymes & Reasons』で「Leaving on a Jet Planeとして、本作品を発表した。
 
Take Me Home, Country Roads 故郷へかえりたい」は日本でも1971年ごろ、よくラジオで流れていた。
オリビア・ニュートン=ジョン版もあるが、やはりジョン・デンバー版の印象の方が大きい。
1990年ごろ東京へ出張したときに、現地の同僚が生ギター伴奏カラオケクラブへ連れていkってくれたときに、この曲を歌ったが、うまく歌えずギターの男性にバカにされた苦い思い出がある。
ジブリ版の「カントリーロード」は知らなかった。曲のメロディーを使った日本の楽曲になっている。
PPMの「悲しみのジェット・プレーン」は、かすかに記憶がある。1969年ごろ日本のフォークは盛んだったが、アメリカのフォークへの関心は下火になっていた。ジョン・デンバーが原作とは知らなかった。ベトナム戦争に対する反戦歌であろう。
1974年ごろ「Sunshine on MyShoulders」が流れていたころは、学生運動が下火になって、ゆったりした気分の曲が好まれた時代だった。

ポップスの名曲 ウィリー・ネルソン 「On the Road Again」「Always on My Mind」「Georgia on My Mind」  

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ウィリー・ネルソンWillie  Nelson1933年~)はカントリー系-のシンガーソングライター。国民的歌手。
1960年代後半から保守的なカントリー音楽であったナッシュビル・サウンドに対抗して、アウトロー・カントリーのジャンルを切り開き、1970年代前半からヒットが続き商業的な成功を得た。
基本はカントリーだが、ジャズ、ポップス、ブルース、ロック、フォークを加味した独特のサウンドが特徴。
 
テキサス州生まれ。生後まもなく母親が家を出、父親も再婚したために、のちに彼のバンドでピアノを担当することになる姉のボビーとともに祖父母に育てられる。6歳のときからギターを弾き始め、高校時代はバンドのボーカル・ギターを担当した。卒業後、8か月間空軍に入隊。1952年最初の結婚をする、1954年から地元の大学で農業を学び2年で中退。地元でDJになる、その後、母の住むポートランドへ向かい、バンクーバーでDJや音楽活動を続ける。その後、コロラド、ミズーリを経てテキサスに帰り、1年間セールスマンの仕事に就いた。
1958年家族とヒューストンへ移り、DJをしながら、のちにカントリーのスタンダードとなる楽曲を作曲し、売り込んだ。
1960年、ナッシュビルへ移り、徐々に作曲家として認められていった。1962年に初のアルバム「.And Then I Wrote」を発表。1965年、グラン・オール・オープリーに出演。
1972年、一時的に引退するつもりで、オースティンへ帰るが、ヒッピー音楽が盛んな町であっため音楽活動を再開する。
1973年、アウトロー・カントリー系のアルバム「ShotgunWillie」を発表する。
1975年、カバー曲の「Blue EyesCrying in the Rain」がビルボード21位、カントリーチャート1位とヒット。
1978年アルバム「Stardust」がヒット。収録曲の「Georgia on My Mind」がビルボード84位、カントリーチャート1位とヒット。
1980年代、「Midnight Rider」「On the Road Again」「Always on My Mind」がジャンルを超えてヒットした。
1985年、スーパーグループ「ハイウェイメン」を結成し、ウェイロン・ジェニングス、ジョニー・キャッシュ、クリス・クリストファーソンらと活動した。
1985年から農民を守るため「ファーム・エイド」をニール・ヤング、ジョン・メレンキャンプらと開催。
1990年、内国歳入庁から、収入が多かった1980年代初めの節税対策が否認されため3200万ドルの支払いを求められる。交渉により600万ドルに減額され、ネルソンの資産はオークションにかけられた。ネルソンは節税をすすめた会計事務所を訴え、和解した。1993年には内国歳入庁への支払いは済んだ。
1990年代以降、精力的にアルバムを発表、ツアーを敢行し、さまざなジャンルのミュージシャンと共演している。
 
ネルソンは4度結婚し、7人の子をもうけた。最初の結婚は1952年から62年まで。妻の暴力に悩まされた。ベッドシーツごと体をくるまれて、箒で叩かれたこともあった。2度目は共演した歌手だったが、別の女性に妊娠・出産させ、病院からの請求書を見つけられて離婚した。3度目はその女性と結婚した。1991年に現在の妻と結婚した。息子のルーカスはニール・ヤングのバックバンドでもあるカントリー・ロックバンド「Promise of the Real」のリーダーでリード・ボーカルとギターを担当している。
 
