三日月藩陣屋跡。三日月藩乃井野陣屋館。平成26年5月10日(土)。家島本島、太子町、龍野城、龍野古城を見学後、国道179号線を進み、北西の佐用町三日月藩陣屋跡へ向かった。国道から三日月小学校の裏山に三日月の刈りこみ絵を見て面白いなと感心して進んだ。案内看板が見当たらず、味わいの里三日月方向へ右折したが、道標もなく、地元の人に尋ねて、北東へ進んで、陣屋跡に辿り着いた。
三日月藩森家は森蘭丸で有名な森家の末裔である。延宝4(1676)年、津山藩3代藩主・長武の弟の長俊が勝北郡北部1万5千石を分知され、津山新田藩として立藩したが、元禄10(1697)年津山藩森家の改易にともない、同年播磨三日月藩(1万5千石)に転封となった。翌年に入領した長俊は東に開ける扇状地である乃井野地区を適地として、大庄屋井上家の屋敷地に陣屋を開いた。以後明治までの174年間、森家が代々領主をつとめ。政治・文化の中心地として栄えた。
なお、津山藩改易後、本家は赤穂藩主家として再興し、明治維新を迎えている。
平成8年から陣屋の発掘調査が実施され、成果をもとに平成11年から17年にかけ、濠・石垣・物見櫓の復元・移築、長屋・長屋門の復元が実施され、三日月藩乃井野陣屋館として、土日祝日のみ内部公開されている。
長屋門には手前から2階建ての物見櫓と櫓風の中御門がそびえている。
三日月藩森家は森蘭丸で有名な森家の末裔である。延宝4(1676)年、津山藩3代藩主・長武の弟の長俊が勝北郡北部1万5千石を分知され、津山新田藩として立藩したが、元禄10(1697)年津山藩森家の改易にともない、同年播磨三日月藩(1万5千石)に転封となった。翌年に入領した長俊は東に開ける扇状地である乃井野地区を適地として、大庄屋井上家の屋敷地に陣屋を開いた。以後明治までの174年間、森家が代々領主をつとめ。政治・文化の中心地として栄えた。
なお、津山藩改易後、本家は赤穂藩主家として再興し、明治維新を迎えている。
平成8年から陣屋の発掘調査が実施され、成果をもとに平成11年から17年にかけ、濠・石垣・物見櫓の復元・移築、長屋・長屋門の復元が実施され、三日月藩乃井野陣屋館として、土日祝日のみ内部公開されている。
長屋門には手前から2階建ての物見櫓と櫓風の中御門がそびえている。
幕末から明治初期にかけての陣屋町絵図。
陣屋跡から南東(龍野)方向へ大手道・旧道・旧街道を望む航空写真。
三日月は、城下町であるとともに、山陰地方の大名が参勤交代で通過する出雲街道の宿場町としても繁栄した。陣屋は街道の宿場の北西に位置している。城下には当時の面影を残す町割りや武家屋敷が残っている。
三日月は、城下町であるとともに、山陰地方の大名が参勤交代で通過する出雲街道の宿場町としても繁栄した。陣屋は街道の宿場の北西に位置している。城下には当時の面影を残す町割りや武家屋敷が残っている。
物見櫓の2階出格子から眺める。南東方向旧武家屋敷群への眺望。
空撮写真とほぼ同じ様子を望観できる。
物見櫓は、現存する唯一の江戸時代の遺構である。陣屋の建造からしばらくして建てられたとみられ、藩主が武芸の観覧を行ったことや、家老・役人を集めて酒宴が行われたことが記録されている。
明治4年の廃藩置県により、陣屋は藩庁としての役目を終え解体された。物見櫓は小学校に移築された後、三日月村役場の庁舎や公民館として使用されていた。平成6年度の解体調査を経て、平成15年に復原された。2階建で、2階部分が1階部分より大きく濠側へ半間跳ね出している。
空撮写真とほぼ同じ様子を望観できる。
物見櫓は、現存する唯一の江戸時代の遺構である。陣屋の建造からしばらくして建てられたとみられ、藩主が武芸の観覧を行ったことや、家老・役人を集めて酒宴が行われたことが記録されている。
明治4年の廃藩置県により、陣屋は藩庁としての役目を終え解体された。物見櫓は小学校に移築された後、三日月村役場の庁舎や公民館として使用されていた。平成6年度の解体調査を経て、平成15年に復原された。2階建で、2階部分が1階部分より大きく濠側へ半間跳ね出している。
「旧三日月藩郭内之図」に描かれた屋敷地。
