鶴林寺本堂。国宝。加古川市。平成26年5月8日(木)。兵庫県立考古博物館を14時前に出て、加古川市の中心部へ向かう。鶴林寺の駐車場は広い。本日は花まつりのため、入山料は無料となっているせいか、人出が多かった。
本堂に入ると、花まつりらしく荘厳されており、お釈迦様に甘茶をかけて、甘茶を頂く人々でひしめきあっていた。
本堂は鶴林寺最大の建物で内陣厨子の棟札に応永4年(1397)の銘がある。 入母屋造り、本瓦葺で、河内長野市の観心寺本堂と並ぶ 和様と大仏様・禅宗様との折衷様式の代表例とされる。
本堂に入ると、花まつりらしく荘厳されており、お釈迦様に甘茶をかけて、甘茶を頂く人々でひしめきあっていた。
本堂は鶴林寺最大の建物で内陣厨子の棟札に応永4年(1397)の銘がある。 入母屋造り、本瓦葺で、河内長野市の観心寺本堂と並ぶ 和様と大仏様・禅宗様との折衷様式の代表例とされる。
太子堂。国宝。平安時代後期(1112)年の建造で兵庫県下最古の建築物とされる。本堂の手前右方に建つ。堂内に壁画の聖徳太子像があることから太子堂と呼ばれているが、元来は「法華堂」と称された堂で、本堂手前左方に建つ常行堂と対をなしており、「法華堂」「常行堂」という同形の堂を並べて建てるのは天台宗特有の伽藍配置である。
太子堂。内部の模型。兵庫県立歴史博物館。本来の法華堂は、一間四方の身舎の四面に庇を設けた方三間の仏堂であったが、前面一間通りを付加して礼堂とし、屋根を吹きおろして現在の建物としたとみられる。このため新たに付加した礼堂部分の床、縁とも一段低くなっている。
常行堂。重文。平安時代後期(12世紀前半)の建築であり、現存最古の常行堂とされ、もとは太子堂と同じく檜皮葺きであった。常行堂は本来、身舎1間四方を内陣として仏像を安置し、その周囲に1間の庇を付けた方三間の仏堂であるが、前方に参拝者が礼拝するスペースが取り込まれて長方形の平面となっている。
このお堂では「常行三昧」という、口で阿弥陀仏を唱え、心に阿弥陀仏を思いながら、何十日の歩き巡る厳しい修行が行われた。
このお堂では「常行三昧」という、口で阿弥陀仏を唱え、心に阿弥陀仏を思いながら、何十日の歩き巡る厳しい修行が行われた。
三重塔。第1層内部。本尊の金剛界大日如来木像。室町時代。三重塔は室町時代中期建立。昭和51年に放火で一部損傷したが、大日如来木像は奇跡的に救出され、無傷の状態で残った。
6月30日まで特別公開されている。
6月30日まで特別公開されている。
鶴林寺の境内。鶴林寺は播磨の法隆寺といわれ、聖徳太子が高句麗僧恵便を招請して創建したと伝わる。鎌倉時代、室町時代と太子信仰の高まりとともに、鶴林寺は全盛時代をむかえ、寺坊30数カ坊、寺領25.000石、楽人数十名が常に舞楽を奏していたといわれたが、戦国時代にいたって、信長、秀吉らの弾圧、さらには江戸幕府の厳しい宗教政策のため、衰徴の一途をたどらざるを得なかった。
このあと、高砂市の石の宝殿へ向かう。
このあと、高砂市の石の宝殿へ向かう。
竜山石の石切り場。竜山石は高砂市伊保町竜山に産する主に淡緑灰色の流紋岩質凝灰岩のことで、軟質ではあるが耐火性に富む。加工容易なことから古くより石材として利用され,古墳時代の石棺の材料としては,奈良県二上山の凝灰岩とともにこの石がよく使われた。姫路城の石垣や明治以降の近代建築にも利用され、今でも建築・造園用の石材として広く利用されている。
伊保山を中心とした産地の山々は高砂市の中央に位置し、垂直に切り立った石切場の岩肌は、壮観である。
伊保山を中心とした産地の山々は高砂市の中央に位置し、垂直に切り立った石切場の岩肌は、壮観である。
生石神社(おうしこじんじゃ)。石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を神体としており、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾とともに「日本三奇」の一つとされている。
一部狭い車道を北へ登ると、駐車場がある。石段を登ると、神社があり、通路で参拝料100円を支払って、見学する。
一部狭い車道を北へ登ると、駐車場がある。石段を登ると、神社があり、通路で参拝料100円を支払って、見学する。
