Quantcast
Channel: いちご畑よ永遠に
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

姫路市 黒田官兵衛ゆかりの御着城跡 黒田家廟所 廣峯神社 播磨国分寺跡 播磨国府跡 

$
0
0
イメージ 1
黒田官兵衛ゆかりの御着城跡。姫路市。平成26年5月9日(金)。姫路別所PAから北西へ進み、御着城跡へ向かった。
御着城は茶臼山城、天川城とも呼ばれ、天川を天然の壕とし、土塁などをめぐらした城郭であったという。代々、 赤松氏の一族である小寺氏が拠ったが、天正7(1579)年羽柴秀吉の三木城攻めに際し、別所長治に味方したため 攻撃を受け落城した。
現在、城跡の中央を東西に国道2号線が走り、往時を偲ばせるものは少ない。
2号線を西から近づき、案内板から脇道に入ると、左側に城跡があった。右側は公園のグラウンドで、老人たちがグランドゴルフに興じていた。案内に従い、グラウンドの一角に車を停めた。8時45分頃、白い塀に囲まれた城跡へ向かうと、閑散としていた。城郭風の上階がある建物は、姫路市役所東出張所である。

イメージ 2
御着城跡。塀の中が本丸跡の広場で、黒田官兵衛の顕彰碑が立っている。小寺政職や家老の黒田職隆・孝高(官兵衛)父子らが、この場所にいたと思うと感慨深い。
広場には若干の起伏はあるが、櫓台のようなものはないが、2号線から眺めると、本丸跡は微高地にあることは分かる。
本丸跡の南側にプレハブの観光案内所があり、中にパンフレット類が見えたが、9時前なので閉まっていた。北端にある市役所の出張所には人がいたので、女性職員に話をすると、いくつか資料を渡してくれた。「ゆかりの地めぐり」の地図によると、戦国大名小寺氏の御着城の縄張りは天川を外堀にして、旧山陽道を取り込んでおり、現在の本丸跡の数十倍の広さがあったようだ。

イメージ 3
黒田家廟所。本丸跡から数十m北西にある。黒田官兵衛の祖父重隆と生母で職隆夫人の明石氏が祀られている。もともとは近くの心光寺にあったものを、黒田如水が移したものと伝えられている。
 
イメージ 4
播磨国分寺跡。国史跡。御着駅の北西にあり、2号線から川沿いの狭い道に入り南進すると、西に現・国分寺の寺域があり、その南に広大な史跡公園がある。駐車場が分からなかったので、国分寺の片隅に駐車した。
発掘により、古代国分寺の遺構が2町四方の規模に及ぶことが判明している。伽藍配置は、寺域中央に南から南大門・中門・金堂・講堂が一直線に並び、中門から延びる回廊が金堂に取り付き、塔は回廊外の寺域東南部に位置することが確認された。金堂は現・国分寺の薬医門の位置、講堂は現・国分寺の本堂の位置にあったことが確認され、現寺域と重複しない区域を中心に「ふるさと歴史の広場」として整備され、燈籠や築地など一部施設が復元されている。
播磨国府跡とされる姫路郵便局へ向かう。

イメージ 5
播磨国府跡。『和名抄』によれば、国府は飾磨郡にあり、現在の姫路市本町にある本町遺跡が、その跡と推定されている。姫路郵便局の敷地内から、古代の官衙跡が発掘されて本町遺跡と名付けられた。 本町遺跡からは、建物跡、堀跡、井戸跡などが検出され、多量の瓦や緑釉器、硯、 木簡などが出土した。 古代から続く総社に隣接しており、ここが播磨国庁の跡であることは、ほぼ確実とされる。
姫路郵便局の駐車場に駐車したら、係員が駐車車両のチェックをしていた。観光客などの長時間駐車をチェックしているのだろう。工事中の姫路城が見える位置にあることを確認して5分余りで出場した。
このあと、兵庫県立歴史博物館を見学。常設展示は国宝建築物の模型が主な展示で目ぼしいものはなかったが、1時間ほど見学した。その後、廣峯神社へ向かう。