ネルソンはテキサスに牧場を持ち、ハワイのマウイ島でも暮らしている。1981年から何度も肺炎にかかり、タバコとマリファナのどちらかを選ぶように迫られると、マリファナを吸うほうを選んだ。1977年、1994年、2010年にテキサス州でマリファナ不法所持のため摘発されている。
子供のころ、コミックの影響で日本の柔術に関心を持ったが、1980年代からテコンドーを学び、段位を持っている。1990年代からは韓国武術のGongkwon Yusul(空拳柔術)を学び段位を持っている。
政治的にはリベラルで民主党支持である。
 
On the Road Again」。1980年。ビルボード20位、カントリー部門1位。グラミー賞受賞曲。
作詞・作曲はウィリー・ネルソン。
地方巡業にあけくれるカントリー歌手の人生をテーマにした歌。ネルソンが主演した映画「HoneysuckleRose」の出演契約直後、帰途の飛行機のなかでプロデューサーからテーマ曲を要請されて、その場で作り、エチケット袋に書き留めた。曲のリズムはドラムのトレインビートをもとにしている。
 
Always on My Mind」。1982年。ビルボード5位。年間22位。グラミー賞受賞。
 作詞・作曲はジョニー・クリストファー、マーク・ジェイムズ、ウェイン・カーソン。
1969年、 B.J.トーマスが初録音。1972年ブレンダー・リーなどカントリー、ポップス部門でヒットする。
1972年エルビス・プレスリー版はビルボード20位。
1987年ペット・ショップ・ボーイズ版ビルボード4位。
 
Georgia on My Mind」。1978年。
1930年ホーギー・カーマイケルとスチュアート・ゴレルが作詞・作曲し、カーマイケル楽団が録音。ジャズのスタンダード曲となる。
1960年、ジョージア州出身のレイ・チャールズがカバーし、11月にビルボード1位とヒットした。
1979年ジョージア州の州歌に制定される。
1978年ウィリー・ネルソンがカバー。アルバム「Stardust」に収録。ビルボード84位、カントリーチャート1位とヒット。グラミー賞受賞(カントリー・男性歌唱部門)。
 
Midnight Rider」。1980年。
作詞・作曲はグレッグ・オールマンとロバート・ペイン。
1970年オールマン・ブラザーズ・バンドがシングルとして発表したが、チャートインせず。
1972年ジョー・コッカー版、ビルボード27位。
1973年グレッグ・オールマンのソロカバー版19位。
1980年ウィリー・ネルソン版、カントリー部門6位。
 
On the Road Again」のヒットで知ったと記憶する。「Always  on My Mind」も印象深い。この2曲でポップス史に残る。

悲惨な名古屋市の構想力 「名古屋・栄に五輪スポーツ広場」

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「名古屋・栄に五輪スポーツ広場 久屋大通公園バスターミナル跡地」というニュースが、2019218日付、中日新聞夕刊やテレビで流れた。
 
「名古屋市は十八日、来月末で閉鎖、移転する名古屋・栄の久屋大通公園内にある「栄バスターミナル」跡地の暫定利用を巡り、来年の東京五輪・パラリンピックと連動してスポーツをテーマに多くの市民が集えるイベント広場とする計画案を公表した。事業者として中日新聞社など五社によるグループを選んだ。広場は来年一月に開業予定。
 イメージ 1
中日ビルと名古屋三越栄店に挟まれた3900㎡のエリアに、70mトラックと人工芝の広場、円形ステージを組み合わせた「都心の競技場」を整備する。ランニングやスポーツイベントが楽しめ、五輪期間中にはパブリックビューイング(PV)も開かれる。開放的なテラス付きのカフェレストランが併設され、キッチンカーなどの移動車を集めた市場が立つスペースもある。
 
市は久屋大通公園の再整備を計画中で、2027年のリニア中央新幹線開業時点までに整備し、開業を目指しているが、栄の中心地にある今回のエリアを先行して暫定利用する。跡地の暫定利用は233月まで。」
 

暫定利用なので、まだいいとしてもスポーツ施設というのは都心にふさわしくない。音楽・芸術などの文化的野外施設を中心にプランニングしてほしい。
私が一番望むのは、音楽のミニライブ会場だ。現状、名古屋は文化的要素が少ない。都心にスポーツはありえない。ロッカー・着替え室、シャワールームが余分に必要になる。名城公園などふさわしい場所がある。
音楽用であれば、パブリック・ビューイングは可能。
音楽だけでなく演劇や漫才など、毎日やればいい。
姉妹都市のロサンゼルスから月代わりでミュージシャンをよべばいい。名古屋城やSLの復元費用に比べれば、はるかに安いはずだ。
 
テレビ塔下の部分の構想も、池とかで、広場機能がない。名古屋市やそこにむらがる電通などの企画会社の構想力は絶望的に悲惨だ。名古屋市の発展を妨げているだけだ。議員も同様。

ポップスの名曲 「スタンド・バイ・ユア・マン」 タミー・ワイネット ブルース・ブラザース

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タミー・ワイネット、または、タミー・ウィネットTammy Wynette1942年~1998年)は、カントリー・ミュージックのシンガーソングライター。