陣屋には天守などの施設はなく藩主の居住地や政務を執る建物群により構成されていた。藩の政務を司る「御台所」をはじめとする役所部分と藩主の私的空間である「御茶屋」の二つに分かれ、両者は塀によって区切られていた。この二つと接している建物に「御居間」があり、藩主が居住した建物と思われる。
陣屋には天守などの施設はなく藩主の居住地や政務を執る建物群により構成されていた。藩の政務を司る「御台所」をはじめとする役所部分と藩主の私的空間である「御茶屋」の二つに分かれ、両者は塀によって区切られていた。この二つと接している建物に「御居間」があり、藩主が居住した建物と思われる。
播州三日月市城図に描かれた屋敷地。
陣屋館の裏側。
藩主の私的空間である「御茶屋」跡。
展示パネルが多く、30分近く滞在した。佐用町内三城(上月城、福原城、利神城)のリーフレットを入手したので、15時10分過ぎに陣屋跡を出た。上月歴史資料館は16時で閉館なので急ぐことにした。
藩主の私的空間である「御茶屋」跡。
展示パネルが多く、30分近く滞在した。佐用町内三城(上月城、福原城、利神城)のリーフレットを入手したので、15時10分過ぎに陣屋跡を出た。上月歴史資料館は16時で閉館なので急ぐことにした。
福原城跡。佐用城ともいう。天正5(1577)11月27日、佐用郡に攻め込んだ羽柴秀吉軍の黒田官兵衛と竹中半兵衛が上月城攻めの前哨戦として攻め落としたことで有名な城で、彼らに率いられた三千余騎の軍勢が福原城を包囲、12月1日に落城させた。
元弘の乱で活躍した佐用兵庫介範家の築城と伝えられ、その後、赤松三十六家衆のうち福原氏が城を継いで、戦国時代末期は西の上月城、南の高倉城、東の利神城とともに赤松一統の城郭群を形成していた。
黒田家の記録「黒田家譜」では、官兵衛は孫子の兵法「囲師必闕」の計略を用いたという。三方を囲み、後ろ一方を開けて、城兵が脱出するルートを造り、脱出路に伏兵を置いて、城兵や城主福原氏らを討ち取ったとされる。司馬遼太郎「播磨灘物語」の名シーンでもある。
また、「播州佐用軍記」では、竹中・小寺隊は攻城に苦戦するものの、蜂須賀隊の加勢によって反撃を開始。蜂須賀隊などが搦手方向から鉄砲を多量に打ち掛けて城兵を分散し、大手側から小寺隊等が城主などを誘い出して、その隙に竹中隊などが城を乗っ取ったと記されている。
落城時は城兵と城内の者すべてが斬られるという凄惨な状況であった。城跡にある社は福原霊社といい、時の城主福原則尚の首級を祀り、地元の人に崇敬されている。
元弘の乱で活躍した佐用兵庫介範家の築城と伝えられ、その後、赤松三十六家衆のうち福原氏が城を継いで、戦国時代末期は西の上月城、南の高倉城、東の利神城とともに赤松一統の城郭群を形成していた。
黒田家の記録「黒田家譜」では、官兵衛は孫子の兵法「囲師必闕」の計略を用いたという。三方を囲み、後ろ一方を開けて、城兵が脱出するルートを造り、脱出路に伏兵を置いて、城兵や城主福原氏らを討ち取ったとされる。司馬遼太郎「播磨灘物語」の名シーンでもある。
また、「播州佐用軍記」では、竹中・小寺隊は攻城に苦戦するものの、蜂須賀隊の加勢によって反撃を開始。蜂須賀隊などが搦手方向から鉄砲を多量に打ち掛けて城兵を分散し、大手側から小寺隊等が城主などを誘い出して、その隙に竹中隊などが城を乗っ取ったと記されている。
落城時は城兵と城内の者すべてが斬られるという凄惨な状況であった。城跡にある社は福原霊社といい、時の城主福原則尚の首級を祀り、地元の人に崇敬されている。
福原城本丸跡。 佐用川西岸の丘陵に築城された。東岸にはJR姫新線・智頭急行の線路が見える。
福原城は中世に築かれた代表的な平山城で、南面に川、後背に山の「城堅固」の立地で、空堀、防塁、馬落しなどよくその原型をとどめている。土塁は西と北に残っており、福原霊社が建つ最高所は、福原城の本丸西側の土塁上であったという。西側の墓地も城域で、本丸との間に馬落しという堀切があった。
このあと、上月城跡へ向かった。
福原城は中世に築かれた代表的な平山城で、南面に川、後背に山の「城堅固」の立地で、空堀、防塁、馬落しなどよくその原型をとどめている。土塁は西と北に残っており、福原霊社が建つ最高所は、福原城の本丸西側の土塁上であったという。西側の墓地も城域で、本丸との間に馬落しという堀切があった。
このあと、上月城跡へ向かった。