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姫路市 黒田官兵衛の居城・国府山城跡 赤松氏の本城・置塩城跡 英賀城跡

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置塩城跡。国史跡。登城口。平成26年5月9日(金)。置塩城は、播磨の守護大名であった赤松氏の本城で、その権威にふさわしい大規模な山城である。置塩城は嘉吉の乱(1441)後に赤松宗家を再興した赤松政則が、播磨守護就任にあわせ、文明元(1469)年に築城したとされ、義村、晴政、義祐、則房5代にわたる後期赤松氏の本城となった。天正5(1577)年則房の時、織田信長の命で中国征伐を開始した羽柴秀吉に降伏し、秀吉が中国攻めの拠点として姫路城を築城する際、置塩城は廃城として解体され、姫路城の資材として転用された。
廣峯神社を昼過ぎに出て、置塩城跡を目指す。夢前川に沿って北上すると、東側対岸に置塩城跡の大看板が見えた。ところが、対岸へ渡る橋をナビで探すと近くにはない。姫路方向へ1kmほど戻って対岸へ渡り、旧道を北進すると登城口と広い駐車場に着いた。
13時18分に登城を開始し、本丸跡へは13時53分に到着した。

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置塩城跡案内図。標高370mの置塩山は姫路市の中心部の北10kmに位置し、北から南に夢前川が流れ、川沿いに播但街道がある要所に築城された。
城跡は、東西約600m、南北約400mにわたって広がる播磨最大の山城である。遺構は東側の城内最高所にあたる伝本丸跡と、そこから鞍部を隔てた西側の伝二の丸跡を中心に広がり、曲輪・通路・石垣・土塁などが残っている。

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置塩城跡案内図のある二の丸跡下の地点。登城口からは各丁目ごとに標柱が立っている。2丁目の標柱が数分後に見えたので楽勝と思ったが、7丁目あたりから10丁目が終点ではないことに気づいた。実は全部で18丁あり、18丁目に「置塩城跡案内図」の看板が置かれている。
ここは分岐点になっていて、北東に進めば本丸跡、北西に進めば三の丸と本来の大手筋と大手門、南西近くには大石垣のある南西曲輪群の3方向に分かれている。
とりあえず、北東方向の本丸跡へと急いだ。

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二の丸北曲輪群から東に向かうと、本丸跡頂上台地が見え、鞍部の本丸跡側に石積みや、意識的に狭められた道などが見える。

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置塩城本丸跡。登城口からは35分ほどで到着した。

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置塩城本丸跡。発掘調査では、基礎を塼瓦で区画した天守に似た櫓状の建物跡が発見された。
本丸跡を中心とした曲輪は、この城全体の「詰め城」的な機能を持っていたと考えられる。

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置塩城本丸跡。展望案内図。南方の播磨灘方向を望む。
海岸側は東から飾磨港、男鹿島(家島諸島東端)、広畑、書写ロープウェー、坂本城跡、家島、網干。手前側は番城山城跡、ヤマサ蒲鉾、夢前川、置塩小学校。

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置塩城本丸跡。南方の播磨灘方向を望む。うっすらと家島諸島も眺められ、展望の良さが実感できる。
下りながら写真を撮っていった。

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二の丸跡北の台所跡と二の丸跡北端土塁の間の底部。西の三の丸から二の丸北を通って本丸に至る城内の主要な導線が通っていたようだ。土塁と底部とのかなりの落差に驚かされた。

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二の丸跡。本丸が詰め城的な存在であったので、二の丸が城主の住む主要な郭であったと思われ、広大な平地が広がっている。

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二の丸跡南東端の石垣。良好に残っている。

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南西曲輪群の大石垣。案内板から南西に下りていき、段状の郭の端から下りることを繰り返すと、ようやく大石垣に出会った。各段の比高差は平均して4m以上あり、意外に時間がかかった。 この石垣は3段目に残るもので、当城の中でも特に優れた施工として、紹介されている。

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南西曲輪群の大石垣から夢前川方面を見下ろす。眺望が良く、人馬の動きは手に取るように見えたであろう。
大石垣から眺望を見ようと、端へ迫っていくと、マムシが慌てて逃げて行った。

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二の丸跡下の茶室跡。山城で茶室跡の表示は珍しい。茶室といっても、近世の小間ではなく、室町時代の会所、数寄屋跡であろう。
守護大名としての格式を保つ迎賓館的な役割を持った空間が設けられていたと思われる。
茶室跡からは、登城道を下り、14時36分に登城口へ帰着した。1時間30分弱の見学時間であった。 

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塩田温泉。上山旅館。置塩城跡見学で大汗をかいたので、見学予定にしていた塩田温泉に入浴することにした。城跡の旧道を北に進むと、10分ほどで、塩田温泉の入口に着いた。自宅で調べたときに、立ち寄り湯はなく、上山旅館ほか1軒が1000円だったので、高いと思っていた。
温泉がありそうな道を進むと、上山旅館の駐車場に着いた。時間もないので、思い切って上山旅館に入った。フロントの男性は情報通りの回答であった。選択の余地はないどころか、15時までに立ち寄り湯は終了とのことだったが、何とか入浴させてもらった。
内湯のほかに、下駄を履いてやや高い場所にある露天風呂にも入浴した。湯質は普通。
15時30分頃に玄関を出て、海岸部にある国府山城跡へ向かった。