1966年歌手としてデビュー。1960年代後期から1970年代、23曲が第1位を獲得した。1970年代、ロレッタ・リン、ドリー・パートンと共にカントリー・ミュージックでの女性の地位を確立した。カントリー界の女性歌手としてレコードを最も売上げた。

ワイネットは「カントリー・ミュージックのファースト・レディ」とよばれ、ドリー・パートンの「9 to 5」に記録を破られるまで、彼女の最大ヒット曲「スタンド・バイ・ユア・マン(Standby Your Man)」はカントリー史上女性歌手最大のヒット・シングルであった。彼女のヒット曲の多くは孤独、離婚、男女関係の難しさなどをテーマにしたものである。ワイネットは5回結婚している。

 
「スタンド・バイ・ユア・マン」(Stand by Your Man)は、タミー・ワイネットが19689月に発表した楽曲。最もよく知られたカントリー・ソングのひとつ。2003年、カントリーの作曲家、プロデューサー、アーティストが選ぶカントリー100曲で『Stand By Your Man 』が1位に選ばれた。
作詞作曲はプロデューサーのビリー・シェリルとタミー・ワイネット。ナッシュビルのレコーディングスタジオで15分足らずで書き上げられたという。曲のアイデアはシェリルによる。ワイネットは当初この歌が好きになれずにいた。それまでに自分が書いてきたどの作品とも似てなかったからであり、また高音が歌いづらかったためである。
 
ビルボードのカントリー・チャートで3週にわたり1位を記録。196921日付のビルボード・Hot 10019位を記録した。ワイネットはこの曲によりグラミー賞で最優秀女性カントリー・ボーカル賞を受賞し、この曲の大ヒットによりスーパースターの一員に加わった。
 
この曲のメッセージは男性にどんな欠点があろうと女性はその男性のそばに留まるべきだというものであった。アメリカで女性人権運動が始まった1960年末頃から、フェミニストの運動家からこの曲は批判され議論を引き起こした。
 
1991年にビル・クリントンが大統領選に出馬する。19921月ビル・クリントンと歌手ジェニファー・フラワーズの12年間の不倫問題がタブロイド紙に書かれると、ヒラリーと夫婦でテレビ番組「60 Minutes」に出演し、ビルが否定したうえで結婚生活に問題を起こしたと認めたため、いったん収まったが、その直後にフラワーズは記者会見を開き、両者の間で交わされた電話の会話の一部を録音したテープを公表した。
ヒラリーは選挙期間中、「スタンド・バイ・ユアマン」を引用して、タミー・ワイネット的な見方を非難し続けた。ヒラリーが「家にいてクッキーを焼いてお茶を入れることもできたが、自分の職業を全うすることを選んだ」とコメントしたことで、「専業主婦に対して冷淡」とか「急進的フェミニスト」などという批判を浴びることになった。こうした批判は選挙運動中収まることはなく、ヒラリーはその対応に苦慮した。この頃、法律事務所や「ウォルマート」の社外取締役、児童防衛基金の会長などの職を次々に辞している。
ワイネットはクリントンのこの言葉に対し「全て私に当てはまり、あなたの辛辣な意見に不快に思う。あなたは全てのカントリー・ファンや、ホワイト・ハウスに行けない家庭的な人々の気分を害した」と記した。クリントンは多大なる否定的反応に直面し、その後謝罪してワイネットに資金集めイベントでの演奏を依頼し、ワイネットはこれを引き受けた。
 
Stand By Your Man 』はリン・アンダーソン、ドッティ・ウエスト、ロレッタ・リン、エルトン・ジョン、ライル・ラヴェットなど女性アーティストだけでなく男性アーティストからもカバーされており、ミー・ファースト・アンド・ザ・ギミー・ギミーズなどのロック・バンドにもカバーされている。
 
「ブルース・ブラザース」(1980年)。カントリー・バーでジョン・ベルーシとダン・エイクロイドが振り付けをしながら歌っている。
1982年ごろ、この音楽コメディー映画を見て、この曲に改めて注目した。大ヒット曲だけに、なんとなく知ってはいたと思う。R&Bバンドが金欲しさのため、本物のカントリーバンドを出し抜いて、カントリー・バーでライブをすることになったものの、選曲に困って、アメリカ人なら誰もが知っている「ロー・ハイド」やこの曲を演奏すると、大歓迎を受ける。当然、最初に見た時から保守層であるカントリーファンへの皮肉満載だなと思って見ていた。この曲が流れると、カップルは手を握って、肩を抱きしめ、独り者の男も感傷的になり泣き顔になる。ステージの金網に嵐のように投げつけられるビール瓶の描写を含めて、レッド・ネックをバカにしたシーンに笑ってしまった。

