Quantcast
Channel: いちご畑よ永遠に
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

滋賀県豊郷町 伊藤忠兵衛記念館

$
0
0
イメージ 1
伊藤忠兵衛記念館。滋賀県豊郷町。
201959日(木)。
南彦根駅に近い西今町の「名水百選・十王村の水」で喉を潤したあと、国道8号線を南下して豊郷町に入り、15時ごろ伊藤忠兵衛記念館南の駐車場に着いた。入館料は無料。
開館時間が16時までなので優先して訪れた。本日夕方は多賀レストインで入浴する予定だったので、行程をまず琵琶湖寄りにとってみた。
店の前の道路はやや狭く感じるが、これが中山道であったという。同じ道に面して、すぐ北に豊郷小学校がある。
 
伊藤忠兵衛といえば総合商社伊藤忠商事の創始者であろうことは想像がつく。9代社長(1998年~ 2004年)の丹羽宇一郎氏は大学の先輩なので見学することにした。
滋賀県といえば、近江商人で有名だ。その最初の見学先となった。しかし、豊郷はマイナーかつ明治以降の活躍と後発の地区である。
 
伊藤忠兵衛記念館は初代忠兵衛(18421903年)が暮らし、二代忠兵衛(18881973年)が生まれた滋賀県犬上郡豊郷町にある明治15年に建てられた旧邸(1998年に財団法人豊郷済美会に寄贈)を整備し、20024月に初代伊藤忠兵衛の百回忌を記念して開館した比較的新しい記念館である。
「見越しの松に黒い塀」が印象的な旧邸は、初代忠兵衛が生活していたころのままの形が残され、その佇まいからは近江商人・忠兵衛の活気あふれた当時の暮らしぶりや、それを支えてきた初代の妻・八重夫人の活躍が偲ばれる。
初代忠兵衛、二代忠兵衛の愛用品をはじめ、多くの資料が展示され、繊維卸商から「総合商社」への道を拓いたその足跡が紹介されている。
 
受付の土間で住所氏名を記入して、畳の間に上がった。説明役の女性に丹羽宇一郎の名を出してみたが知らなかったので、聞いてきますというと男性職員が出てきた。伊藤忠商事の広報部門だと考え違いをしていたが、地元の豊郷済美会が運営しているので、伊藤忠商事については詳しく知らないのは当然だろう。
 
イメージ 2
(左)伊藤八重の
93歳のときの書。
財閥の本邸にしては簡素だねと感想をもらすと、近江商人は華美を嫌ったという。明治361903)年に忠兵衛は須磨の別邸で死去したというので、別邸のほうに財力を注いだ可能性がある。
この家屋は、どちらかというと初代の妻・八重が社員教育の場として利用した面が多いという。
 
妻の八重(18491952年)は103歳と長寿で、社業の発展にも貢献した人物といい、興味をもった。93歳のときの書はしっかりとした字体で立派であった。
 
イメージ 3
初代伊藤忠兵衛と妻の八重。
初代伊藤忠兵衛は、天保131842)年に五代目伊藤長兵衛の次男として生まれた。生家は紅長(べんちょう)の屋号で繊維品の小売をし、また12町の田地を自作する手作りの地主でもあった。伊藤家は、この初代伊藤忠兵衛と兄の六代目伊藤長兵衛が、近江湖東の犬上郡甲良郷八目村(豊郷町八目)で安政5年(1858年)5月に近江麻布類の持下り商を開業し、堺や紀州に行商したのにはじまる。伊藤忠も丸紅も、この年を創業年としている。
 
忠兵衛は、明治5年(1872年)1月に大阪本町二丁目に呉服・太物店をはじめ紅忠(べんちゅう)と称して、麻布類・尾濃織物・関東織物を取り扱った。この2つが合併・分割を繰り返して現在の伊藤忠・丸紅につながっている。
 
イメージ 4
イメージ 5
妻の八重。
家族的な日本の会社経営は戦前では普遍的であった。
豊郷本家での八重は大阪店で使用する江州米や八日市産のたばこの選定、味噌や梅干しの漬け込みをはじめ、毎年夏には大阪店のふとんを江州に持ち帰り、洗濯の上仕立て直しをした。さらに、大勢の店員の盆、正月の着物の仕立てから下駄の調達まで行った。八重は忠兵衛のアシスタントとして、江州での近江麻布の仕入れを一手に切り回し、発送するときの総指揮から食事・弁当の準備まで主宰した。 
八重のもっとも重要な仕事は、新入店員の教育で、当時伊藤忠本店に見習い店員として採用されると、まず豊郷の本家で1カ月、八重からじっくりと店員としての行儀作法や、そろばん等必要な教育をほどこされる。入店後に店員が問題を起こした場合も、直ちに豊郷本家へ送られ、再教育されるのが常であった。晩年、八重は二代忠兵衛に「私はたくさんの子どもを育ててきた。」と述懐しており、豊郷の本家は、現代における社員研修所の先がけであった。
 
