御着城は茶臼山城、天川城とも呼ばれ、天川を天然の壕とし、土塁などをめぐらした城郭であったという。代々、 赤松氏の一族である小寺氏が拠ったが、天正7(1579)年羽柴秀吉の三木城攻めに際し、別所長治に味方したため 攻撃を受け落城した。
現在、城跡の中央を東西に国道2号線が走り、往時を偲ばせるものは少ない。
2号線を西から近づき、案内板から脇道に入ると、左側に城跡があった。右側は公園のグラウンドで、老人たちがグランドゴルフに興じていた。案内に従い、グラウンドの一角に車を停めた。8時45分頃、白い塀に囲まれた城跡へ向かうと、閑散としていた。城郭風の上階がある建物は、姫路市役所東出張所である。
広場には若干の起伏はあるが、櫓台のようなものはないが、2号線から眺めると、本丸跡は微高地にあることは分かる。
本丸跡の南側にプレハブの観光案内所があり、中にパンフレット類が見えたが、9時前なので閉まっていた。北端にある市役所の出張所には人がいたので、女性職員に話をすると、いくつか資料を渡してくれた。「ゆかりの地めぐり」の地図によると、戦国大名小寺氏の御着城の縄張りは天川を外堀にして、旧山陽道を取り込んでおり、現在の本丸跡の数十倍の広さがあったようだ。
発掘により、古代国分寺の遺構が2町四方の規模に及ぶことが判明している。伽藍配置は、寺域中央に南から南大門・中門・金堂・講堂が一直線に並び、中門から延びる回廊が金堂に取り付き、塔は回廊外の寺域東南部に位置することが確認された。金堂は現・国分寺の薬医門の位置、講堂は現・国分寺の本堂の位置にあったことが確認され、現寺域と重複しない区域を中心に「ふるさと歴史の広場」として整備され、燈籠や築地など一部施設が復元されている。
播磨国府跡とされる姫路郵便局へ向かう。
姫路郵便局の駐車場に駐車したら、係員が駐車車両のチェックをしていた。観光客などの長時間駐車をチェックしているのだろう。工事中の姫路城が見える位置にあることを確認して5分余りで出場した。
このあと、兵庫県立歴史博物館を見学。常設展示は国宝建築物の模型が主な展示で目ぼしいものはなかったが、1時間ほど見学した。その後、廣峯神社へ向かう。
ここは司馬遼太郎「播磨灘物語」の冒頭に描かれた舞台で、備前・福岡(現岡山県瀬戸内市)から流浪してきた官兵衛の祖父・重隆が、御師の家に寄宿し、廣峯神社の御師が配る神符とともに黒田家秘伝の目薬を売って財を築き、有力豪族へと成長し、当時姫路を治めていた小寺政職に召し抱えられることになり、黒田家発展の基礎を築いたとされる。
姫路城から北へ進み、曲がりくねった山道を登ると、鳥居横に駐車場がある。徒歩でさらに登ると、小社があり、地道を進むと急に開けた下り坂に出て、御師屋敷の肥塚邸と廣峯神社が見えてくる。
敷地が本殿に向かって上り斜面をもつので、建物前面は一種の舞台造りとなっている。
当時の廣峯神社は、豪壮な土塀に囲まれ、社家は神社を囲むように点在し、どの屋敷も崖に面し、石垣を高々と積み上げ勇壮な構えであった。御師たちは、神主を中心とする武家団という性格もあって、いざとなれば神社を本陣として34の御師屋敷を砦とし、敵を防ぐ自衛手段をとる方策をとっていたようである。
現在は、二軒のみ当時の面影を僅かに残している。
数人の登ってくる人に出会いつつ、御師屋敷の跡地を左右に見ながら本殿へと下っていった。
穴の奥を覗いてみたが、薄暗い空間があるだけで何も見えなかった。
駐車場へ戻ると、12時30分頃になっていた。車内で菓子を食べたのち、山を下って、北の夢前川に沿って進み、播磨守護赤松氏の居城であった置塩城跡へ向かった。