ポップスの名曲 リンダ・ロンシュタット 「It's So Easy」「You're No Good」

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リンダ・ロンシュタットLinda Ronstadt1946年~)は、アリゾナ州ツーソン出身の歌手、ミュージシャン。
カントリー、フォーク・ロックをルーツに持つ西海岸を代表する女性シンガーで、ロック、ポップ、ジャズ・スタンダードまで広いジャンルにわたり、主に1970年代から80年代にかけて絶大な人気を誇った。
 
馬車製造業で成功した父方の曾祖父はドイツからの移民で、アリゾナ州の歴史に残る家柄であった。曾祖父はメキシコ人女性と結婚した。母親は裕福な発明家の娘。

1960年代初めにフォークブームが到来し、リンダはジョーン・バエズを愛聴し、兄と姉との3人組でツーソンのコーヒーハウスやクラブで歌い始める。1965年、リンダはロサンゼルスに移り、リンダをボーカルとするフォーク・ロックバンド「ストーン・ポニーズ」を結成した。1967年にモンキーズのマイク・ネスミスの作品をカバーしたシングル「DifferentDrum」がビルボード13位とヒットしたが、1968年にバンドは解散。

1969年ソロでデビュー。1972年の3枚目のアルバム作成時に、友人のジャクソン・ブラウンにより、バック・バンドのメンバーとして集められたメンバーがのちにイーグルスとして独立した。
1974年、シングル「You're No Good」(1963年のR&Bヒット曲のカバー)がビルボード1位となり、存在が広く知られるようになった。なお、Midnight Special版は197312月に放送されたもの。
1977、バディ・ホリーの原曲をカバーしたシングル「It's So Easy」が5位。
1970年代後半、ロック・ポップス界で最も成功した女性歌手であった。80年代はジャンルを広げて活躍した。
イーグルスやニール・ヤング、ジェームス・テイラー、ジャクソン・ブラウン、J.D.サウザー、ミック・ジャガーなどのアーティストとも深い交流を持つ恋多き女性として知られ、カリフォルニア州知事のジェリー・ブラウン(民主党)との交際も騒がれた。
2011年に故郷アリゾナの地元紙のインタビューで引退したことを明らかにした。2013年、パーキンソン病と発表。2014年、ロックの殿堂入り。
 
1977年のイーグルス「ホテル・カリフォルニア」のヒットあたりから、再びウエストコーストに注目があたり、その頃に、ラジオで「It's So Easy」や「You're No Good」が流れた。
私はバラードが苦手なので、80年代以降は関心がなくなった。
それでも、リンダ・ロンシュタットが2014年にロックの殿堂入りをしたときの、トリビュート・ソングが「It's So Easy」だったことを踏まえれば、この曲が彼女のシグネイチャーソングであることは、アメリカ人は認めている。

心臓弁膜症と狭心症の合併手術を終え、身体障害者1級に。その後。

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2018131日に大動脈弁置換術と冠動脈バイパス術の手術を名古屋ハートセンターで受けた。病状は狭心症(冠動脈狭窄症)と大動脈弁閉鎖不全症。大動脈弁は機械弁ではなく生体弁を選択した。
 
20192月下旬現在の健康状態。
 
週1回の病院でのリハビリは9月下旬で終了。基本の6か月に追加の1か月。
歩行については、10分歩くと胸の不快感で休まざるを得なかったが、9月中旬ごろから、その症状はなくなった。
1月に入り、寒さのせいか、心電図計で不調の日が散見されてきたので、徒歩18分のスーパーやトレーニングジムへ歩いて行くのは休止して、自動車で行くことにしている。
感覚としては、宙に浮くような感覚で歩いているので、発症前の状態に戻ってはいない。
 
7月から徒歩18分の県のトレーニング・ジムへ週23回通っている。すべて無料。
エアロバイクからトレッド・ミルに変えて、30分歩くことにしている。
初めは20分歩行だったが11月ごろに30分歩行。
1月ごろからは、3分かけて時速4㎞、2分ごとに0.1㎞上げて、時速5㎞にして30分で終了。
消費量は100kcal。以前はエアロバイク30分で220230kcal、汗だくになったが、今はほとんど汗をかかない。
 
発症の原因は塩分の摂り過ぎが主な原因だと思われる。
リハビリ中、摂取塩分量の検査があり、1日目標6mgにするための塩加減が分かってきたので、なるべく減塩に努めている。
 
