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兵庫県たつの市室津 賀茂神社 浄運寺 万葉歌碑 清十郎生家跡 木村旅館跡

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パノラマ。室津港と室津湾。唐荷島と家島諸島。(右下クリックで拡大)
半島に囲まれた波静かな良港であることが良く分かる。

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室津の町並み。たつの市。平成26年5月11日(日)。本日は、たつの市の室津、相生市の感状山城跡、上郡町の白旗山城跡、赤穂市の赤穂城跡、花岳寺、坂越地区を見学。兵庫県海岸部を終え、翌日から岡山県海岸部へ軸足を移した。
道の駅相生を午前7時頃に出発、海岸部の国道250号を東進し、崖上のヘアピンカーブをツーリングバイクと並走しながら、室津半島の根元から海沿いの町並みに入り、豪商の家を再利用した室津民俗館の前で一旦車を降りた。
東の御津町側から進入したが、西の相生側からは友君橋から進入し、町並みに近い橋桁下に駐車してもよかった。
室津は播磨灘に面する港町で、古代から良港として繁栄した。神武天皇東征のさい、藻振ノ鼻(室津半島先端部)と金ヶ崎で囲まれた室津湾のさらに東側奥にあることから、「室の如く静かな津」ということで室の泊」と呼ばれたのが始まりと伝えられ、「播磨国風土記」にも「コノ泊、風ヲ防グコト室ノゴトシ 故ニ因リテ名ヲナス」と紹介されている。奈良時代には行基によって「摂播五泊」の一つとされ、平清盛や高倉天皇の厳島参詣のさいに立ち寄っている。
中世以降、海上と陸上交通の要衝として「室津千軒」と呼ばれるほど栄え、足利尊氏 は新田義貞・北畠顕家らに敗れて室津に逃れたとき、当地で播磨の有力者赤松円心の勧めに従って九州への下向を決めたと伝わる。
江戸時代には、朝鮮通信使 - 停泊所に定められ、また、参勤交代の西国大名のほとんどが海路で室津港に上陸して陸路を進んだため、港の周辺は日本最大級の宿場となった。通常、宿場におかれる本陣は1軒であるが、室津には6軒もあった。しかし、明治に入ると鉄道・道路が内陸部に敷かれたため急速に衰退した。
古い港町の通例として道路が狭く、なかなか駐車場が見つからず、町並みを通り抜けて賀茂神社に近い室津小学校の校門近くに駐車し、室津を代表する寺社である賀茂神社へ向かった。

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賀茂神社のソテツ 。石鳥居から石段を上がり四脚門へ至る参道を進むと、右側にソテツが群生している。野生のものでは日本列島の北限として県指定文化財になっている。
日曜日の早朝で、清掃奉仕が行われているらしく、地元の人に挨拶されながら境内へ入った。

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賀茂神社。賀茂神社は海を望む半島突端に所在し、千数百年前の室津開港とともに祀られ、京都から賀茂別雷神を奉遷して海路の安全を見守ってきた。平安時代に賀茂別雷神社の直系御厨の地になった室津の発展の礎となった神社である。
治承4(1180)年、平清盛が厳島詣での際にこの神社へ立ち寄り、海上祈願をした際、古びた5・6棟の社殿が立ち並んでいたと「高倉院厳島御幸記」に記されている。
本殿を正面に5棟の流造り・檜皮葺きの社殿が建っており、棟札などにより元禄12(1699)年に建て替えられたとされる。五社造りといわれるこれらの社殿と唐門、さらに東西の回廊を含めた8棟が重文となっている。

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賀茂神社。神社は岬のうっそうとした森につつまれて静かに佇んでいる。
宝永4(1707)年に再建された拝殿は本殿と境内を隔てて対面して建っており、その形態を飛び拝殿と呼び、神社建物配置の古い形を残した遺構とされる。
賀茂神社の氏子としての諸大名による寄進は、室津の町を潤し、現在の銀行組織のような銀元制度まであった。ここで金を借り、船を仕立てて大きな商売へ挑戦したのである。商売は繁昌し、大名にまで金を貸しつける豪商も誕生した。
諸大名が宿泊する本陣が六軒、脇本陣を兼ねた豪商の邸、宿屋、揚げ屋、置屋など、軒をつらね、文字通り「室津千軒」のにぎわいであったという。おそらく、賀茂神社をいだく社領として、大名や幕府に屈することのない、自由都市のような雰囲気の町だったのだろう。

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賀茂神社。神社の表門は四脚門といい、馬足の龍という彫刻で有名。上段にある龍の足の部分は馬のひづめになっており、「馬足の龍」と呼ばれている。

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賀茂神社。賀茂の愛の榊(連理の榊)。境内に自生している2本の榊の古木は途中で1本に結ばれていて、夫婦の絆、良縁の愛の榊として、御利益があると名物になっている。

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賀茂神社。神社の裏手方面からの眺望。沖合いに、地・中・沖の唐荷島が浮かび、その奥に家島諸島が見えている。
シーボルトは江戸参府時に訪れた神社の参籠所から眺めた播磨灘の展望を絶賛し、著書「日本」に日本一美しい景色と書いている。
神社の裏手を下りて、港方向へ進むと、港口番所跡がある。

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「残念石」。港口番所跡のすぐ近くにある直方体の大きな石。秀吉の大阪城築城に際し、九州の大名が運んできた大石だが、ここで網から外れて捨てられたという。

