西麓から眺める三石城跡。岡山県備前市三石。県史跡。
平成26年5月12日(月)後半。岡山県備前市日生から三石城跡へ向かい、旧閑谷学校、和意谷の池田家墓所を見学した。
三石城は、播磨・備前・美作の守護赤松氏の重臣で備前守護代家で戦国大名となった浦上氏の居城である。JR山陽本線三石駅の北西600mの標高297mの城山に築かれた。
三石は、播磨から船坂峠を越えて備前に入る玄関口にあたり、古代には山陽道の駅家、近世には宿場が置かれた要地であった。三石城は元弘3(1333)年、三石保の地頭伊東大和二郎が六波羅探題救援に向かう西国の兵を阻むために築いたと伝えられる。
室町時代には守護赤松氏が重臣浦上宗隆を三石城に配置した。応仁の乱後は浦上氏が赤松氏をしのぐようになり、宗隆の5代後の浦上村宗は主家赤松義村と対立し、大永元(1521)年に、村宗は義村を殺害し、備前東部と播磨西部を支配する戦国大名となった。現在確認される城構えは、村宗によって築かれたといわれる。
しかし、村宗が没すると、家督争いの末、兄の政宗が播磨の室津城に移り、弟の宗景が享禄4(1531)年に備前和気の天神山城に居城を移したため、三石城は廃城となったとされる。
三石城跡。登城口。三石郵便局北西にある。三差路の空き地に駐車。西
100mに登城口への入口看板がある。山方向へ階段を登ると、左の民家に案内図と説明看板があり、リーフレット「三石城の栞」を入手できる。12時50分に登城を開始し、本丸から下って13時40分に帰着した。登る頃から雨がパラパラし、帰った頃には本降りになり出した。
三石城跡。大手門跡の石垣。本丸までの登城道は整備されて、迷うところはない。民家先にある登城口から、急峻な尾根道を登るとすぐに、第
2見張所がある。さらに尾根道を登りきり、北方向に水平道を進むと第1見張所への分岐に出る。右に本丸への道をさらに登ると、この城跡最大の見所である大手門跡の石垣が見えてくる。石垣は野面積みで、高さ2~3mに積み上げられている。三石城跡。二の丸跡から本丸跡へ。大手門跡からは、道が右と左に分かれている。左は水平道で搦め手の出丸方向への道らしい。右の道を登ると、三の丸脇の道で、左の水平道が随分下に見えている。さらに進むと、二の丸に至り、頂上の本丸が見えてくる。
三石城跡。本丸跡。登城口から
23分後に到着。本丸の面積は約500坪という。山城にしては広い。居館はあったようだが、構築物の痕跡や瓦も出土していないが、備前焼大甕の破片は出土している。大手門跡からの城跡の規模は大きく、戦国大名浦上氏の勢力を体感できる城跡だった。
本格的な降雨になりそうだったので、本丸から往路を引き返した。
三石城跡。第
1見張所からの眺望。南西方向。本丸跡からの眺望がなかったので、立ち寄ってみた。分岐から2分程度で着く。中央の山を潜るトンネルは国道2号線で、何度も通過している。手前にはJR山陽本線や、旧三石宿の町並みが手に取るように見える。耐火レンガ工場も有名らしい。13時40分に下山。城へは北からの遊歩道もあるが、見所は南にあるので、南ルートを選択した。
夜泣き地蔵の水汲み場。三石。持参した水が底を尽きかけてきたので、かねてネットで調べていた「地蔵清水」で給水しようと、市役所の三石出張所を尋ねた。知らないと言われたが、男性職員が夜泣き地蔵で水を汲んでいるのを見たことがあると思い出してくれたので、立派なエリアマップを呉れて、図示してくれた。出張所前の県道を赤穂市方向へ
5分ほどの峠にあるとのこと。車で向かうと、そのとおりで、すぐに発見でき、雨の中、無事給水することができた。ネットで見ると、三石の西に「清水地蔵」が名水として知られているらしいが、現状ではこちらは飲用向きではないようだ。
旧閑谷学校へ向かう。
旧閑谷学校。国特別史跡。備前市閑谷。寛文
10(1670)年岡山藩主池田光政が、儒学に基づき藩士と庶民の教育のために開いた学校。現在の建物は元禄14(1701)年にまでに、津田永忠が整備した。講堂と校門の手前には、古代中国に倣って池が造られた。池田光政が、「山水清閑にして、読書講学に宜しき地」としてこの地を選定したといわれる。なるほど、山の中の静かな場所にあった。
旧閑谷学校。講堂。国宝。桁行
7間・梁間6間の入母屋造りで、杮葺きの屋根を造った上に、垂木ごとに漆をかけた一枚板を張り、その上に備前焼瓦を載せている。4面とも回縁を廻らしている。旧閑谷学校。講堂。内部。床板張りの大広間には