 
血圧。100台~120台で良好。以前よりも高くなったが、通常範囲になったともいえる。
 
心電図計。9月下旬から正常が続いた。1月から脈拍不安定・波形の乱れなど異常が再発するようになった。1月は10日。2月は6日。
 
201914日、手術した病院で半年ぶりにエコー検査と採血検査。
エコー検査。心臓機能は順調に回復。心筋も順調。弁機能良好。
 
採血検査。「NT-proBNP」。
心不全の診断や重症度の把握に用いられる数値。
BNPは心臓にストレスが加わったときに血中に増加する「心筋ストレスマーカー」
BNPは心室で合成・分泌され左室拡張末期圧を反映することから、心不全の診断補助として使用される。NT-proBNPは、前駆体ホルモンであるproBNPが分解されて生じるホルモンであり、1:1の割合でBNPと共に血中に放出され、BNPと同様に心不全で診断補助に使用されている。
 
参考基準値は125以下。
2018316日。965 H
2018511日。587 H
2018817日。367 H
201914日。 223 H
 
順調に低下している。
次回の通院検査は20201月。
 
222日(金)に毎月通院して薬をもらっている地元の病院で、心電図検査。
術後、正常になる場合もあるが、脚ブロックの症状は治っていない。
手術した病院の検査でも、それは分かっており、安定していれば、とくに問題はないといわれていた。

ポップスの名曲 ヘレン・レディ タニヤ・タッカー 「Delta Dawn デルタの夜明け」「I Am Woman」 

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Delta Dawn デルタの夜明け」は、タニヤ・タッカーTanya Tucker1958年~)が1972年に発表したデビュー・シングル。ヘレン・レディHelen Reddy1941年~)のカバー・バージョン(1973年、全米1位)で主に知られる。
ロカビリー・デュオで活動していたラリー・コリンズと、アレックス・ハーヴェイが作詞作曲した。
 
邦題の「デルタの夜明け」は誤訳である。かつて人々から「Delta Dawn」とよばれあがめられたテネシー州ブラウンズビル出身のサザン・ベル。彼女は現在41歳になったが、若いころ彼女に求婚した"Mysteriousdark-haired man" の幻影にとりつかれ、スーツケースを持ったまま街をさまよい歩く。
 
Chicken Soup for the Soul」というHPに、アレックス・ハーヴェイが「Delta Dawn」を書いた経緯が書かれている。
ある人は私(ハーヴェイ)が育ったテネシー州ブラウンズビルの狂った女性のことだと考えているようだが、本当のことを言おう。15歳のとき、私が所属していたバンドがコンテストで優勝して、ジャクソンでテレビ・ショーに出演することになった。それを聞いて、私の母も行きたいと言った。彼女が酔っぱらて、恥かしいことをすると思い、私はその夜は来ないように頼んだ。テレビ局での録画を終えて、帰宅すると彼女はいなかった。すると、母親の知り合いの女性たちが運転する自動車が家に来て、「あなたの母親は亡くなった」と告げた。母は酒を飲んで猛速で車を走らせ、立木に衝突して亡くなった。どうも自殺らしいという。それ以後の高校時代や青年時代は、テレビ出演での同行を断ったことが自殺の一因だ思い、罪悪感をもちつづけた。楽曲制作の道を選んだのは、それを克服する手段でもあった。
10年後の1973年(間違い)、私はロサンゼルスに住み、ある日、ドティー・ウェストのライブを音楽仲間たちと聴いたのち、一同でラリー・コリンズの家に行き、作曲仲間のラリーと朝の4時半までギターを弾いていた。皆は寝てしまったが、ふと気が付くと、母が部屋に入ってきて、ロッキング・チェアーに座って笑いだした。
母はミシシッピデルタからやってきて、まるでいつも手にしたスーツケースをどこにも置く場所がないような生涯を送った。彼女は町の美容師で、自由な精神を持った人だったが、小さい町の人々には理解されず、人間的な成長を遂げる道を閉ざされた。「She's forty-one and her daddy still calls 'er "baby" All the folks 'round Brownsville say she's crazy」はこのときに、浮かんだ歌詞だ。すると、ラリーが起き上がってきて、ギターを持ち、こういうふうに演奏しようといって、20分ほどで曲が出来上がった。
'
サザン・ベルとは南部美人のことである。「Delta Dawn」は実在の名前なのかと思ったが、あだ名でもなく、母親を意識した架空の名前のようだ。
 
作者のアレックス・ハーヴェイが1971年にアルバム『Alex Harvey』にレコーディング。これがオリジナル・バージョンとされる。そのとき、バックで歌ったトレイシー・ネルソンがニューヨークのボトムラインで歌った。トレイシーのファンだったベット・ミドラーが曲を聴いて、レパートリーに加え、19736月シングルとしてリリースしたが、2日前にヘレン・レディがリリースしたので、B面になった。
 
1972年、プロデューサーのビリー・シェリルは、この曲をベット・ミドラーのシングルとして出そうとしたが、ミドラーはエピックと契約してしまった。
当時13歳のタニヤ・タッカーはコロムビア・レコードと契約したばかりで、シェリルは「The Happiest Girl in the Whole U.S.A.」をタッカーのデビュー曲として考えていたが、タッカーはトーク番組『ザ・トゥナイト・ショー』でベット・ミドラーが歌っているのを聞き、「デルタの夜明け」にしたいと主張した。同年5月、シングルA面として発表。ビルボード・Hot 10072位、カントリー・チャートで6位を記録した。
 