イメージ 6
仏間と仏壇。
初代忠兵衛は浄土真宗の信仰に厚く、津村別院へ熱心に通い、「商売は菩薩の業」と説いて多数の人材を育て、財産を分かつことを商売繁盛の本道としていた。
 
イメージ 7
土蔵。右に離れの茶室がある。
土蔵に資料が展示されるのが通例だが、土蔵の配置と本屋とのつなげ方は各住居で異なっており、個性が現れている。
 
イメージ 8
土蔵の扉下に付けられた木製の車。
 
受付の土間で入手した情報誌「三方よし」44号、20193月号は、偶然なのか伊藤忠兵衛記念館特集だった。
2003年にこの旧宅の蔵から7万点の文書が発見され、滋賀大学経済学部附属史料館が保管して調査しているが、一部の資料はこの土蔵で展示されている。
国宝の菅浦文書も附属史料館が保管しており、滋賀県の重要文書は同館が保管しているようだ。
 
イメージ 9
明治
12年・15年「御得意場名簿。御姓名記」。丸紅所蔵。
忠兵衛は17歳で近江麻布の行商に出かけ、長崎の出町で外国貿易の盛んな状況を見たことに刺激を受け、我国の貿易のパイオニアと言われるほどになった。
彼は、明治5年大阪本町に繊維問屋の店「紅忠」を開設した。開店と同時に忠兵衛は、近代的な経営方針である、店員の販売権限と義務の明確化、社内会議制度導入、利益三分主義(本家・店・店員への配当制度)、運送保険の利用、洋式簿記と学卒の採用、貿易業への進出という経営方針を打ちだした。
利益三分主義をとは、店の純利益は本家納め・本店積立金・店員配当に分かち、これを 532 の配分率にして「三つ割銀」といった。店員への配当を割くことによって勤労意欲を喚起したもので、これは伝統的な近江商法に拠ったものである。
 
イメージ 10
明治
12年・15年「御得意場名簿。御姓名記」。説明。
忠兵衛の辞世の句は「南無阿弥陀仏 称うる皆と 梅干しは 熱がありても 味は変わらじ」。
 
イメージ 11
大阪本町の伊藤糸店で使用されていた木版画ポスター。
 
イメージ 12
大阪本町の伊藤糸店で使用されていた木版画ポスター。
 
イメージ 13
伊藤糸店絵ビラ。
 
イメージ 14
伊藤糸店絵ビラ。説明。
 
イメージ 15
伊藤糸店絵ビラ
 
イメージ 16
伊藤忠合名会社糸店絵ビラ。大正
41915)年。
明治36年に初代忠兵衛が61歳で他界し、次男・精一が17の若さで二代忠兵衛を襲名した。
明治42年、イギリスに留学した忠兵衛は、外国商館を通さず直接イギリスと商売をすれば、中間の利潤がカットされ日本の国益になることに気が付く。
イギリス留学から帰国した忠兵衛は、本格的な国際化に向けて、海外の営業拠点づくりに奔走し、大正初期には、綿布は輸出を柱とし、販路はアフリカ東海岸にまで及び、アメリカから紡績機の輸入などで業績を拡大した。その後、「伊藤忠商店」は本家の「紅長」と合併、「丸紅商店」が生まれ、現在の「伊藤忠商事」、「丸紅」へと発展した。
なお、二代忠兵衛の孫・武子は政治家・河野洋平に嫁している。
 
イメージ 17
昭和
13年竣工の丸紅商店京都店。
 
イメージ 18
昭和
16年「紅華」掲載の丸紅商店大阪支店。内部写真。
タイムレコーダー(出勤時)、女子更衣室、退出時などの風景。
 
イメージ 19
丸紅商店、伊藤忠商事商標。昭和
13年~27年。
 
イメージ 20
伊藤家の玩具。泥面子。
 
1550分ごろに退出して、北の豊郷小学校旧校舎群へ向かった。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

Trending Articles