感状山城跡。南曲輪の石垣。国史跡。赤松氏城跡。相生市矢野町瓜生。平成26年5月11日(日)。たつの市室津の見学を終え、9時30分頃に出発し、赤松氏の居城であった感状山城の登城口がある相生市羅漢の里へ向かった。
感状山城の築城には、鎌倉時代に瓜生左衛門尉が築いたとする説と、建武3 (1336)年、赤松円心の三男赤松則祐が築いたとする説がある。
建武年間(1334~1336)、足利尊氏を追討する新田義貞の軍勢を赤松円心の三男則祐が奮戦し50余日にわたり足止めをした結果、足利尊氏に反撃の機会を与えることとなり、この功績により足利尊氏が,赤松則祐に感状を与えたことから感状山と呼ばれるようになったという。
感状山城は総石垣による曲輪の築造状況の点から,当初からのものではなく、戦国時代にこの周辺を支配した宇喜多氏により増改修されたものという説もある。
建武年間(1334~1336)、足利尊氏を追討する新田義貞の軍勢を赤松円心の三男則祐が奮戦し50余日にわたり足止めをした結果、足利尊氏に反撃の機会を与えることとなり、この功績により足利尊氏が,赤松則祐に感状を与えたことから感状山と呼ばれるようになったという。
感状山城は総石垣による曲輪の築造状況の点から,当初からのものではなく、戦国時代にこの周辺を支配した宇喜多氏により増改修されたものという説もある。
10時過ぎに、羅漢の里へ着いたが、ここがどういう場所かはよく分からない。道路の左右に数軒の売店が並び、そこそこの地元の人々が歩いている。車道奥に水車小屋があり、その横の駐車場に駐車し、付近を歩いて登城口を捜すと。水車小屋横に登城道があることを確認した。
10時20分頃に歩きだすと、すぐに瓜生羅漢石仏への道を左に分け、右の山腹の九十九折りの坂道を登る。熟年男性と対向後、ほどなく、熟年女性二人組を抜くと、稜線に達し、右に岩場があったので、これが城跡かと思ったら、物見岩であった。展望はさほどない。
ここではないと分かったので、稜線の尾根道を先に進むと、倉庫や台所があったとされる広いⅢ曲輪群に出た。右側にロープがあり、山腹をへつる小石が多く滑りやすい道を登るらしかった。
実は3年ほど前に道の駅相生近くの歴史民俗資料館を見学したおり、入手した説明マップを持参していたが、車に置いてきてしまったのだ。それを見ると、Ⅲ曲輪群から分岐して南に下ると、井戸があり、総石垣造りの大手門跡に至っている。
分岐を東に登っていくと、感状山城跡を代表する遺構である南曲輪群の石垣下に出た。
上部に残る二段目の腰曲輪の石垣は城跡の中でも最も大きな石垣であり、保存状態もよく全長21m、高さ4.5mの規模を持っている。野面積みにより構築され、自然石を30cm角のものから、大きいのは1mあまりのものを使っている。
10時20分頃に歩きだすと、すぐに瓜生羅漢石仏への道を左に分け、右の山腹の九十九折りの坂道を登る。熟年男性と対向後、ほどなく、熟年女性二人組を抜くと、稜線に達し、右に岩場があったので、これが城跡かと思ったら、物見岩であった。展望はさほどない。
ここではないと分かったので、稜線の尾根道を先に進むと、倉庫や台所があったとされる広いⅢ曲輪群に出た。右側にロープがあり、山腹をへつる小石が多く滑りやすい道を登るらしかった。
実は3年ほど前に道の駅相生近くの歴史民俗資料館を見学したおり、入手した説明マップを持参していたが、車に置いてきてしまったのだ。それを見ると、Ⅲ曲輪群から分岐して南に下ると、井戸があり、総石垣造りの大手門跡に至っている。
分岐を東に登っていくと、感状山城跡を代表する遺構である南曲輪群の石垣下に出た。
上部に残る二段目の腰曲輪の石垣は城跡の中でも最も大きな石垣であり、保存状態もよく全長21m、高さ4.5mの規模を持っている。野面積みにより構築され、自然石を30cm角のものから、大きいのは1mあまりのものを使っている。
南曲輪群からの展望。羅漢の里南の瓜生集落が見えている。ここからの南方向への展望は良く、Ⅰ曲輪よりも優れている。
南曲輪群は、自然の尾根を利用して、六つの削平地を階段状に造っている。この曲輪群は、大手門から本城へ侵入する敵を防ぐための要所となっている。
南曲輪群は、自然の尾根を利用して、六つの削平地を階段状に造っている。この曲輪群は、大手門から本城へ侵入する敵を防ぐための要所となっている。