1973年、ヘレン・レディのプロデューサーを務めていたトム・カタラーノは、タッカーのバージョンに似せたアレンジのインストゥルメンタル・トラックを作りバーブラ・ストライサンドに歌わせようとしたが、ストライザンド側が断ったため、タッカー・バージョンに比べキーを上げてレディが歌うことになった。
同年6月にシングルA面として発表され、ビルボード・Hot 1001位を記録する大ヒットとなった。ビルボードの1973年の年間チャートでも14位を記録した。

もちろん、夜明けの歌だと思い込んでいた。カントリーというよりも、もともとR&Bに近い曲調で、力強く歌う歌手に向いた歌。
 
ヘレン・レディはオーストラリア・メルボルン出身。1960年代末にロサンゼルスに渡った。1972I Am Woman私は女」、1973年「デルタの夜明け」、1974年「アンジー・ベイビー」の3曲がナンバー1に輝いた。1970年代、国際的な成功を収めた。
「私は女」(1972年)は大衆文化で大きな役割を果たし、彼女は「フェミニストのポスターガール」、「フェミニストのアイコン」として知られるようになった。
 
タニヤ・タッカーは、カントリー界でおもに1970年代にヒットを出した。
当時、ラジオで名前だけでなく何曲か聴いたはずだが、曲は記憶に残っていない。1977年ごろ、ある施設で売店担当責任者として勤務していたころ、ポニーキャニオンのカセットテープ販売コーナーがあり、3か月ごとに営業担当者が来て、商品の補充をしていた。彼に、マーシャル・タッカー・バンドを愛聴していると言っていたら、あるとき、タニヤ・タッカーと関係がある名前ですかねと、聞いてきた。実際には、何の関係もなかったのだが、当時は情報が乏しい時代だったので、そうかも知れないと答えた。今、思えば、彼は業界の人間なので、本当のことを知っていたのではないかと思う。私をからかっていただけかもしれない。タニヤ・タッカーの名前にはそんな思い出がある。
従業員割引があったので荒井由美の「14番目の月」のカセット・アルバムを買ったが、1年もたたずに盗まれてしまった。しっかり記憶するぐらい曲は聴きこんだので、まあしょうがないと思って諦めた。

アール・スクラッグス・レビュー 「ロンサム・ルーベン」「フォギー・マウンテン・ブレイクダン」「Country Comfort」 エルトン・ジョン、バーズ

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Lonesome Reuben 0分00秒
T for Texas  12分08秒
Foggy Mountain Breakdown 37分20秒
A1 - Lonesome Ruben (Earl Scruggs Revue)A2 - Battle Of New Orleans (Nitty Gritty Dirt Band)A3 - You Ain't Goin' Nowhere (Joan Baez)A4 - Freight Train Boogie (Doc & Merle Watson)A5 - T For Texas (Earl Scruggs Revue)A6 - Roll Over Beethoven (Byrds)B1 - Me And Bobby McGee (Ramblin' Jack Elliot)B2 - Mr. Tambourine Man (Byrds)B3 - Black Mountain Rag (Doc & Merle Watson)B4 - The Night They Drove Old Dixie Down (Joan Baez)B5 - Diggy Diggy Lo (Nitty Gritty Dirt Band)B6 - Blowin' In The Wind (Joan Baez)B7 - Foggy Mountain Breakdown (Earl Scruggs Revue)B8 - Billy Fehr (Ramblin' Jack Elliot)

アール・スクラッグス・レビュー Earl Scruggs Revue は、ブルーグラス・ロックのバンドで1969年から1982年まで活動した。メンバーはバンジョー奏者のアール・スクラッグスと彼の息子であるランディ・スクラッグス(ギター)、ゲイリー・スクラッグス(ベース、ボーカル)、スティーブ・スクラッグス(ドラム)を中心に構成されていた。
 
アール・スクラッグス(1924年~2012年)は、スリーフィンガー・ピッキング奏法(スクラッグス・スタイル)を確立させ、バンジョーをソロ楽器に変えた革新者であった。
「フォギー・マウンテン・ブレイクダンFoggy Mountain Breakdown」は、アール・スクラッグスが1949年に作曲した作品(もともとはアールの父が作ったともいう)で、映画「Bonnieand Clyde 俺たちに明日はない」(米1967年・日1968年)に使用され、ニューシネマ、サブカルチャーを象徴する楽曲として、日本でも広く知られている。
 
