尼子公民館(尼子会議所)。滋賀県甲良町尼子。
2019年5月9日(木)。16時30分ごろに豊郷小学校旧校舎群の見学を終え、北東近くにある戦国大名尼子氏発祥の地へ向かった。本日は彦根城・佐和山城などを経て、伊藤忠兵衛記念館を見学して、戦国時代から近江商人まで忙しい。この先、甲良神社権殿、多賀大社を経て多賀レストインで入浴し道の駅甲良に至る行程を考えていた。
事前の情報は「滋賀県の歴史散歩」で得ており、尼子氏屋敷跡は西小の西と地図で図示されているので簡単に見つかるかと考えていたら、甲良神社ともども迷子になってしまった。ナビに大体の地点をプロットしておき、尼子のセブンイレブンの交差点まで来たら、「尼子の館」のような案内板に誘導されて反対方向に向かってしまった。どうも違っていると気づいて、尼子の人気のない狭い集落を西小の方向へ向かうが分からない。偶然、尼子会議所ビル(尼子公民館らしい)の交差点に来て、黄色の矢印に「尼子氏の発祥地」とある標識を見つけた。
観光客用の駐車場はなさそうなので、廃商店の軒先に駐車して200mほど先へ歩くと、立ち話している地元の女性二人に池と祠のある尼子氏屋敷跡の位置を尋ねた。すると、土塁公園と濠跡の2か所があるということで、二人で道案内をしてもらった。道路を左(北)に入ると住泉寺(玄翁堂)の境内があり、その右に尼子土塁公園があった。
尼子氏発祥の地。尼子土塁公園。尼子城(館)跡。甲良町尼子2467。
たしかに土塁が残っている。
尼子土塁公園。
土塁と濠の組合せだった痕跡がある。
尼子土塁公園。尼子氏の城(館)跡の土塁公園。説明板。
土塁と堀跡は、正平二年(1347年)頃に本家京極家の勝楽寺の前衛城として、京極家五代婆娑羅大名として天下にその名を馳せた佐々木佐渡判官入道道誉(京極高氏)の孫六代高秀の四男京極高久が甲良荘尼子郷を領有し、この地(尼子)に築城し居城した尼子氏の城(館)跡である。
京極高久はその後、地名を姓として尼子左衛門尉高久と名乗り、尼子氏の祖となった。嫡男詮久(のりひさ)が近江尼子氏、次男持久が出雲国(島根県)の守護代となり雲州尼子氏の祖となった。雲州尼子氏は戦国時代に山陰山陽11ヶ国200万石を領する覇者となったが、毛利氏に滅ぼされた。
近江尼子氏は二代氏宗の頃に戦乱で落城し、当時としては広大な尼子城(館)と共に歴史から消えて「まぼろしの尼子氏」といわれた。
昭和63年に滋賀県教育委員会が玄翁堂の東の竹藪から土塁と堀跡を発見し、室町時代の尼子氏の居城(館)跡の一部であることを確認し発表された。
平成8年度にむらづくり事業として尼子城(館)の土塁、堀跡の一部を保存・修復して約1300㎡の土塁公園とした。
京極高氏(佐々木導誉)の三男で京極家の家督を継いだ京極高秀の嫡男が京極高詮(たかのり)で、二男が尼子氏初代の京極(尼子)高久である。
尼子高久(1363~1391年)は近江国守護代に任ぜられ、尼子郷に館を構えて尼子氏と称した。
高久の子のうち、嫡男の詮久(のりひさ)は近江の所領を受け継いだ(近江尼子氏)。また、次男の持久は山名氏と係争状態にあった出雲に下向し、守護代となった(出雲尼子氏)。
尼子持久は、明徳3(1392)年に宗家の京極高詮が守護を務める出雲の守護代として同地に下向し、月山富田城(現在の安来市広瀬)に拠った。出雲尼子氏は出雲と隠岐の守護代を通して雲伯の国人を掌握して次第に実力を蓄え、戦国大名となった。
永禄9(1566)年尼子義久は毛利元就に攻められ月山富田城を開城して降伏し戦国大名尼子氏は滅んだ。その後、尼子一族の山中鹿之介が「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈って尼子家再興に尽力したことは有名である。
尼子城の堀跡。殿城池。
土塁公園から車道に戻り、女性に案内されて、右(南)に50mほど歩くと、尼子城の堀跡の池がある。歴史散歩の写真どおりであった。祠は落城時の城主の姫君・八千姫を祀った水神様である。
ここが外堀であったとすると、尼子城は広大な平城であったことが分かる。
尼子城の城跡。殿城池。説明板。
落城後、一族家臣は四散したが、出雲尼子氏を頼ったものもいたようだ。
100mほど南に藤堂高虎出生地碑があると教えられたが、予定になく時間もなかったので訪れなかったが、車道から田園の中にそれらしいものが眺められた。藤堂高虎は弘治2(1556)年、現在の甲良町在士に生まれた。
甲良神社。権殿。重文。甲良町尼子。
予定していた甲良神社をナビで見つけて、甲良町役場(在土)に駐車して、すぐ横の甲良神社(法養寺)を訪ねたが権殿が見つからなかった。仕方なく甲良町役場で尋ねると、尼子のほうの甲良神社だと教えられた。同名の甲良神社が二つあるとは気づかなかった。しかも、先ほどの尼子交差点のセブンイレブン近くにある。歴史散歩の地図を見直すと、たしかに尼子氏屋敷の近くであった。
甲良神社は甲良荘の総社とされる。明治16(1883)年、甲良神社が改築されたさい、旧本殿を西へ移してご神体を臨時に祭る仮殿・権殿(ごんでん)とした。