イメージ 6
参道・御師屋敷から眺める廣峯神社。廣峯神社は733年吉備真備によって創建されたと伝わる歴史ある神社で、標高約300mの広峰山の頂上に鎮座する。奥にそびえる白幣山頂上には吉備神社、荒神社が祀られており、廣峯神社から15分ほどで登ることができる。
ここは司馬遼太郎「播磨灘物語」の冒頭に描かれた舞台で、備前・福岡(現岡山県瀬戸内市)から流浪してきた官兵衛の祖父・重隆が、御師の家に寄宿し、廣峯神社の御師が配る神符とともに黒田家秘伝の目薬を売って財を築き、有力豪族へと成長し、当時姫路を治めていた小寺政職に召し抱えられることになり、黒田家発展の基礎を築いたとされる。
姫路城から北へ進み、曲がりくねった山道を登ると、鳥居横に駐車場がある。徒歩でさらに登ると、小社があり、地道を進むと急に開けた下り坂に出て、御師屋敷の肥塚邸と廣峯神社が見えてくる。

イメージ 7
廣峯神社。山門。廣峯神社の主祭神は素戔嗚尊で、全国にある牛頭天王社の総本宮といい、京都・祇園の八坂神社は平安時代に、都を襲った疫病を治めようと、広峯神社の神を移したとされている。牛頭天王は天竺にある祇園精舎の守り神とされ、日本の神仏習合における神であり、神道の素戔嗚尊と同一視される。

イメージ 8
廣峯神社。山門から眺める姫路市街地。うっすらと播磨灘も見えている。

イメージ 9
廣峯神社。拝殿。重文。桃山時代の建立で、現在の建物は寛永3(1626)年姫路城主本多忠政が再建したもの。桁行11間の本殿に見合った大規模な拝殿で、本殿前に軒を接して建てられている。柱筋もほぼ本殿に合わせているが、東端を欠いて桁行10間となっている。
敷地が本殿に向かって上り斜面をもつので、建物前面は一種の舞台造りとなっている。

イメージ 10
現在も住まわれている御師屋敷・魚住邸の建物。境内に案内図があったので、時計回りに御師屋敷群・黒田家屋敷跡と白幣山頂上を巡り、本殿へ帰るルートを歩いた。
当時の廣峯神社は、豪壮な土塀に囲まれ、社家は神社を囲むように点在し、どの屋敷も崖に面し、石垣を高々と積み上げ勇壮な構えであった。御師たちは、神主を中心とする武家団という性格もあって、いざとなれば神社を本陣として34の御師屋敷を砦とし、敵を防ぐ自衛手段をとる方策をとっていたようである。
現在は、二軒のみ当時の面影を僅かに残している。

イメージ 11
黒田家屋敷跡。江戸時代以降、「黒田」を苗字とする家があり、家紋が福岡藩主黒田家と同様の「藤巴」であること、また、この家の男子の諱に福岡藩主黒田家の一族で諱字として用いられたのと同様の「重」「長」「政」「隆」の字を用いた者や、同様に通称で「官兵衛」の「官」の字を用いた者があることから、黒田重隆と何らかの関連性を持つ家であった可能性がある。

イメージ 12
黒田家屋敷跡。急斜面を削って平地にした敷地は土塀と石垣に囲まれている。

イメージ 13
白幣山頂上の吉備神社と荒神社。両社とも簡素な造り。中程には磐座があり、古代からの聖地であったことをうかがわせる。残念ながら展望はない。
数人の登ってくる人に出会いつつ、御師屋敷の跡地を左右に見ながら本殿へと下っていった。

イメージ 14
本殿の裏壁には「神秘なる九つの穴」がある。ここには「こよみ」の神様がおられ穴深くにはそれぞれ九星占いでおなじみの一白水星から九紫火星までの九星に該当する守り神が鎮まっておられるという。

イメージ 15
本殿裏壁の「神秘なる九つの穴」。自分の星の穴に願い事を書いた「願い札」と賽銭を入れ二礼二拍手してから、穴に小言で神様に願い事を伝えるのが作法である。
穴の奥を覗いてみたが、薄暗い空間があるだけで何も見えなかった。
駐車場へ戻ると、12時30分頃になっていた。車内で菓子を食べたのち、山を下って、北の夢前川に沿って進み、播磨守護赤松氏の居城であった置塩城跡へ向かった。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

Trending Articles