アール・スクラッグスはノースキャロライナ州で生まれ育った。
1945年にビル・モンローのブルーグラスボーイズに加入。スクラッグスのアクセントの効いたスリーフィンガー・ピッキング奏法は、またたく間に人気となった。
1948年、スクラッグスは、ギターのレスター・フラットと共に、ブルーグラス・ボーイズを脱退し、フォギー・マウンテン・ボーイズを結成。「フラット&スクラッグス」として知られるようになり、1950年代・60年代に人気を博した。1960年代後半の音楽の変化に対応しようとしたスクラッグと保守的なスフラットと意見が分かれ、1969年にフォギー・マウンテン・ボーイズは解散した。

1969年、スクラッグスは3人の息子たちにフィドルのヴァッサー・クレメンツ、ドブロのジョッシュ・グレイブスを加えて、「アール・スクラッグス・レビュー」を結成した。
同年11月、新バンドはワシントンD.C.で開かれたベトナム反戦コンサートで演奏した。スクラッグスはブルーグラス界・カントリー界で反戦の立場に立った数少ないミュージシャンの一人だった。
「アール・スクラッグス・レビュー」は学生の間で人気が高く、キャンパスでの公演によく招かれ、ステッペンウルフ、バーズ、ジェームズ・テイラーなどと共演した。1970年代にはテレビ番組にも出演した。1972年のアルバム「I Saw the Light with a Little Help from my Friends 」では、リンダ・ロンシュタット、アーロ・ガスリー、ニッティー・グリッティー・ダートバンドNGDBをフューチャーし、NGDBがカントリーの大物たちとコラボレートしたアルバム「Will the Circle be Unbroken」を制作するきっかけとなった。
1975年・76年には、ビリー・ジョエル、レナード・コーエン、ケニー・ロギンス、ジム・メッシーナ、アルビン・リー、ダン・フォーゲルバーグ、チャーリー・ダニエルズ、トレイシー・ネルソンたちをフューチャーしたアルバムを制作している。
1980年にアール・スクラッグスが背中を痛めてツアーができなくなり、1982年に「アール・スクラッグス・レビュー」は解散した。「アール・スクラッグス・レビュー」は商業的に成功したが、カントリー界の保守派からは受け入れられなかった。
その後も、アール・スクラッグスはランディ・スクラッグスとともに活動を続けた。
2001年のアルバム「Earl Scruggsand Friends」では、エルトン・ジョン、スティング、ドン・ヘンリー、ジョニー・キャッシュ、ドワイト・ヨーカムたちをフューチャーしている。
 
私が「アール・スクラッグス・レビュー」を聴いたのは、1977年に日本で発売されたLP「バンジョーマンBanjoman」を当時購入して以来で、とくにA1の「ロンサム・ルーベンLonsome Rueben」のエレクトリックギターのソロには感動した。
アルバム「バンジョーマンBanjoman」は、19731月カンサス州マンハッタンにあるカンサス・ステート大学で行われたライブを収録したもので、1975年にはドキュメンタリー映画「Banjoman」として公開されたが、日本では未公開である。
タイトルでは、ヴァージニア州に生まれ、バンジョーの魅力に取りつかれて、1831年に5弦バンジョーを発明したジョエル・スゥニィーを讃えているが、実質的にバンジョーの革新者アール・スクラッグスに敬意を表したコンサートで、ジョーン・バエズ、デヴィッド・ブロムバーグ、バーズ、ランブリン・ジャック・エリオット、ニッティー・グリッティー・ダート・バンド、ドク・ワトソン、トレイシー・ネルソン&マザー・アースら7組のゲストを迎えて、1万人余りの観客の前で、夜の7時から翌朝7時まで、ラストの「フォギー・マウンテン・ブレイクダン」まで演奏は12時間にわたって繰り広げられた。
このコンサートの6か月後、出演したバーズのクラレンス・ホワイトが他界したとオリジナルのライナー・ノーツに記されていると、小倉エージ氏は解説している。
当日のアール・スクラッグス・レビューのパーソネルは、アール、ランディー、ゲイリー、クレメンツ、グレイブスとジョディ・メフィス(ドラム)とスティーブ・スクラッグス(ギター)とされる。
 
「ロンサム・ルーベンLonesome Reuben」のソロはアールのバンジョー、グレイブスのドブロ、アコースティックとエレクトリックを持ち替えているらしいランディのギターがフューチャーされて、ブルーグラス・ロック的な趣を持つサウンドが聴かれる。
T フォー・テキサス T for Texas」は、ジミー・ロジャースの作品で、ゲイリーがボーカル、ランディのギター、グレイブスのドブロ、アールのバンジョーと続く。
 
Country Comfort」はエルトン・ジョンの3作目のアルバム「Tumbleweed Connection(1970)の収録曲。アール・スクラッグス・レビューは1971年にシングルを発表。アメリカのカントリー・ミュージシャンが多くカバーしている。2004年にはニコール・キッドマンの夫であるキース・アーバンがカバー。
 
