和気清麻呂公銅像。岡山県和気町。平成
26年5月13日(火)前半。道の駅「黒井山」から和気町へ向かったが、自動車専用道などで道を間違い、昨日見学した三石に来てしまった。これも奇貨と受け止め、三石城山の写真を撮影した。和気神社・歴民付近は川と公園があり、道路西の駐車場に駐車して、橋を渡り、和気清麻呂公銅像が立つ神社手前の公園に来た。道鏡事件で知られる和気清麻呂の銅像は、高さ4,63mの青銅製で、原型の石膏像は朝倉文夫の作である。紀元2600年奉祝展覧会に出品された後、橿原神宮に献納され、戦後は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館に所蔵されていた。昭和58年、清麻呂公御生誕1250年を記念して、清麻呂公の故郷である和気町に寄贈された。
正面に和気神社が、右側に和気町歴史民俗資料館がある。9時直前だったが、歴民に行くと入場することができた。常設展と地元関連の画家の展示を見学し、和気神社へ向かった。
和気神社。入口。狛犬ではなく狛イノシシが鎮座している。
和気神社。拝殿。和気神社は、古くは和気氏一族の氏神として遠祖の鐸石別命(ぬでしわけのみこと)が祀られ、和気神と称せられていた。後に弟彦王(おとひこおう)、和気清麻呂公、和気広虫姫を祭神に加えた。
和気氏の遠祖垂仁天皇の皇子鐸石別命の曾孫である弟彦王は、神功皇后に反逆した忍熊王(おしくまおう)を和気関に滅ぼした功により、藤野県を与えられて土着し、備前東部・美作にかけて繁栄した。大化改新後は、藤野郡(和気郡)の郡司となった。
弟彦王の12代後裔が天平年間(720~740)の初めに生まれた和気清麻呂公・和気広虫姫である。広虫は采女として先に上京し、清麻呂を呼び寄せたといわれ、清麻呂は奈良の都に武官として出仕、近衛将監となった。神護景雲3(769)年、僧道鏡が皇位を望んだとき、宇佐八幡宮に勅使として神託の真偽を確かめるため派遣され、「道鏡をのぞくべし」という神託を受けて帰京した。激怒した孝謙上皇は清麻呂を大隅に、広虫を備後へ流刑とした。
道鏡失脚後に復官し、桓武天皇の信頼を得て、摂津大夫・民部卿として長岡京の造営、平安遷都の建議と造営にあたった。また、清麻呂は、備前美作両国の国造を兼ね、延暦7年、和気郡の河西に新しく磐梨郡(現赤磐市)を独立させ、農民の便宜をはかった。延暦18年(799)に67歳で没した。
和気広虫は天平宝字8年(764)、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の逆徒の助命を懇願して死刑を流刑に改め、乱後の孤児83名を養子として育てた。これはわが国最初の孤児院の開設であるとされる。
昨年、広虫が配流されていたと伝わる備後の御調八幡宮(広島県三原市)を訪れたことを思い出した。
和気神社。
狛亥(こまいのしし)。日本後紀によると、清麻呂が宇佐八幡へ詣でるとき、妨害しようとする道鏡一党から300頭のイノシシが守ったという。その故事にちなみ、狛犬ではなく、狛亥が拝殿前と隋神門前安置されている。和気神社。本殿。明治
18年建築。棟梁の田淵勝義は関西一の名人といわれ、畿内から備後まで85棟の寺社建築に携わった。神社の南西1㎞にある和気清麻呂顕彰碑へ。
和気清麻呂顕彰碑。顕彰碑は昭和
15年に建立された。この辺りは、和気氏政庁之跡とされ、地名から藤野(和気)郡衙跡に比定されている。実成寺。境内は和気氏の氏寺であった藤野寺跡の一部といわれている。
顕彰碑からJR山陽本線の線路を隔てて南西300mほどにある。
旧大國家住宅に近い和気町役場へ向かい、駐車。
旧大國家住宅。重文。宝暦
10(1760)年に主屋が建てられ、比翼入母屋造の変わった屋根形式を持つ。大國家は戦国時代末に備中からこの地に移住し、酒造業・運送業で財を成した。1階の座敷は御成りの間とよばれ、岡山藩の家老や支藩の藩主が閑谷学校や和意谷の池田家墓所へ向かうさいに宿泊したこともある。
役場からは南西に5分近く歩いた場所にあり、道路向かい側には駐車スペースもあった。
旧大國家住宅。主屋を東側から眺めると、屋根が二つ並んでいることが分かる。
内部見学は事前申請が必要なので、日程に組み込むのは困難。
国道374号線を北上し、美咲町の柵原ふれあい鉱山公園へ向かう。