佐和山城跡。龍潭寺前から。彦根市。
2019年5月9日(木)。
石田三成の居城として有名な佐和山城は彦根城の東にあり、標高233m、比高136mの佐和山山頂に本丸跡がある。
JR東海道線に乗るたびに線路沿いの佐和山城跡の看板を見てきたので感慨深い。線路と龍潭寺の間には広い駐車場とトイレがある。佐和山は右奥の小高い山である。
この場所は佐和山城の搦め手である西麓にあたるが、本来の大手口は旧東山道(中山道)に面した東麓にあり、現在は国道8号線に面している。
また、北国街道や、織田信長が整備した下街道(朝鮮人街道)が合流する地点でもあり、琵琶湖側に外港をもった水陸交通の要所であった。
佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代初期、近江源氏・佐々木定綱の六男時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まりという。その後、佐々木氏は湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。佐和山城は両勢力の境い目の城として攻防が繰り返された。戦国時代に入ると、湖北では京極氏に代わって浅井氏が覇権を確立し、湖南の六角氏との間で佐和山城争奪戦が展開された。
織田信長・豊臣秀吉の時代にも、佐和山城は近江の要衝を守る城として重視された。信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配し、信長自身も佐和山城を近江制圧の拠点として利用し、安土城築城までの期間は頻繁に逗留し、元亀4(1573)年には2か月ほど在城している。
秀吉の時代には、堀秀政、堀尾吉晴そして五奉行筆頭の石田三成が入城した。
石田三成が佐和山城主であった時代の概要図。上が北。
現代の登城ルートは左上の点線を登って、西の丸から本丸へ至る行程。
右は東麓の大手口跡。下山後、国道8号線からアクセスした。
佐和山城はしだいに整備され、天正18年(1590年)、石田三成が佐和山城主となってからは、山上に本丸以下、二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などが連なり本丸には五層の天守を構えた。
また、山下には東の鳥居本方面の東山道に面して大手門が開き、二重に巡らされた堀の内には侍屋敷・足軽屋敷・町屋などの城下町が形成されていた。
東山道に接する大手方面には、谷戸を塞ぐ形で内堀で区画された侍屋敷地が二ケ所あり、更にその外側に城下町と外堀があった。
琵琶湖に接する西の搦手口にも城下町があり、湖には百間橋が架かっていたという。
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、翌日から井伊直政ら1万5千の兵力で佐和山城を攻撃させた。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や兄・正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。
関ヶ原の戦いののちは、井伊直政・直継が入城したが、彦根城築城にともない徹底的に破壊されて廃城となり、その際、石垣や建物の多くが彦根城へと運ばれた。
佐和山城跡。龍潭寺前からの登城路。上が東。
佐和山は西麓にある清凉寺や龍潭寺などの所有する山で、無料での入山が許可されており、龍潭寺境内に登山口がある。山頂の本丸までは約30分のハイキングコースとなっている。
トイレ横にある竹の杖を借りて、道路を横切ると龍潭寺境内を通りぬけて、右上の支尾根を上り、山頂からの稜線に着いて、西の丸跡経由で山頂を目指すというコースである。
案内板は完備しているので、コースを間違えるということはない。
心臓手術をする前であれば、山頂まで15分ほどで登れただろうが、ほぼ初めての低山ハイクはつらい。20秒登るだけで一休みを繰り返して、山道を登っていった。20分ほどで、山頂からの稜線へ辿り着いた。距離表示があり、まだ20分ほどかかるかと思ったが、稜線からの高度差は少ないので10分ほどで山頂に着いた。
稜線上にある「西の丸跡」。
峠(切通し)から右の稜線を進むと、たしかに削平された感じのある広い場所に出る。
「西の丸跡」。説明板。
「西の丸跡」。旧状概要図。
1の地点が稜線上の切通し(峠)で、番所が置かれていた形跡があるという。
佐和山城本丸跡。
峠から10分ほどで到着した。
石田三成時代の本丸の復元図。
図からすると、北西端の搦め手口からの門から本丸へ入ったようだ。東の大手からのルートは南端部を回り込んで南西部の門に至っている。天守は東南部にあったようだ。
佐和山城は井伊家が彦根城に移る際に徹底的な破城を受けており、特に本丸の天守台では9間(15m前後)を切り落としたと伝えられている。本丸自体も岩盤が露出するまで破壊され、石垣もほとんど撤去された。
佐和山城本丸跡。
近付いたころから、人の声が聞こえてきたが、高年女性3人組がベンチに座って談笑していた。
佐和山城本丸跡。
石碑や案内図がある。
佐和山城本丸跡。彦根城、琵琶湖方面。
佐和山城本丸跡。琵琶湖方面。
佐和山城本丸跡。説明板。絵図は西が上。
佐和山城本丸跡。案内図。東が上。
右側の国道8号線のトンネルを抜けた先に、大手口の跡がある。
往路を下って、駐車場に戻り、国道8号線を北上して、大手口の跡へ向かった。
佐和山城大手口跡。
国道8号線のトンネルを抜けてしばらくすると、左側に案内板が見えた。路肩に駐車。
佐和山城大手口跡。案内板。図の上は西。
佐和山城大手口跡。奥に佐和山。
橋の下を流れる川はかつての内堀で、当時は8号線手前までの幅をもっていたという。
佐和山城大手口跡。奥に佐和山。
先に進むと、土塁の痕跡があり、右の樹木越しに近江鉄道の電車が走っていった。
畦道の左右には侍屋敷が並んでいたというが面影はない。
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彦根市河原町芹町地区。重要伝統的建造物群保存地区。
平成28年7月25日に選定された。
江戸時代前期に河川を付け替えて形成された城下町の特徴ある地割りをよく伝えるとともに、街路に沿って江戸時代から昭和戦前期にかけて建てられた町家等を良く残し、商家町としての歴史的風致を良く示すことが評価された。
駐車場はないので、車で流しながら見学した。賑わいはこれからという段階である。
名水百選十王村の水。彦根市西今町。
西今町の十字路の角、家並が続く中に小さな池があり、中央には六角形の地蔵堂がまつられている。。この池に湧き出る水は、すでに元禄年間に「湖東三名水の一つ」として知られていた。(他は五個荘清水ヶ鼻の水、醒井の水)。
その昔、遠い村に嫁いだ娘の母乳の出が悪く、故郷の十王村のこの水を汲んできてもらい飲んだところ、たちどころにお乳の出が良くなり、そのおかげで赤ん坊はすくすくと育ったといい、今も地蔵は、母乳の神様として親しまれている。
道路の彦根側に5台ほどの駐車場があり、女性たちが水汲みに来ていた。私もペットボトルに水を入れた。
このあと、豊郷町の伊藤忠兵衛記念館へ向かった。