Our Love Is Home Grown1978年。
1971 - When Rock & Roll Met Bluegrass」バーズとボブ・ディランの「You ain’t Goin’ Nowhere」を演奏。

ロックの名曲 アメリカ 「名前のない馬 A Horse With No Name」

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アメリカ(America)は、1969年イギリス・ロンドンで結成されたフォークロックグループ。「名前のない馬 AHorse With No Name」のヒットで知られる。
1969年ジェリー・ベックリー、デューイ・バネル、ダン・ピークの3人により結成された。3人とも父親はロンドンに駐留するアメリカの軍人であり、アメリカンスクールでの仲間だった。当初は地元の米人のティーンが集まるクラブで、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのカバーを歌うことが多かった。
1971年にデビュー。
 
デューイ・バネル(1952年~)は、イギリス・ヨークシャー州生まれ。父は米空軍の駐留軍人、母は英人。バネルはビートルズとビーチ・ボーイズに影響を受けた。
 
ジェリー・ベックリー((1952年~)は米軍人の父親と英人の母親の間に生まれた。1962年ヴァージニア州でサーフミュージックのバンドでギターを担当。毎年、夏にはイギリスで過ごし、ビートルズなどの音楽に触れた。
1967, ベックリーの父親がロンドン近郊の駐英空軍基地司令官として赴任し、ともに渡英。高校でバンド活動をするうちに他の二人と知り合った。
 
ダン・ピーク(19502011年)は、フロリダで生まれた。父親は米空軍軍人。幼少期はリューマチのため病院生活を送った。1963年、父親の駐英勤務にともない、家族とともに渡英。
アメリカ時代は酒と麻薬で苦しみ、ツアー生活にも疲れて1977年に脱退、キリスト教の信仰にもとづく現代クリスチャン・ミュージックの先駆者となる。
 
1972年に発表したシングル「名前のない馬(AHorse With No Name)」がビルボード1位の大ヒットとなった。グラミー賞の最優秀新人賞を受賞した。同年にロサンゼルスに活動拠点を移す。
さわやかなコーラスを生かした素朴なサウンドは、当時すでに人気を確立していたクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングと比較されることが多かった。その後も「アイ・ニード・ユー」「ヴェンチュラ・ハイウェイ(Ventura Highway)」、「ティン・マン」、「ロンリー・ピープル」、「金色の髪の少女(Sister Golden Hair)(1975)、「ひなぎくのジェーン(Daisy Jane)」、「夢のカリフォルニア」「風のマジック(You Can Do Magic)(1982)といったヒット曲を送り出した
 
「名前のない馬(A Horse With No Name)」。作詞・作曲デューイ・バネル。
197111月ヨーロッパで発売、1972年初めアメリカで発売。
バネルの解説によれば、スタジオに架けられていたダリの絵画から着想を得た「DesertSong」と、エッシャーの絵画からヒントを得た「Horse」とよばれる二つの歌がもとになったという。
また、子供のころ家族でアリゾナやニューメキシコの砂漠を旅行した思い出ももとになっている。
馬とは人生の混沌から抜け出し、静かで平和な土地へ至る手段の暗喩であるという。
ただし、馬はヘロインの俗語であったので、アメリカのラジオ局では放送禁止になることもあった。
曲はEドリアン・モードで録音された。12弦を含むアコースティック・ギター、ベース、ドラム、ボンゴを使用。
曲はニール・ヤングの一連の曲との類似を指摘された。偶然にも、ニール・ヤングの「Heartof Gold」が318日にビルボード1位であったが、アメリカの「A Horse with No Name」が翌週の325日から3週連続1位となった。
評論家からは、"The heat was hot";"There were plants, and birds, and rocks, and things"; and"'Cause there ain't no one for to give you no pain." という歌詞の不自然さを酷評された。ベックリーはのちに、インタビューで、歌詞を作っていたときに、マリファナを吸っていたことを認めている。
文化放送オール・ジャパン・ポップ20では197242420位初登場、612日~755週連続1位。
 
この曲で印象的だったのは、コーラスの「ラーラーラ、ララララ、ラララ」のメロディーとハモリ。バース部分の唱法はウォーター・フォール(滝)唱法とよばれているらしく、新鮮に聞こえた。
 
「金色の髪の少女(Sister Golden Hair)(1975)。ビルボード1位。
作詞・作曲ジェリー・ベックリー。
そのほかの、ヒット曲とよばれる曲群はイマイチであった。
 

1982年の「風のマジック(You Can Do Magic)」は US Radio & Recordsで最高 3位だったので、ベストヒットUSAでよく見た記憶がある。外部の曲だが、サビの部分は印象的だった。


CSN&Yのコーラスにはもったいぶった感じがある。アメリカには素直でさわやかさがある。
CSN&Yのメンバーは全員キャリアが長く、ストレートな表現では納得いかなかったのだろう。

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