昭和25年に大修理が行われた時、「寛永11年(1634)9月、尼子若衆これを立つ」と書かれた墨書銘が発見され、江戸時代初期に甲良大工の初代甲良豊後守宗廣(1574~1646年)が建てた建築と分かった。
甲良氏は京極氏の流れといわれ、江戸幕府の作事奉行輩下である幕府大棟梁を務めた家系で、建仁寺流として11代まで続いた。甲良宗廣は甲良町法養寺で社寺の建築を担う大工をしていた甲良家に生まれた。30歳の時、宗廣は幕府に呼ばれ、江戸の増上寺造営の棟梁を務め、日光東照宮造営の大棟梁となった。
この権殿は前の屋根が曲線形に長く延びて向拝になる流造(ながれづくり)の形式をとり、檜の皮で屋根を葺く、檜皮葺になっている。小形の建物であるが、背が高く、蟇股や柱、梁などに彫刻が多く、装飾性の豊かな建物である。正面にある透模様の蹴込板は松材で、その細工の仕方から室町時代のものといわれる。
甲良神社。由緒。
主祭神は竹内宿禰命。御神紋は平四ツ目。
創立は天武天皇(在位673~686年)の嬪で高市皇子(654~696年)の母である宗形徳善の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)が当地に住み、筑後国の高良大社から竹内宿禰命を勧請したことに始まるといい、尼子の地名は尼子娘にちなむ。
宗形徳善は、飛鳥時代の福岡県宗像地方の豪族で、宮地嶽神社裏手にある宮地嶽古墳は徳善の墓とする説がある。
また社記に「治暦年中より甲良荘の総社と成りける」とあることから治暦以前に勧請されたもので、その頃から甲良荘33ヶ村の総社として厚く信仰されていた。降って徳川三代将軍家光の時、本殿以下諸殿の造宮がなされている。明治5年甲良神社と改称し、次いで明治16年郷社に昇格、この年本殿以下を新築し大正15年拝殿竣工。旧本殿は仮殿の目的で本殿西側に移築し保存した。これが現存する「重要文化財甲良神社権殿」である。
17時45分になり、近くの多賀大社を再訪することにし、10分ほどで着いた。
多賀大社。多賀町多賀。
伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれた。
古代豪族・犬上氏の祖神を祀ったとの説がある。犬上氏は、日本武尊の子の稲依別王の後裔とされ、飛鳥時代の遣隋使・遣唐使として知られる犬上御田鍬にはじまる。この犬上氏は、多賀社がある「犬上郡」の名祖とされる。
多賀大社。
当社は中世から近世にかけて伊勢・熊野とともに庶民の参詣で賑わった。伊邪那岐命・伊邪那美命両神が伊勢神宮祭神の天照大神の親神であることから「お伊勢参らばお多賀へ参れお伊勢お多賀の子でござる」との俗謡がある。
18時を過ぎ、近くの名神多賀SAにある多賀レストインに入浴するため、一般道用の無料駐車場へ向かった。入浴料は550円であった。このあと、道の駅「甲良」へ向かった。
翌朝、東南近くにある佐々木導誉(京極高氏)の墓へ向かった。
佐々木導誉の墓。勝楽寺。甲良町正楽寺。
2019年5月10日(金)。
佐々木導誉(京極高氏)は、鎌倉時代末期の永仁4(1296年)年、坂田郡山東町(現米原市)に生まれた。道誉は、鎌倉幕府の御家人であり、佐々木六角氏の分家で北近江の守護であった京極家の第5代当主としてその重責を担った。その後、鎌倉幕府倒幕の気運が高まると、足利尊氏とともに、室町幕府開幕に大きな役割を果たし、室町幕府では侍所々司を勤める四職家の当主であった。
その一方、導誉は婆裟羅大名とよばれ、武芸のみならず、茶道、華道、香道、能楽などの文化芸術にも通じ、自由奔放、豪放磊落な立ち振る舞いも派手で人々の目には奇異なものと映った。
佐々木導誉は、建武4(1337)年に甲良町勝楽寺に移り住み勝楽寺城を築いた。勝楽寺城は京都の事変にすぐ応えるため戦闘体制に適した土地で、多賀河瀬両氏を前衛としており、麓に居館を設けた。その後、暦応4(1341)年に京極家の祈願所として開いた勝楽寺もまた導誉を開祖として創建され、寺号は導誉の諡号勝楽寺殿特翁導誉によって命名された。
以降、応安6(1373)年、78歳で生涯をとじるまで勝楽寺を拠点とした。
佐々木導誉の墓。勝楽寺。
勝楽寺は元亀元(1570)年に織田信長により全山を焼き払われた。
勝楽寺の山門は、室町時代の様式を残しており、背後の山にあった勝楽寺城の城門を移築したもので、天明年間(1781~1788年)に移築されるまでは山中にあったという。
正楽寺山ハイキングコース案内図。
平成の名水百選・山比古湧水。説明板。
山の頂には、勝楽寺城の主曲輪跡が今も残っているという。
勝楽寺の山道手前には石仏群があり、1体ごとに着物が掛けられている。
平成の名水百選・山比古湧水。愛荘町松尾寺。
帰り際に10数頭ほどの発情期のオスを含むサルの集団が道路を横切っていくのを見た。ハイキングコースも危険だし農業被害もありそうである。
湧水は、鈴鹿山系の山裾、宇曽川の源流にほど近く湖東流紋岩帯(秦荘石英紋岩)を通って出てくる。宇曽川の右岸を山側へ約7分ほど入った場所にある。途中リバースセンター方面への橋を渡り左岸側道路を登っていくと橋の先に水汲み場がある。
ポリタンク持ち込みに適している。