姫路港。平成26年5月10日(土)。本日は、家島本島、太子町の斑鳩寺、たつの市の龍野城本丸御殿、龍野古城、佐用町の三日月藩陣屋跡、福原城跡、上月城跡、上郡町の野磨駅家跡を見学。
まず、午前の早い時間に家島本島を訪れることにした。家島諸島は姫路市の沖合いにあり、淡路島・香川県の小豆島の間にある瀬戸内海の島である。
30年近く前、小豆島の観光を終えて姫路港へ着いたとき、家島行きの待合室に乗船客が大勢いたことを覚えている。家島諸島は昨日見学した置塩城とともに谷崎潤一郎の「乱菊物語」の舞台になっている。そこは西島であるがやや遠い。坊勢島で寿司を食べるのもいいが、料金が高そう。特にこだわることもないので、史跡見学としては家島神社のある家島本島のみとした。
姫路港に着いて、駐車場を捜したが、時間制の有料駐車場しかない。7時50分頃に駐車して出場したのが10時45分頃だったので料金は600円だった。
待合所に着き、8時18分の家島行きの乗船券を購入した。2日後に値上がりする前だったので、片道900円。家島本島へは「高速いえしま」と「高福ライナー」の2社が交互に出港している。券売機は別なので、会社名を確認して購入。家島本島の表玄関には真浦港と宮港がある。真浦港がメインなので、この港しか考えていなかったが、待合所にある地図で見ると、家島神社へは宮港が至近。真浦港から家島神社まで歩くとかなりの時間がかかりそうなので、宮港で降りることにした。運賃は同じ。
「高福ライナー」の高速船は8時18分に姫路港を出港した。乗客は20人ほど。
まず、午前の早い時間に家島本島を訪れることにした。家島諸島は姫路市の沖合いにあり、淡路島・香川県の小豆島の間にある瀬戸内海の島である。
30年近く前、小豆島の観光を終えて姫路港へ着いたとき、家島行きの待合室に乗船客が大勢いたことを覚えている。家島諸島は昨日見学した置塩城とともに谷崎潤一郎の「乱菊物語」の舞台になっている。そこは西島であるがやや遠い。坊勢島で寿司を食べるのもいいが、料金が高そう。特にこだわることもないので、史跡見学としては家島神社のある家島本島のみとした。
姫路港に着いて、駐車場を捜したが、時間制の有料駐車場しかない。7時50分頃に駐車して出場したのが10時45分頃だったので料金は600円だった。
待合所に着き、8時18分の家島行きの乗船券を購入した。2日後に値上がりする前だったので、片道900円。家島本島へは「高速いえしま」と「高福ライナー」の2社が交互に出港している。券売機は別なので、会社名を確認して購入。家島本島の表玄関には真浦港と宮港がある。真浦港がメインなので、この港しか考えていなかったが、待合所にある地図で見ると、家島神社へは宮港が至近。真浦港から家島神社まで歩くとかなりの時間がかかりそうなので、宮港で降りることにした。運賃は同じ。
「高福ライナー」の高速船は8時18分に姫路港を出港した。乗客は20人ほど。
姫路市西岸の工場地帯。新日鉄などの工場がある。
男鹿島。採石で削られた山肌が印象的だ。島の反対側に民宿などがあるようだ。
家島本島。北東端。天神鼻の中腹に家島神社らしい建物が見えている。
家島本島。真浦港近く。瀬戸内海の島は造船業が盛んだ。修理用のドックが多い。
家島本島。真浦港でほとんどの客を降ろして、宮港へ向かう。
家島本島。宮港。「高福ライナー」の高速船。後ろに真浦港が見えている。同じ湾の反対側に位置しているので、港の間を歩くと時間がかかりそうだ。
家島神社をめざして北東方向へ歩く。海岸沿いに旅館や水産工場などを見ながら歩いていく。
家島神社をめざして北東方向へ歩く。海岸沿いに旅館や水産工場などを見ながら歩いていく。
「詩を書き場」。菅原道真が平安京から大宰府に左還される際、家島神社を参拝したと伝わり、その時、海岸の岩に詩を書いたとされ、その場所は「詩を書き場」と呼ばれている。
