戦国時代末期、上月城の城主赤松政範は毛利氏に属して、宇喜多氏と結び織田信長に対抗した。天正5(1577)年、羽柴秀吉は佐用へ侵攻し、11月27日に福原城を攻略、翌日には上月城を囲んだ。援軍の宇喜多氏を敗退させ、12月3日に城内へ攻め入り落城させた。城兵の首をすべて刎ね、城内の女子供約200人を磔と串刺しにして国境に並べた。
織田方となった上月城には尼子氏の再興を図る尼子勝久と山中鹿之介らが入城したが、天正6(1578)年4月、毛利方約3万の軍勢に包囲された。秀吉軍は近くに陣を置き救援体制をとったが、三木城の別所長治が織田方から毛利方に寝返る突発事態が起きたため、秀吉軍は三木城攻略に力を注ぐことになった。孤立無援になった上月城は、ついに7月4日に開城し、尼子勝久は切腹、捕われた山中鹿之介は、備後国鞆の浦に陣取る毛利輝元の下へ護送される途中、殺害され、尼子氏再興の夢はついえた。
上月城跡への登城マップは三日月藩陣屋館で入手していたので、北東端の登城口から整備された道を登り、休郭を経て10分ほどで、標高322mの頂上主郭へ達した。主郭には江戸時代に建てられた上月城主赤松政範の供養碑がある。主郭は狭く、城全体も小規模な印象であった。
マップにはさらに奥へ進むと北東方面への眺望が良い地点が記してあったので、2分ほど歩くと、眺望案内図のある地点に着いた。ここは二の丸跡のようだ。
マップにはさらに奥へ進むと北東方面への眺望が良い地点が記してあったので、2分ほど歩くと、眺望案内図のある地点に着いた。ここは二の丸跡のようだ。
慶長5(1600)年、姫路城主池田輝政は上月城の廃材を利用して、山上の城を修築し、三層の天守閣を築いたが、一国一城令により廃城となった。
ただし、登城マップによると。現在は道路崩壊の危険性があり、登城を差し控えるよう注意書きがある。
上月城は南北朝時代に赤松氏の一族上月景盛により築かれ、嘉吉の変で赤松氏が一時滅亡したときに、上月氏は滅び、城は空城となったが、赤松氏の復興とともにその一族が城主となって再建された。
この地点からは、さらに進むと下山する周回路、南西の山並みに散在する砦群への遊歩道があるが、往路を下って登城口に帰った。
16時30分近くになったので、上郡町赤松の白旗山城跡は翌日に回して、同町南西部にある
落地(おろち)の山陽道野磨駅家(やまのうまや)跡を見学することにした。
奈良時代には、全国に「駅路(えきろ)」と呼ばれる道路が整備された。それにともない、駅路を往来する役人や外国からの使節に対して馬の乗り継ぎや食料の支給、宿泊所の提供を目的として、「駅家(うまや)」が設置された。駅家は全国に400箇所以上存在したとされるが、ほとんどが後世の開発によって失われている。
山陽道野磨駅家は、古代の最重要道路であった山陽道の備前に接し、西に船坂峠を望む播磨最西端に置かれた駅家で、7世紀末~8世紀初頭と見られる掘立柱建物跡(初期駅家跡・八反坪地区)、8世紀後半から11世紀後半と考えられる瓦葺礎石建物跡(後期駅家跡・飯坂地区)及び古代山陽道跡(八反坪地区)が残る全国的にも貴重な遺跡として、平成18年に駅家跡では初の国史跡に指定された。
「オロチ(落地)」の地名は平安時代の『今昔物語集』や『枕草子』にも関連して登場している。
『今昔物語集』では、大蛇(おろち)の説話とともに駅家の荒ぶりを伝え、『枕草子』では、都で「あはれなり(趣のある)」と記された代表的な駅家であったことがうかがえる。
飯坂地区の駅館院は、東西約68m、南北約94mの瓦葺築地塀により区画され、中央に礎石建物の正殿、北側に後殿を配置し、それぞれの脇殿を有している。
山陽道は駅館院の西(左)側を通っているため、山陽道に面して西側に八脚門が設けられ礎石が残っている。北側築地塀は山の中腹を巡っており、高低差のある異例な配置であった。
上郡駅方面から南西に県道を進むと、低い飯坂峠を越えた道路左側に史跡の案内板が見えたが、駐車場がなさそうに見えたので、300mほど先の民家でUターンして駐車した。民家の主婦と近くの男性に趣旨を話すと、男性は近くの自宅から各種リーフレットを持って来てくれた。民家の主人も帰ってきて、3人に見学地の様子を聞いた。
ここに車を置いての見学後、主婦に、合併はしなかったのかと尋ねると、相生市から誘われたが断った、赤穂市に合併をもちかけたが断られたとのこと。兵庫県には町が結構残っている。
ここに車を置いての見学後、主婦に、合併はしなかったのかと尋ねると、相生市から誘われたが断った、赤穂市に合併をもちかけたが断られたとのこと。兵庫県には町が結構残っている。
道幅10mの山陽道の遺構は水田の中に約300mにわたり一直線に造られていたことが検出された。
5月8日に兵庫県立考古博物館で開催されていた特別展「古代官道 山陽道と駅家」を見学したさい、播磨における古代山陽道研究の先駆けで、駅家研究の礎を築いた在野の考古学者、今里幾次氏の業績が紹介されていた。なかでも、今里氏の遺跡見学時の写真やメモが几帳面に記録されていたことが印象的であった。「山陽道駅家跡―西日本の古代社会を支えた道と駅 (日本の遺跡)」岸本道昭著、同成社刊にも今里氏の業績が記されている。
17時30分頃になり、本日の見学を終え、道の駅相生へ向かった。
17時30分頃になり、本日の見学を終え、道の駅相生へ向かった。