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黒田官兵衛の居城・国府山城跡。登城口。市川左岸の甲山(標高102m)南麓にある荒神社の境内が登城口になっている。国府山城は妻鹿(めが)城、功山城ともよばれる。
天正8(1580)年三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は三木城を居城としたが、黒田官兵衛は、三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、孝高の父職隆が天正元(1573)に居城とした功山城に移った。
初代城主は薩摩氏長の子孫で「太平記」で有名な妻鹿孫三郎長宗で、元弘の戦いで赤松円心に属して功を立て、その功によって妻鹿地方を領有するようになり、ここ功山に城を築いたという。
官兵衛の祖父重隆の妻は当地の名門妻鹿氏の出身で、黒田氏と妻鹿との結びつきは強いものであったようだ。
市川左岸の車道を進むと、川沿いから少し離れた観光客用の臨時駐車場に誘導された。

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国府山城跡。案内図。荒神社の境内にある。登城道は整備良好であるが、頂上台地は広くて見所も多く、周回すると意外に充実した気分を味わえる。山容の写真からすると、簡単に登れる低い山城と思われたが、全く違った印象であった。
二層の隅櫓が土塁跡と礎石群の南側にあったという。東端部の磐座跡からは弥生時代から古墳時代にかけての遺物が出土しており、この山が古代から目立つ神奈備であったことをうかがわせる。

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国府山城跡。境内の石段をあがり、社の右手前から城跡へと上がる。頂上台地の南端に着くと、分岐があり、矢印に従って、左の西方向へ進むと、鉄塔があり、その近くの経塚跡付近から市川河口部の工場地帯と沖合の家島諸島がはっきり見える。

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国府山城跡。鉄塔付近から台地の西端を北に進むと、土塁跡と礎石群が現れる。狼煙跡や鍛冶跡が発見されている。

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国府山城跡。主郭跡。南北に狭い平地である。西側が崖になっており、展望は抜群である。

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国府山城跡。主郭跡。展望案内図。南から英賀城跡、青山、手柄山、市役所、書写山、姫路駅、廣峯山、増位山。

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国府山城跡。主郭跡からの展望。南西の播磨灘から手柄山方面。

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国府山城跡。主郭跡からの展望。北西の書写山、姫路駅、廣峯山、増位山。主郭からは姫路城だけではなく、置塩城まで見渡すことができる絶好のロケーションである。

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庭園郭跡。16・17世紀の磁器片が出土している。

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磐座跡。注連縄が張ってある。ここまでは平坦である。この先は南方向へ下り、分岐から登城口方向へ下りていった。見学時間は30分余りであった。
登る前に境内にいた地元の人に黒田職隆公の廟所の場所を尋ねると、すぐ分かると言われたので安心したが、徒歩ではなく車でアクセスすることにした。

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黒田職隆公の廟所。天正13(1585)年に黒田職隆は国府柳城で没した。職隆公の廟所は城跡の南方にあり、町民に「筑前さん」と呼ばれ、親しまれている。
住宅街の中にあり、駅からの道標はあるが、城跡からはなかったので、なかなか場所は分かりづらかった。母里太兵衛の生誕地碑のある元宮八幡神社で遊んでいた小学生に南だと言われたが、分からない。歩いていたおばさんに黒田さんの墓はと尋ねたら知らないといわれたので、黒田官兵衛の父の墓はと尋ねたら、すぐそこの大きな木のある場所と教えてくれた。住宅街の中にあるので、車道からは見つけられなかった。
英賀城跡のある飾磨区英賀宮町の英賀神社へ向かった。

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英賀神社。『播磨国風土記』の餝磨郡英賀里に「伊和大神の子、阿賀比古と阿賀比売の二神」と記載があり、奈良時代以前の創建であると考えられる。英賀の地名はこの2柱の神に因んだもので、英賀は伊和族(播磨国一宮伊和神社(宍粟市一宮町)の伊和大神を祀る氏族)の平野部での一拠点だったようである。
嘉吉元(1441)年、英賀城主三木通近が黒岡山の天満宮を移したとされる。

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英賀城跡。土塁跡。英賀城は、別所氏の三木城、小寺氏の御着城と並び播磨三大城と称されたという。永享年間初期、赤松祐尚によって築城され、戦国末期、赤松氏以降は三木氏に支配が移る。天正6(1578)年の英賀合戦では播磨進出を狙う毛利軍と黒田官兵衛はこの地で戦い、見事な戦術により、毛利軍を撃退した。この地域では本願寺の勢力が強く、毛利軍が英賀で兵馬を陸揚げをして、別所氏へ援助をしようと目論んだ。天正8年には三木通秋が籠もる英賀城は秀吉軍により落城した。
英賀城は東は水尾川、西は夢前川、南は播磨灘に囲まれた地に築かれた。本丸にあたる英賀神社本殿裏に残る土塁以外の遺構は住宅地などになって残っていない。

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英賀神社境内の司馬遼太郎「播磨灘物語」文学碑。平成3年に建立された。英賀城には司馬遼太郎の先祖も籠城していたことは有名で、本人も誇りにしていた。
18時を過ぎたので、本日の宿である2号線バイパスの姫路SAへ向かった。

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