近江商人屋敷・外村宇兵衛邸。東近江市五個荘金堂町。
2019年5月10日(金)。
中江準五郎邸の見学を終え、外村宇兵衛邸へ。
外村宇兵衛家の初代宇兵衛嘉久(1777~1820年)は、近江商人であった6代外村与左衛門の末子で、享和2(1802)年に分家したのち、文化10(1813)年に与左衛門家との共同事業から独立して呉服太物の商いを始めた。外村宇兵衛家は明治時代にかけて東京・横浜・京都・福井などに支店を有し、呉服類の販売を中心に商圏を広げて、明治時代には全国長者番付に名を連らねるなど近江を代表する豪商としての地位を築き上げた。
屋敷は家業の隆盛とともに新増築が重ねられ、明治29(1896)年ころの隆盛時には、2720㎡の敷地に主屋・書院・大蔵など蔵が十数棟並んでいた。
万延元 (1860)年に建てられた主屋は中央が二階建てで、北と北西が平屋になっており、万治元(1864)年に建てられた土蔵と接続している。主屋背面にはオクニワに続いて平屋の水屋棟が建つ。
1970年代ごろには荒廃していたが、旧五個荘町が主屋や庭を改修整備して、明治期の姿に修復した。
庭園は幕末から明治前期にかけ多くの庭園を設計した近江出身の名作庭家・勝元鈍穴(どんけつ)が作庭したものである。
この屋敷の見所の一つに「かわと」とよばれる施設がある。手前の施設がそれで、水路に接した一部分が板戸になっており、屋敷に水を引き込んでいる様子が見えている。
「かわと」。外村宇兵衛邸。
「かわと」は、水路の水を生活用水に利用する施設で、屋根を架けて野菜や鍋・釜の洗い場としていた。防火用水にもなり、淡水魚も飼うことができた。
「かわと」。外村宇兵衛邸。説明板。
正確には「入れ川戸」という。
主屋縁側と庭園。
2階への階段。
2階の床の間。
土蔵展示室への入口。
土蔵2階。
食器などの什器。長持。
展示。御幸毛織初代社長・四代目外村宇兵衛元亨の銅像写真など。
御幸毛織株式会社は、四代目宇兵衛が、呉服の時代からは洋服の時代が必ず来ると確信し、立ち上げたのが始まりという。
御幸毛織は名古屋に本社を置く服地メーカーなので注目した。
調べると、御幸毛織は、明治38(1905)年に尾西の縞商・祖父江利一郎が、名古屋市内で織り布と染物の工場を開業したのが始まりで、会社では、1905年を創業年としている。前津小林工場では満州向け木綿を、前ノ川工場では染色を手がけた。満州木綿製造では失敗の憂き目をみたが、創業より2年後の明治40年(1907)、台所工場にて毛織物(半毛・純セル)に着手。毛織物工業の発展の機運にのって業容拡大を図った。明治43(1910)年には「合資会社御幸毛織工場」を設立した。
祖父江利一郎は、創業当時から自社内一貫生産を掲げ、一方では高級毛織物生産を目指して人材を登用した。
しかし、過剰投資により経営困難にいたった御幸毛織合資会社は、外村商店の単独経営に移行することになり、大正7年(1918)株式会社化して「御幸毛織株式会社」となり再スタートを切った。会社では1918年を設立年としている。
現状としては、2009年に東洋紡の完全子会社となっている。
近江商人の家訓。展示解説。
近江商人の家訓。展示解説。
「三方よし」。
「積善の家に必ず余慶あり」。
「自彊やまず」。
「奢る者は久しからず」。
近江商人の旅姿。
天秤棒を担いだ旅姿。
天秤棒の重さ体験コーナー。土間。
担いでみたら重かった。
屋敷の敷地は東の前半部と西の後半部とに分けられ、後半部にはかつて土蔵、離れ座敷、米蔵、小屋等が配置されていたが、取り壊されて現在は空き地となっている。
鈍穴(どんけつ)流の庭園。外村宇兵衛邸。
屋敷の庭は、通称を鈍穴(どんけつ)とよばれた名作庭家・勝元宗益作庭の庭園で、作庭当時神崎郡一番と評された。庭園を飛び石づたいに足を運ぶと、石灯籠や池泉が密度の濃い空間を作っている。
勝元鈍穴(1810~1889年)は、幕末から明治前期の作庭家で、文化7(1810)年、近江坂田郡勝村(現滋賀県長浜市勝町)に生まれ、通称は源吾と称した。勝村は勝海舟の勝家発祥の地とされる。
茶道遠州流中興の立役者と言われる坂田郡国友村の辻宗範の門人となり、茶道・南画・和歌・築庭などを学んだ。茶道では宗益、築庭では鈍穴と号し、茶道・南画・俳句・和歌・狂歌・華道・礼法・築庭から医術に至るまで諸道に通じ、芸術的天才の面を大いに発揮したと伝えられ、特に築庭に才を発揮した。
30歳の頃から、東は常陸・西は丹波・北は加賀・南は河内を遊歴し、その間に頼まれるままに527ヶ所の庭園を築いたとされる。晩年は、五個荘町金堂に定住し、明治22年(1889年)に没した。終生独身であったため子孫はいないが、育成した門弟は数千に及ぶといわれ、著書「造庭伝」3巻は、今なお築庭における貴重な文献とされている。
五個荘金堂の外村繁邸・中江邸や長浜市、神崎郡・蒲生郡の旧家・社寺の庭園には、勝元鈍穴が築いた庭が今もあり、俗に「鈍穴の庭」といわれている。
渓流に樹木が茂った中島を組み合わせる様式は近江坂本里坊の庭園によくあるが、大がかりになっている。
鯉が泳ぐ池の水が濁っているのは、田植えの影響という。
渓流池泉式の庭が隠れるように存在していたのには驚かされた。
鈍穴(どんけつ)流の庭園。外村宇兵衛邸。
井戸・灯籠・茶室が配置されている。
裏から一周して主屋の入口へ戻ってきた。
外村宇兵衛邸を出て、外村繁邸へ向かった。