彦根城。国名勝・玄宮園。東口の復元水田。
2019年5月9日(木)。
彦根城天守の見学を終え、北東にある池泉回遊式の大名庭園である玄宮園を見学した。
玄宮園の原形となる庭園が造営された時期や規模は明確ではないが、江戸時代初期の延宝6(1678)年に彦根藩4代藩主井伊直興が整備したといわれる。
園内は中国湖南省の洞庭湖にあった唐の玄宗皇帝の離宮庭園を参考に、「瀟湘八景」を「近江八景」に置き換えて作庭されたといわれる。天守を借景として、中心の入り組んだ池には4つの島と9つの橋が架かり、畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭などの建物が配されている。
玄宮園の位置は城内の北東部で内濠と琵琶湖の入江(松原内湖)に挟まれた第二郭と呼ばれる曲輪内にあり、往時は庭園北側の水門から舟で琵琶湖まで出られるようになっていた。
水田は2012年に復元されたもので、藩主が領内の五穀豊穣を祈って田植え神事を行い、米の生育状況を確認していたという。
臨池閣。池に突き出すよう建てられている。
彦根城天守閣と臨池閣。
彦根城天守閣と鶴鳴渚。
北東部にある鶴鳴渚は、池の中心的な中島で、鶴亀の鶴にあたる島である。
彦根城天守閣と臨池閣。
北中央部のあたりが、天守閣が良く見える場所であった。
玄宮園は池の大きさが目立つ庭園でいささか大味な感じがある。岩石を使う庭園は隣接する楽々園に任せたようだ。
庭園全体は「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。玄宮園は、江戸時代には「槻(けやき)之御庭」、隣接する楽々園は槻御殿とよばれ、延宝5年(1677年)、4代藩主井伊直興により下屋敷として造営が始まり、同7年に完成したと伝えられる。現在は、庭園部分を玄宮園、御殿部分を楽々園と称している。
玄宮園の園路終点からは槻御殿(楽々園)が望まれる。
槻御殿(楽々園)。説明板。
大老井伊直弼は文化12(1815)年にここで生まれた。
西口から外へ出て、槻御殿へ向かう。
槻御殿。御書院。上之御間と上段之間。
玄関棟の横を抜けると、御書院に着く。
最大規模であったときの10分の1にあたる数棟が現存し、庭園などを整備中である。
障壁画が残っている。
槻御殿。御書院横から玄宮園方向の庭園部分。
槻御殿は文化10年(1813)の11代藩主井伊直中の隠居に際して大規模な増改築が行なわれ、その後間もなく楽々園は最大規模に膨らんだ。現存する「御書院」も、その際に新築されたもので、御書院に面して新たに「庭園」が築かれた。
現在、枯山水となっている庭園は、古絵図を見ると満々と水をたたえていた。
槻御殿。御書院から続く茶室「地震の間」「楽々の間」。
御書院の奥はしだいに渓谷の風情をなし、「地震の間」「楽々の間」などへと連なっていた。
「地震の間」は茶の湯に用いる「茶座敷」で、地震被害を防ぐ耐震工事を加えられたため、そのような名称でよばれたという。「楽々の間」も同様に数寄屋建築であり、12代藩主井伊直亮により、地震の間のさらに奥に増築された。「楽々園」の名の由来ともなった建物で、煎茶の茶室として近年注目されている。
茶室「地震の間」。説明。
茶室「地震の間」。説明。
彦根城。内堀。観覧用の屋形船発着場がある。
内堀の土手の石垣は高石垣ではなく、腰巻石垣とよばれる低い石垣で、その上は土塁になっている。このような構造は西日本の城郭にあまり類が見られず、井伊家が関東から移封してきたことから関東地方特有の巨大土塁構築技法が適用されたと考えられる。
彦根城。馬屋。重文。
表門の外、内堀と道路を隔てて建っている細長い建物が駐車場の横にある。藩主などの馬を常備するための馬屋は、全国の近世城郭に残る大規模な馬屋としてほかに例がない。
馬屋。内部。
馬屋の建物はL字形をしており、佐和口の櫓門に接する東端に畳敷の小部屋、反対の西端近くに門があるほかは、すべて馬立場(うまたちば)と馬繋場(うまつなぎば)となっており、21頭の馬を収容することができた。
11時40分ごろとなり、石田三成の居城であった佐和山城跡へ向かった。