南Ⅱ曲輪。II 曲輪は、標高296m、北 II 曲輪と南 II 曲輪の二つの曲輪によって構成されている。全体は石垣により支えられ、やせ尾根上を最大限に利用し、また西側は犬走りと呼ばれる3~4m幅の帯曲輪が配置され、敵が侵入しにくいような工夫がされている。
南 II 曲輪では、隅櫓と大規模な建築とみられる礎石群が発見されています。隅櫓は、見張りを目的とした建物であったと推定されている。
また大型の建物は広間を中心に多くの小部屋をもっており、I 曲輪が本丸御殿に対して、II 曲輪は、常の御殿の建物の可能性があり、建築の時期は柱の間隔から十六世紀末頃と推測されている。
南 II 曲輪では、隅櫓と大規模な建築とみられる礎石群が発見されています。隅櫓は、見張りを目的とした建物であったと推定されている。
また大型の建物は広間を中心に多くの小部屋をもっており、I 曲輪が本丸御殿に対して、II 曲輪は、常の御殿の建物の可能性があり、建築の時期は柱の間隔から十六世紀末頃と推測されている。
北Ⅱ曲輪。南Ⅱ曲輪から尾根を進み、北Ⅱ曲輪の先に、頂上台地のⅠ曲輪が見えてくる。
Ⅰ曲輪。主郭・本丸に相当するⅠ曲輪は、標高301.05m、城の―番奥の北隅にある。
南側斜面は地山の岩盤に自然石を組みあわせた石垣により囲まれている。曲輪内には、建物跡の礎石や排水溝と思われる横一列に並んだ石組みが発掘調査により発見されている。この礎石の配列から敷地いっばいに本丸御殿が築造されていたと推定されている。
南側斜面は地山の岩盤に自然石を組みあわせた石垣により囲まれている。曲輪内には、建物跡の礎石や排水溝と思われる横一列に並んだ石組みが発掘調査により発見されている。この礎石の配列から敷地いっばいに本丸御殿が築造されていたと推定されている。
Ⅰ曲輪。北東方向への眺望。山並みが見えている。
曲輪内の中央から建物の柱穴が発見され、この中の底部から稲籾と16枚の銅銭、小皿が出土した。これは、建物を建てるときの宗教的な意味を持つ「地鎮」ではないかと考えられている。
曲輪内の中央から建物の柱穴が発見され、この中の底部から稲籾と16枚の銅銭、小皿が出土した。これは、建物を建てるときの宗教的な意味を持つ「地鎮」ではないかと考えられている。
下山する途中、Ⅱ曲輪の下で山ガールの服装をした若い女性二人組と対向、南曲輪で先ほどの熟年女性二人組と出会った。軽い山歩きにふさわしい山城で、人気があるようだった。
11時30分頃に下山して、上郡町の白旗山城跡へ向かった。
11時30分頃に下山して、上郡町の白旗山城跡へ向かった。
宝林寺境内の円心館。上郡町河野原。「赤松三尊像」と呼ばれる赤松円心・円心の三男則祐・別法和尚(雪村友梅の説もあり)および則祐の娘千種姫の木坐像をはじめ、円心や赤松家ゆかりの文化財を陳列している。
千種川沿いに国道373号線を北上、苔縄駅を過ぎ、右に「赤松の郷」という看板を見て、智頭急行・河野原円心駅方面へ左折すると、宝林寺に着いた。境内の右に円心館があるが、ガラス戸は閉まっていて、電話で連絡して開けてもらわねばならない、ガラス戸越しに木像は見ることができるので、これで満足することにした。
宝林寺は、文和4年(1355)、赤松円心の三男赤松則祐により備前国新田荘中山(岡山県和気町)から現在の地に移されたという。
千種川沿いに国道373号線を北上、苔縄駅を過ぎ、右に「赤松の郷」という看板を見て、智頭急行・河野原円心駅方面へ左折すると、宝林寺に着いた。境内の右に円心館があるが、ガラス戸は閉まっていて、電話で連絡して開けてもらわねばならない、ガラス戸越しに木像は見ることができるので、これで満足することにした。
宝林寺は、文和4年(1355)、赤松円心の三男赤松則祐により備前国新田荘中山(岡山県和気町)から現在の地に移されたという。
この近辺の苔縄の地が赤松氏発祥の地である。佐用荘の地頭職山田則景の四男家範がこの赤松村に地頭代官として送り込まれ、赤松氏と名乗ったと伝わる。その4代目が赤松則村(円心)である。
「元弘の乱」に円心も参戦し、苔縄城で挙兵、京に攻め入り鎌倉幕府軍と戦った。この参戦のきっかけは息子則祐が後醍醐天皇の皇子である護良親王に近侍していたからだといわれている。