石の宝殿。石の宝殿は竜山石として知られる凝灰岩の岩山である宝殿山の中腹を削って作られており、三方を加工前の岩盤に囲まれている。横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mの巨大な石造物で、水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも呼ばれる。7世紀頃までには造られたとみられるが、詳細は不明である。江戸時代の末、シーボルトも訪れヨーロッパに紹介されている。
側面中央が縦方向に整形的に抉られている。
社伝によれば、この池は旱魃の際にも枯れず、水位は海の潮位と連動するとされる。
社伝によれば、この池は旱魃の際にも枯れず、水位は海の潮位と連動するとされる。
奥の側面にはピラミッドの頂上を切ったような形状の突起がある。
生石神社の社伝]に、大穴牟遅神と少毘古那神の二神による伝説が伝えられている。二神が出雲国から播磨国に来た際、石造の宮殿を建てようとして一夜のうちに現在の形まで造ったが、途中で播磨の土着の神の反乱が起こり、宮殿造営を止めて反乱を鎮圧している間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった。しかし二神は、宮殿が未完成でもここに鎮まり国土を守ることを誓った、というものである。
生石神社の社伝]に、大穴牟遅神と少毘古那神の二神による伝説が伝えられている。二神が出雲国から播磨国に来た際、石造の宮殿を建てようとして一夜のうちに現在の形まで造ったが、途中で播磨の土着の神の反乱が起こり、宮殿造営を止めて反乱を鎮圧している間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった。しかし二神は、宮殿が未完成でもここに鎮まり国土を守ることを誓った、というものである。
神社の横から宝殿山へ登る道があり、宝殿を上から見下ろすことができる。
石切り場が近くに何か所もあるということが分かった。
宝殿山の頂上には大正天皇行幸の碑が建っている。四方への見晴らしは良い。山全体がエアーズロックなみの巨大な一枚岩である。
宝殿山の頂上から南方を眺める。市街地の先に見える播磨灘は意外と近い。古墳の石棺の大和地方への運び出しも容易であったろう。
頂上から右側へ下りると、宝殿の真後ろから見下ろすことができる。
このあとJR宝殿駅北西へ進み、山片蟠桃の顕彰墓へ向かう。
このあとJR宝殿駅北西へ進み、山片蟠桃の顕彰墓へ向かう。
山片蟠桃の顕彰墓。高砂市米田町神爪。浄土真宗本願寺派覚正寺の境内にある。山片蟠桃は江戸時代の代表的な町人学者。播州神爪村に生まれた蟠桃は、13歳で大阪に出て米問屋升屋平右衛門に仕え、主人が亡くなると幼主を支えて仙台藩の蔵元として藩財政を立て直したほか、多くの大名貸しをつとめる大商人になった。生来の学問好きで、経済学はもちろん、朱子学や天文学、さらには蘭学も学び、晩年ほとんど失明しながら口述で大作「夢の代」を著した。同書で蟠桃は、豊富な知識をもとに天文・地理から制度、経済までを論じ、その合理主義的な思想は今なお高い評価を受けている。蟠桃の号は番頭の音にちなんだものである。
墓は近くにあったが、山片蟠桃の遺徳をしのぶ人々が、覚正寺に移して覆屋を造った。
このあと、加西市の一乗寺へ。
墓は近くにあったが、山片蟠桃の遺徳をしのぶ人々が、覚正寺に移して覆屋を造った。
このあと、加西市の一乗寺へ。
法華山一乗寺。本堂。重文。一乗寺は白雉元(650)年、インドから飛来した法道仙人が開基したと伝わる。天台宗の名刹で西国二十六番目の札所である。
高砂市から北の山間地へ進み、駐車場に着くと300円を支払わされた。入山料も500円必要。
本堂まで石段をかなり登らねばならない。
懸崖造の本堂は大悲閣または金堂とも称する。寛永5年(1628年)、藩主本多忠政の援助で再建された。
高砂市から北の山間地へ進み、駐車場に着くと300円を支払わされた。入山料も500円必要。
本堂まで石段をかなり登らねばならない。
懸崖造の本堂は大悲閣または金堂とも称する。寛永5年(1628年)、藩主本多忠政の援助で再建された。
本堂内部。やはり花まつりの行事が行われていた。誕生仏は花で荘厳されている。