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室津港。戦前、谷崎潤一郎と竹久夢二などの文人・芸術家が宿泊したという、船着き場近くの宿・木村旅館の跡を捜して港を散策した。
室津は今では漁港になっている。

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室津港の通りで、漁船のドック兼用の住居を見かけた。

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室津港。室津半島西岸の奥に港があり、町並みも連なっている。地元の人に尋ねると、木村屋は国道上に移転したという。

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室津港。港の一番奥まったところに来た。友君橋から来ると近い位置にある。
木村旅館跡の案内は見つからなかったので、遊女「友君」の墓碑がある浄運寺を探す。
賀茂神社方向へ戻り、地元の人に尋ねると、60歳台後半の男性はご案内しますと、「友君」の墓碑まで連れていってくれた。

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浄運寺。「法然上人御霊場遊女友君教化の地」とされる。城のような石垣と門の櫓が印象的。
浄運寺の開創は文治元(1185)年で、法然上人の弟子の信寂上人が教化の道すがら土地の長者の帰依をうけ建立したと伝える。

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浄運寺。海岸寄りの山門前にある「友君」の墓碑。
建永2(1207)年、法然上人は四国配流のおり、海路瀬戸内を行く途中でこの寺に立ち寄り、遊女友君を念仏往生の道に導いた。
伝えによると、友君は自身の罪深さに苦しみ、いかにすれば救われるかと法然上人に尋ねた。上人はただ、阿弥陀仏のの本願を深く信じ、称名念仏すれば救われる、と教えたところ、その言葉に出家し、以後一筋に念仏し正念往生をとげたという。
法然上人二五霊場の一つとされる浄運寺には、上人が友君を諭すために送った「かりそめの色のゆかりの恋にだに あうには身をも惜しみやはする」としたためられた色紙も残されているという。
気が付くと、駐車していた室津小学校のグラウンドがすぐ下に見えていた。
車に戻り、海岸方向へさらに進むと、法然上人貝掘りの井戸があった。

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法然上人貝掘りの井戸。室津に滞在中の法然上人が、飲み水に困っている室津の人々のために、海辺の貝で掘ったという言い伝えが今も残っている淡水の井戸。
車でさらに南の海岸方向へ進み、唐荷島を見下ろす高台の藻振鼻に出ると、東屋と石碑があった。

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播磨灘に浮かぶ唐荷島、家島諸島。室津の沖合いに連なって浮かぶ三つの小島が唐荷島で、「 播磨国風土記 」には、韓人の船が難破してその荷が漂 着したので韓荷島というとある。
手前から「地の唐荷島」、「中の唐荷島」、「沖の唐荷島」とよばれる。干潮時には「中の唐荷島」と「沖の唐荷島」はつながり、潮干狩りでにぎわうという。
唐荷島は小さな無人島であるが、地乗りの航海では室津の入口を示す大切な目標物であった。

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万葉歌碑。唐荷島が一望できる藻振鼻の公園には、山部赤人の歌の歌碑がある。山部赤人が「辛荷島を通ずる時」に作った歌で、長歌と反歌三首よりなり「万葉集(巻六)」に収められている。
その反歌第一首が「玉藻刈る辛荷の島に島廻する 鵜にしもあれや家思はざらむ」で、船旅の途上でわが家を思いつつ詠んだ旅愁の歌とされる。書は犬養孝になる。
室津半島の、景色のよい北東部を周回すると、早朝の進入路に戻ったので、木村旅館跡を探索するため、今度は友君橋下に駐車して、町並みへ向かった。

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清十郎生家跡。井原西鶴には『好色一代男』のほかに室津にふれた作品があり、お夏清十郎を扱った『好色五人女』( 1686年刊)が有名である。
清十郎恋しさに狂乱したお夏は姫路の商家の娘だが、清十郎はここ室津の造り酒屋の息子として生まれた。近年まで清十郎の生家が現存していたが取り壊された。現在、その跡地に記念碑がある。

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木村旅館跡。船着き場の近くにあったはずだと、地元の人に尋ねると、港で一番奥のここだと教えてくれた。今は取り壊されて、駐車場になっている。
谷崎潤一郎の「乱菊物語」を読んで、面白かったので、谷崎が取材の宿として滞在した木村旅館の跡を確認しておきたかった。
「乱菊物語」は、谷崎潤一郎が昭和5年朝日新聞に連載し新聞小説で、室町時代末期の播州大名赤松氏と浦上氏が室津の遊女をめぐって繰り広げる波瀾怪奇で幻想的な大衆小説である。
「乱菊物語」の舞台の中心は室津、家島諸島で谷崎が室津を取り上げたのは港町室津のもつ歴史にあったとされる。古代から港町として栄えた室津はさまざまな人々が行き交う所で、谷崎にとってはまたとない題材があった。室津にきた谷崎は木村旅館に泊まり、舟を雇い室津から家島に向かったという。

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友君橋から眺める室津港。
私にとってのイメージは中世室津の華やかさを表した「乱菊物語」のハイライトである小五月祭りのシーンだ。
小五月祭りは平安時代から現代まで続く賀茂神社の例祭で、神輿のお渡りがあり、賀茂神社と御旅所にて遊女の長・室君が遊女たちと棹の歌を奉納する、平安の昔をしのばせる優雅な祭りである。
今日では女子高校生を中心にした女の子の祭りとして知られており、棹の歌は兵庫県重要無形文化財に指定されているという。
9時30分頃に、室津を出て赤松氏の居城であった感状山城の登城口がある相生市羅漢の里へ向かった。

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