シオカキという言葉から始まるこじつけのように思われた。
シオカキという言葉から始まるこじつけのように思われた。
家島神社の鳥居下。港から20分ほどで着いた。
家島神社の鳥居。参道から振り返る。鳥居の位置から海側から参拝するのが正式であり、水上交通安全の守護神としての位置づけがはっきりする。
家島神社。長い石段を登りきると、家島神社の石柱があり、建物が見えた。周りに何も見えなかったので随分現代的な神社だなと思って検分すると、トイレのある休憩所だった。
参道路が続く海側へ進むと、神社の拝殿が見えてきた。
参道路が続く海側へ進むと、神社の拝殿が見えてきた。
家島神社。延喜式では明神大社とされる格の高い神社で、神武天皇が武運長久と海上交通の安全を祈願して天神(アマツカミ)をお祀りした事が始まりとされている。
神社のある山は、神功皇后が戦勝祈願をされた際、全山鳴動したため『ゆるすの山』とも呼ばれている。また「続日本後紀」には、国家鎮護の神として承和7年(840年)官社に列せられたとある。
この天神の杜「天満霊樹」は家島唯一の原始林が現存しており、シイ、トベラ、ウバメガシ、モチなど温帯照葉樹林の植生を見ることができる。ここに原始林が残っているのは、常に聖地とされ、人の手がほとんど加えられなかったためである。
そのせいか、神社の周囲からは周りの海を見ることが出来ない。周囲を展望できる場所までは遠そうだったので、宮港10時5分の便には間に合いそうもなく、諦めて石段を下り鳥居に戻った。
神社のある山は、神功皇后が戦勝祈願をされた際、全山鳴動したため『ゆるすの山』とも呼ばれている。また「続日本後紀」には、国家鎮護の神として承和7年(840年)官社に列せられたとある。
この天神の杜「天満霊樹」は家島唯一の原始林が現存しており、シイ、トベラ、ウバメガシ、モチなど温帯照葉樹林の植生を見ることができる。ここに原始林が残っているのは、常に聖地とされ、人の手がほとんど加えられなかったためである。
そのせいか、神社の周囲からは周りの海を見ることが出来ない。周囲を展望できる場所までは遠そうだったので、宮港10時5分の便には間に合いそうもなく、諦めて石段を下り鳥居に戻った。
家島神社。万葉歌碑。鳥居付近にある。「家島は 名にこそありけれ 海原を あが恋ひつる 妹もあらなくに」。天平8年の遣新羅使人の一行が苦難の旅を終えて家島に着いた時に詠まれた歌で、万葉集巻十五に集録されている。
家島神社鳥居付近の浜からの眺め。
家島の名は、神武天皇が東征の際に嵐に合い、家島に寄港し、島内に入ると外の嵐と打って変わって波は穏やかで、まるで自分の家にいるように感じた事から名づけたという伝説がある。
古くから瀬戸内海の海上交通路の拠点として、または潮待ち、風待ちの避難港としても栄えてきたことがうなずける。
家島の名は、神武天皇が東征の際に嵐に合い、家島に寄港し、島内に入ると外の嵐と打って変わって波は穏やかで、まるで自分の家にいるように感じた事から名づけたという伝説がある。
古くから瀬戸内海の海上交通路の拠点として、または潮待ち、風待ちの避難港としても栄えてきたことがうなずける。
「水難者供養碑」。家島神社から宮港へ近づくと、10人ほどの女性が崖下の一画に設けられた拝所で、お参りをしていた。姫路港から同じ船に乗っていた女性も見かけた。男性は一人もいない。
遠ざかる家島本島。帰路は宮港10時5分発の「高速いえしま」の旅客船に乗船。真浦港からびっくりするほど大勢の客が乗船していた。往路と違い、船の後方デッキは開放されている。
10時40分頃に姫路港に到着。次の見学地、太子町、たつの市方面へ向かった。
10時40分頃に姫路港に到着。次の見学地、太子町、たつの市方面へ向かった。