東近江市五個荘金堂の町並み地区。東近江市五個荘金堂町。
2019年5月10日(金)。9時15分ごろ、愛荘町松尾寺の平成名水百選・山比古湧水を出て、東近江市五個荘金堂の町並み地区へ向かった。
五個荘金堂の町並み地区は重伝建地区として平成10(1998)年に選定されており、名前は以前から知っている。
10時ごろ五個荘に着き、とりあえず近江商人博物館の敷地に駐車したが、見学ポイントから遠く、かつ臨時休館していた。「ぷらざ三方よし」の無料駐車場が紹介されていたが、北のまちなみ保存交流館方向へ車を走らせてみると、交流館西側の空き地に駐車スペースがあったのでもぐりこんだ。
まず、一番近い「近江商人屋敷・中江準五郎邸」を見学した。
藤井彦四郎邸と合わせ4館共通で600円払ったが、藤井彦四郎邸は障害者無料だった。
東近江市とは聞き慣れないが、2005年2月に八日市市、永源寺町、五個荘町、愛東町、湖東町が合併して発足し、2006年1月に能登川町・蒲生町を編入したという。
五個荘金堂地区の歴史は古く、奈良時代に寺院が建てられ、古代神崎郡の中心地の一つであった。現在の集落の基礎ができたのは江戸時代に入ってからで、大和郡山藩の金堂陣屋を中心に古代の条里制地割に沿って、弘誓寺や勝徳寺・浄栄寺などが周囲に配置され、集落が形成された。
古代条里制地割を基本とし陣屋と寺院を中心に形成された湖東平野の典型的な農村集落で、近江商人の本宅群と伝統的な農家住宅がともに優れた歴史的景観をよく伝えるとされる。
地名の由来となった金堂とは、聖徳太子がこの地に金堂を建立し、地区名としたという伝承に基づくもので、集落の東に金堂廃寺跡があり、鎌倉時代にその後身として創建されたのが浄栄寺という。
近江商人(八幡・日野・五個荘)のそれぞれの特徴。
五個荘金堂地区の近江商人は、主に江戸時代後期から明治・大正・昭和戦前期にかけて、呉服や綿・絹製品を中心に、革新的商法によって商圏を全国に広げた。商人本宅は、広大な敷地を板塀で囲み、内部に切妻や入母屋造りの主屋を中心に数寄屋風の離れや土蔵・納屋を建て、池や築山を配した日本庭園をもつのが特徴である。
五個荘は、古来より交通の要衝で、古代には東山道、近世には中山道や御代参街道(伊勢道)が通り、現在も国道8号と東海道新幹線が町中央部を横断している。その利点を活かして、中世以降近江商人発祥地の一つとして発展した。
室町時代には、金堂地区の北に位置する小幡(おばた)商人が有名であった。東山道に近い小幡三郷から小幡商人が起こり、伊勢方面で活動する四本商人(保内・石塔・沓掛と小幡)と若狭方面で活動する五箇商人(八坂・薩摩・田中江・高島南市と小幡)の二つの商業集団に属した。商業利権を巡って保内商人との争いが絶えず、小幡商人は徐々に衰退するが、一部は安土城下、さらに八幡山城下へと移り、八幡商人の一部となった。
近江商人の巧みな商売は、伊勢側の村々を警戒させ、「近江泥棒 伊勢乞食」の警句を生んだ。
五個荘金堂地区は日本遺産「琵琶湖とその水辺景観‐祈りと暮らしの水遺産‐」の一つでもあり、東近江市では伊庭、永源寺とともに選定されている。これを記念したパンフレットが頒布されていた。
「近江商人屋敷・中江準五郎邸」。
昭和初期、朝鮮半島や中国で三中井百貨店を築いた中江四兄弟の末弟・中江準五郎氏の本宅。昭和8年建築。主家は二階建てで、屋根は切妻。蔵が二棟あり、中には郷土玩具である小幡人形及び全国の土人形が多数展示されている。
三中井は、明治38年(1905)に朝鮮の大邱に三中井商店として設立され、昭和9年に株式会社三中井百貨店として、本格的な百貨店経営にのりだし20店舗余りの一大百貨店となった。しかし、昭和20年の終戦とともに海外の資産を失った三中井百貨店はその歴史の幕を閉じた。
中江準五郎邸。平面図。
庭は池泉回遊式で池のまわりには石灯籠や巨石を配している。
中江準五郎邸。主屋と蔵の接合部。外観。
雁行しており、趣がある。
中江準五郎邸。主屋と蔵の接合部。内部。
中江準五郎邸。主屋と庭。
中江準五郎邸。主屋2階。
中江準五郎邸。主屋2階。
2018年7月放映のNHKBSのテレビドラマ「悪魔が来りて笛を吹く」でロケ場所として使用された。
中江準五郎邸。主屋2階から庭を見下ろす。
中江準五郎邸。蔵の展示。郷土玩具「小幡人形」。
中江準五郎邸。蔵の展示。郷土玩具「小幡人形」。
小幡人形は、東近江市五個荘小幡町で作られている伝統的な土人形で、18世紀、小幡において京都への飛脚業を営んでいた安兵衛が、京都伏見において作られる伏見人形の製作方法を習得し持ち帰ったのが始まりとされる。鮮やかな原色、特に桃色による彩色が特徴である。
中江準五郎邸。蔵の展示。郷土玩具「小幡人形」。説明。
江戸時代から明治時代にかけて、土人形のことを「でこ」とよんだ。
「小幡でこ」は、今から約300年前に細居安兵衛が作り始めたもので、初代当主の安兵衛は、はじめ京都通いの飛脚をしていたが、その道中で追い剥ぎや恐喝などにたびたび会い、転業を考えるようになった。
家でできる仕事を考えている時、当時盛んに売られていた伏見人形に着目し、家が中山道に面していたこともあり、中山道を往き来する人々に向けて土産や玩具として販売することを目的に、伏見人形の製法を身に付け「小幡でこ」を考案した。
「小幡でこ」は約400種類あり、3月、5月の節句人形を主体に祭りの御輿や縁起もの、風俗人形や軍人などがある。彩色に特徴があり、「小幡でこ」に使用する色は全て原色で、見た目は色鮮やかで印象深いものとなっている。
中江準五郎邸。蔵の展示。郷土玩具「小幡人形」。工程の紹介。
「小幡でこ」を作る工程は、まず粘土を練り、その粘土を代々伝わる人形の型にはめ、乾燥させる。その後、型から乾燥した粘土を抜き、合わせて釜で焼く。焼いた人形に彩色し、大きい作品には九代目細居安兵衛の刻印を刻む。これらの工程には約3ヶ月を要する。
このあと、外村宇兵衛邸へ向かった。