播磨国鵤荘絵図。嘉暦4(1329)年。法隆寺蔵。写真複製。原品は重文。平地の碁盤目のような条里地割の線を引き、その中に用水路や寺社、地名を書き込んでいる。周囲には山々を描き、荘境には黒丸で傍示石を描くなど荘園絵図として最も発達した姿をしている。
また、右下の壇特山に駒つなぎ松とひずめの跡を描いて、太子伝説を絵画的に示し、この地が聖徳太子の聖なる領域であることを示している。
鎌倉幕府は諸国に守護地頭を置き公家領・社寺領荘園へ侵略を始めた。法隆寺も例外でなく、1187(文治3)年には、地頭金子十郎家忠の押妨停止を求めて幕府に訴え出ており、鎌倉幕府正史の『吾妻鏡』に源頼朝が地頭代官の押妨停止を命じる記録がある。
また、1227(嘉暦3)年、鵤荘久岡名(みょう)が幕府の地頭に没収されたことに法隆寺が抗議し撤回される記事もあることから、鵤荘はたびたび武士により侵略されていたとみられる。嘉暦図は、幕府から土地の返還を受け武家の勢力を排除し法隆寺の一円支配が実現した年に描かれたものとして評価されている。
当初は春と冬に50貫文ずつ納められていたが、戦乱や在地勢力の横暴などにより、納められなくなり、文明7(1475)年には春冬25貫文ずつ、さらに文明11(1479)年以降は17貫500文ずつと減り、年貢の納入できない年も続いていった。
このあと、北西近くの斑鳩寺へ。
斑鳩寺の創建は、出土した軒平瓦から平安後期の11世紀第4四半期と推定されるが確定していない。
中世の斑鳩寺は、七堂伽藍に数十の坊庵を並べていたが、天文10(1541)年の赤松・山名の争乱の戦禍にあい、すべての塔堂を焼失した。その後、龍野城主赤松政秀らの援助により順次再建され、これを期に、法隆寺の末寺を離れまもなく天台宗に移り比叡山に属することになった。
このあと、たつの市へ向かった。
江戸時代に入ると龍野城は現在地に平山城として築かれたが、万治元年京極高和の丸亀城移転にさいして破却され、その後14年間は天領となった。寛文12(1672)信州飯田から脇坂安政が5万3千石で入部し龍野城を再建した。しかし、時代は既に太平の世であり、また外様大名でもあったので幕府の嫌忌に触れることを恐れ御殿式の築城に決したといわれ、その為城郭というより武装化した邸宅である。近年まで遺構としては石垣しか残っていなかったが、昭和54年に本丸御殿、城壁、多聞櫓、埋門、隅櫓などが復元された。
龍野へは昭和54年以来2度目の訪問である。当時まだ本丸御殿は復元されていなかった。霞城館や淡口醤油資料館などを見学し、揖保の糸の素麺を食べた記憶がある。童謡「夕焼け小焼け」の作詞者三木露風にちなんだ界隈や小京都とよばれた龍野の城下町を散策した。
揖保川を渡り、図書館を訪問したのち、歴史文化資料館を見学する余裕がなかったため、城跡手前の裁判所の駐車スペースに駐車した。
古図に基づいて復元された。入母屋造、瓦葺の平屋建ての本丸御殿は、優美な大屋根を持つ。内部は無料で見学できる。
当時の大手道筋と重なっているという登城道は迷うことなく、右上へ進んでいく。すぐに、男児を連れた若い夫婦と対向した。子供は道で滑ったらしく、泣いて嫌がっている様子だった。私が城跡から下ると、3人は登城口付近の東屋で昼食を食べていた。
龍野城は明応8(1499)年に赤松宗家置塩城主赤松義村の一族で塩屋城主であった赤松村秀により築城されたといわれる。以後、龍野赤松氏は播磨の有力大名として四代続く。羽柴秀吉が播磨に入ると当主の赤松広英は戦うことなく龍野城を出て、蟄居した。秀吉が備中に兵を進めると、広英は蜂須賀軍に加わって備中高松城攻めに参加し、本能寺の変後、秀吉に仕えて但馬竹田城主となった。
関ヶ原の合戦後、鳥取城攻めのさい、城下を焼いた失策の責任を問われて切腹、龍野赤松氏は断絶した。
鶏籠山頂龍野古城には、赤松広英退転ののち、蜂須賀正勝・木下勝俊・小出吉秀らが天正から慶長時代にかけて城主となり、石垣による改修を行ったという。
登城口から22分で到達。
本丸跡から北方向へ下り、西の紅葉谷へ下る周回路にも城跡の遺構が良好に残存しているようだが、余裕がないので、往路を辿って麓へ下りた。
このあと、佐用町の三日月藩陣屋跡、福原城跡、上月城跡へ向かった。