南北朝の動乱が始まると、建武3(1336)年の白旗山合戦において、支城の感状山城とともに赤松円心は白旗城に立て籠もった。新田義貞軍は50日間にわたって攻めたが結局攻め切れず、足利尊氏の幕府創設への道を開くことになり、円心はその活躍により播磨守護職に任じられた。
赤松の郷方面へ戻り、白旗山城跡の登城口を探す。
「元弘の乱」に円心も参戦し、苔縄城で挙兵、京に攻め入り鎌倉幕府軍と戦った。この参戦のきっかけは息子則祐が後醍醐天皇の皇子である護良親王に近侍していたからだといわれている。
南北朝の動乱が始まると、建武3(1336)年の白旗山合戦において、支城の感状山城とともに赤松円心は白旗城に立て籠もった。新田義貞軍は50日間にわたって攻めたが結局攻め切れず、足利尊氏の幕府創設への道を開くことになり、円心はその活躍により播磨守護職に任じられた。
赤松の郷方面へ戻り、白旗山城跡の登城口を探す。
白旗山城跡。国史跡。標高440mの白旗山に築かれた播磨守護家赤松氏の居城。
赤松則村(円心)が足利尊氏に従い、宮方の新田義貞の西進を食い止めるために築いたといわれる。
地の利が悪いため、赤松氏の本拠は城山城、坂本城へと移っていった。嘉吉元(1441)年の赤松満祐による嘉吉の乱において落城したとされる。
細野口の国道沿いから見える看板の方へ近づくことにした。
赤松則村(円心)が足利尊氏に従い、宮方の新田義貞の西進を食い止めるために築いたといわれる。
地の利が悪いため、赤松氏の本拠は城山城、坂本城へと移っていった。嘉吉元(1441)年の赤松満祐による嘉吉の乱において落城したとされる。
細野口の国道沿いから見える看板の方へ近づくことにした。
白旗山城跡縄張り案内図。現在残る縄張りは戦国時代に築かれたもので、尾根上や南谷筋に本丸・二の丸・三の丸・櫛橋丸・馬場丸・侍屋敷・桜門と伝えられる曲輪跡や堀切・土塁・石積などの防御施設が残っている。
看板近くの三叉路に案内板がある。
看板近くの三叉路に案内板がある。
白旗山城跡案内図。尾根上の地点の曲輪を図示しているものは珍しい。
白旗山城跡。案内図の現在地から、小川付近まで進むと、橋の横に城跡見学らしき岡山ナンバーの車が駐車していた。スペースがないので、小川近くの空き地に駐車。
民家右側の道を進むと、「扉を開閉できる方はご自由にお通り下さい」と書かれたゲートがあり、ロープをほどいて開閉し、さらに進む。
左側に五輪塔や八幡社跡の案内を見ながら、車で通行できる程度の舗装道を進むと、地図上のトイレ地点に出た。
民家右側の道を進むと、「扉を開閉できる方はご自由にお通り下さい」と書かれたゲートがあり、ロープをほどいて開閉し、さらに進む。
左側に五輪塔や八幡社跡の案内を見ながら、車で通行できる程度の舗装道を進むと、地図上のトイレ地点に出た。
登城道。トイレから右側に歩くと、徐々に坂道となり、石ころ混じりの道となる。数分後に、若い男性と息子に出会い、大変でしたという感想を聞いた。石が岩になり、苔で青く変色し歴史の重みを感ずるとともに、山ヒルが心配になってきたが大丈夫だった。かなり長く岩道を登り、ようやく尾根の稜線に突き当たると、西端の堀切となる「堀切」表示の所へ出る。道は尾根の南側に付けられている。
この少し先に石積みが見え、さらに左へ櫛橋丸との案内があるが、まずは本丸跡を目指す。
この少し先に石積みが見え、さらに左へ櫛橋丸との案内があるが、まずは本丸跡を目指す。
二の丸。堀切を過ぎると、二の丸に出る。さらに長い馬場丸を経て本丸跡を目指す。
白旗山城本丸跡。橋付近のゲートから47分で到着。
本丸の広さは33m×21.5mあり、結構広い。
本丸の広さは33m×21.5mあり、結構広い。
白旗山城本丸跡。立派な城址碑が建てられている。
白旗山城本丸跡。西の千種川方面への眺望は良い。麓からも分かるように、人工的に刈払いしてくれているようで、有難い。
このまま、往路を下り下山した。
ゲートから12時50分に登り、ゲートには14時20分に到着した。
このあと、赤穂市の赤穂城跡へ向かった。
このまま、往路を下り下山した。
ゲートから12時50分に登り、ゲートには14時20分に到着した。
このあと、赤穂市の赤穂城跡へ向かった。