内部は広い外陣と、閉鎖的な内陣、脇陣、後陣からなる、密教仏堂の典型的な平面をもつ。札所寺院として、参拝者用の空間である外陣を広く取っており、外陣天井には巡礼者の打ちつけた木札が大量に残る。
内部は広い外陣と、閉鎖的な内陣、脇陣、後陣からなる、密教仏堂の典型的な平面をもつ。札所寺院として、参拝者用の空間である外陣を広く取っており、外陣天井には巡礼者の打ちつけた木札が大量に残る。
国宝三重塔。承安元年(1171)の建立とされており、兵庫県下で最古の塔で、平安時代後期を代表する和様建築の塔である。
国宝三重塔。本堂の縁に立つと三重塔を見下ろすことができる。 伏鉢(屋根上、相輪の下部にある半球状の部材)の銘から、承安元年(1171年)の建立と判明する。平安時代にさかのぼり、建立年代の明らかな塔として日本でも稀有のものである。塔身部の逓減率(初重から三重に向かって小さくなる率)の大きいことが特色である。
高砂市の高砂神社へ。
高砂市の高砂神社へ。
高砂神社。社伝によれば、神功皇后西征のおり、大己貴命が当地に祀られたことにより創建されたという。また、天禄年間に疫病が流行したが、素盞嗚尊・奇稲田姫を合わせ祀ったところ、疫病が治まったと伝えられている。
慶長6(1601)年、姫路城主池田輝政は高砂城築城のため、当社を西北の松林に遷座した。元和元年(1615年)に出された幕府による一国一城令により高砂城が廃城となった後、寛永2年(1625年)姫路藩主本多忠政が当社を高砂城跡の旧社地に復した。
「たれもかも しる人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに」(藤原興風作)、「高砂の尾上の桜さきにけり 外山の霞立たずもあらなむ」(大江匡房作)と詠まれた故地である。
慶長6(1601)年、姫路城主池田輝政は高砂城築城のため、当社を西北の松林に遷座した。元和元年(1615年)に出された幕府による一国一城令により高砂城が廃城となった後、寛永2年(1625年)姫路藩主本多忠政が当社を高砂城跡の旧社地に復した。
「たれもかも しる人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに」(藤原興風作)、「高砂の尾上の桜さきにけり 外山の霞立たずもあらなむ」(大江匡房作)と詠まれた故地である。
高砂神社。世阿弥の謡曲「高砂」に名高い境内の相生松は1つの根から雌雄2本の幹をもつ雌雄一体の珍しい松で、尉(伊弉諾尊)と姥(伊弉冊尊)の2神が宿る霊松とされ、相生の松と称された。初代相生の松は天禄年間に、2代目は兵火によって天正年間に枯死したと伝えられている。本多忠政がこれを惜しみ、遷宮の際に3代目の相生の松を植えたと言われている。現在は5代目の松が枝を張る。
3代目相生の松は大正13年に天然記念物に指定されたが、昭和12年に枯死、幹が霊松殿で保存されている。
相生の松とは赤松と黒松との合成を意味する。黒松が主幹となって、赤松が枝をのばし、両松がその基部でタテにくっついている珍しい植生の例である。
相生の松とは赤松と黒松との合成を意味する。黒松が主幹となって、赤松が枝をのばし、両松がその基部でタテにくっついている珍しい植生の例である。
砂神社能舞台。平成25年9月に造り替えられた舞台が竣工した。10月に高砂観月能が開催された。
「高砂や この浦舟に帆をあげて」、「君のめぐみぞありがたき」と親しみ深く謡い挙げられ、能の会で最後に謡われる付祝言、「千秋楽は民を撫で 万歳楽には命を延ぶ」は、謡曲「高砂」の結びの句である。
「高砂や この浦舟に帆をあげて」、「君のめぐみぞありがたき」と親しみ深く謡い挙げられ、能の会で最後に謡われる付祝言、「千秋楽は民を撫で 万歳楽には命を延ぶ」は、謡曲「高砂」の結びの句である。
高砂のB級グルメ「高砂にくてん」。高砂風のお好み焼き。荒井町の「ミナミ」にて。450円。戦前からこの地方にある名物料理。17時の夕方開店直後に入店。
高砂にくてん」。薄く延ばした生地に甘辛く煮込んだじゃがいもやすじ肉、こんにゃく、キャベツなどをいっぱいのせて焼き、甘めのソースを塗って半分に折ってまたソースをかけて出来上がる。味付けされ、煮込まれたじゃがいもが入っていることが特徴。
なかなか美味かった。
このあと、本日の宿になる2号線バイパス姫路別所PAへ。
なかなか美味かった。
このあと、本日の宿になる2号線バイパス姫路別所PAへ。