10本のケヤキの太い円柱が天井を貫いて大屋根を支えている。講堂では一と六のつく日に四書五経などの講釈が行われた。東側の額には「克明徳」と書かれている。花灯窓からの明かりを反射している床は、江戸時代から今にいたるまで、ここに座った生徒たちによって拭き込まれたもの。旧閑谷学校。聖廟。重文。孔子廟ともいわれる。孔子像を安置する大成殿などの建物がある。
旧閑谷学校。石塀。校地の周囲には、総延長
765mの石塀が廻らされている。高さ2m、幅1.8mの蒲鉾型で、南側と東西の石組は切り込みはぎで組まれて、閑谷学校に独特の景観を与えている。旧閑谷学校。講堂から資料館への道。石塀と石垣に囲まれた重厚感のある道である。右の丘は火除山とよばれる人工の丘。丘の西には平生の勉学や生活を送る学舎や学寮があり、火事が起きても東側の講堂や聖廟に延焼させない意図があった。
閑谷学校資料館。国登録有形文化財。明治
38年に私立閑谷中学校本館として、かつての学房跡に建てられた。閑谷学校資料館。展示。釈菜(せきさい)の供物見本。釈菜とは、孔子の徳を称えその霊を祭る儀式であり、現在でも毎年
10月第4土曜日に執行されている。供物は、鶏肉、筍、栗、棗などがある。
閑谷学校資料館。展示。閑谷神社鬼板。備前焼瓦。揚羽蝶文入り。
津田永忠宅跡。国特別史跡。旧閑谷学校の東側に、青少年教育センターがあり、その南側を流れる谷川に沿って、東へ300m
ほど歩くと津田永忠宅跡の石垣群が見えてくる。津田永忠は池田光政に仕え、閑谷学校の建設をはじめ、後楽園の築堤、百間川の開削、新田の開発などの土木事業を手掛けた。
黄葉亭。国特別史跡。文化10
(1813)年に、閑谷を訪れる諸国の文人墨客をもてなすために建てられた茅葺の茶室。頼山陽は翌年にここを訪れ、「黄葉亭記」を残している。谷川が曲がる岩場を利用して建てられている。小学生たちも多く社会見学して歩いていた。
岡山藩主池田家墓所のある和意谷へ向かった。
岡山藩主池田家墓所。国史跡。入口駐車場。備前市吉永町和意谷。岡山藩主池田光政は、菩提寺であった京都妙心寺護国院の火災を契機に岡山へ墓所を移すことにし、津田永忠が探した適地から選んでこの地に造営を命じた。寛文
7(1667)年に造営を着手し翌年に完成した。閑静な山の中を選んだだけあって、ナビではピンポイントでは判明しなかった。そこで、吉永総合支所に立ち寄り、アクセスを尋ねた。リーフレットを貰い、大体の場所と駐車場の存在を教えられ案内標識も随時あると知った。ただ、時刻が16時30分頃で大雨のため暗くなりかけていたので、職員は大丈夫ですかという顔をしていた。こちらは、日程とコースのために、どうしても今日中に見学する決意だった。
和意谷川は平坦だが、道路は狭く路肩の弱い箇所もあった。ナビが陶芸村に近づくと、案内看板があり、右折して坂道を登ると、16時50分頃、立派な駐車場に行き着くことができた。
岡山藩主池田家墓所。入口付近。管理人住宅跡があり、ひと気のする唯一の場所だった。ヘビも見かけた。
ここから長い参道は緩い上り坂になっていて、左右の木が高く連なる箇所は暗い。参道には2千個の踏み石が置かれているが、つるつるしていて、2回ほど滑ってしまった。途中、お茶水井戸があるが、荒廃している。支所でもらった概要図を見ながら、「一のお山」をめざし、山城の郭に入るような感覚で、標高350mの山頂付近にある「一のお山」の墓所に到着したのが、17時10分。
岡山藩主池田家墓所。「一のお山」。池田光政の祖父・池田輝政の墓。顔がシカ、体がカメという亀趺という亀の形に刻んだ台石の上に高さ
2.7mの墓碑を載せている。墓碑の上部には「天禄辟邪」という鹿に似た獣の絵が彫られている。墓碑の横には塚がある。池田輝政は姫路城在城中に逝去、播州に埋葬後、妙心寺護国院に埋葬されていた。
道を戻って「三のお山」へ。
岡山藩主池田家墓所。「三のお山」。池田光政と夫人の墓。夫人は本多忠刻と千姫の娘の本多
勝子。塚が二つある、リーフレットの写真によれば、他の墓所も同形式。「二のお山」へ行こうとしたが、道がはっきりしないし、夕方も迫り、暗くなり、雨も止まないので、ここが潮時とした。
17時35分に駐車場へ帰着。本日の宿である道の駅「黒井山」へ向かった。