原不動滝。日本の滝百選。兵庫県宍粟市波賀町原。平成26年5月28日(水)。
岡山県最高峰後山の登山で岡山県の旅を終え、志引峠を越えて、兵庫県宍粟市波賀町原の日本の滝百選「原不動滝」へ向かった。国道から西のアクセス道を進み、終点の門の前で駐車した。舗装道を進み、吊り橋を渡ると、不動尊があり、横に料金所があった。200円を支払うと、遠足がもうすぐ来るといわれ、あわてて遊歩道を登った。吊り橋と階段を経て、滝見用の吊り橋「奥かえで橋」の先端の展望ポイントへ到着。原不動滝。下部と滝壺。落差88mを3段に分かれて
落下する男滝と、男滝の最下段部の滝壺で合流する女滝が左脇にある。原不動滝。「奥かえで橋」から下る。急な階段が多く、途中で休む人を見かけた。
国道を南進し、道の駅「播磨いちのみや」へ駐車し、向かい側に参道がある伊和神社を見学。
伊和神社。宍粟市一宮。播磨国一宮。式内社(名神大社)。主祭神は大己貴神。本来は「播磨国風土記」で活躍をする伊和大神を祀ったが、のちに出雲系の葦原志許乎命(大己貴神)と同化したようである。伊和一族の根拠地は揖保川上流のこの地域と考えられ、「播磨国風土記」によれば、もと宍粟郡の石作里を本拠とし、飾磨郡の伊和里に移り住んだとされる。
揖保川の左岸河岸段丘上に広がる境内には、夫婦杉をはじめ、杉・桧等の大樹が繁茂しており、古代の森の雰囲気が残る。
伊和神社。本殿の裏にある「鶴石」。伝承では、欽明天皇25年
、豪族・伊和恒郷に大己貴神から「我を祀れ」との神託があった。一夜にして杉・桧等が群生し多くの鶴が舞っており、大きな白鶴2羽が石(鶴石)の上で北向きに眠っていたのをみて、そこに社殿を北向きに造営したとされ、現在の社殿も北向きである。伊和神社。鶴石。苔むした岩には鶴の足跡のような穴が開いているかのようだ。
国道を南進し、山崎城跡へ向かった。
山崎城跡。紙屋門。宍粟市山崎町鹿沢。平山城。宍粟市の中心地山崎に初めて城が築かれたのは南北朝時代のことで、町の北の篠の丸山に赤松貞範が篠ノ丸城を築いたという。戦国時代末期の天正12年(1584)黒田官兵衛が
羽柴秀吉から宍粟郡を与えられ、居城したとされる。天正15年(1587)木下勝俊が領主になり、篠ノ丸城の南側、現在の山崎城の場所である鹿沢の地に城を築いたとされている。
本格的な城郭が建築されたのは、元和元年(1615)に池田輝政の子輝澄が山崎3万8千石で入封した後である。
池田輝澄はお家騒動で改易、松井康映、池田恒元・政周・数馬と続き再度廃絶した。延宝7年(1679)、大和郡山から本多忠英が1万石で入り、廃藩置県まで譜代大名の本多氏8代の藩主が続いた。
山崎城跡。絵図。揖保川と菅野川に挟まれた鹿沢と呼ばれる河岸段丘の南半分に築城した。川に面した崖の部分には石垣を築き、その南端に本丸を設置、続いて北側に東西に広がる形で二の丸・三の丸を設置し、その境目には揖保川から引いて構築した堀が巡らされた。更にその北側には武家屋敷、外堀を挟んだ北側には城下町が広がっていた。幕末期の設置とされる表門の紙屋門など一部が残っている。
山崎城跡。本丸跡。本多公園として整備されている。建物は、明治22年に
建てられた龍野治安裁判所山崎出張所を移築したもので、山崎歴史民俗資料館となっているが、通常は立ち入りできない。山崎歴史郷土館。山崎闇斎坐像。江戸時代中期。山崎闇斎は江戸前期の儒学者・神道家で、闇斎の自著では祖父と父親は宍粟郡山崎村出身で。木下家定に仕えたと記して、苗字を山崎としたという。
江戸時代中期には古義学者伊藤善韶が所有していた。吉川英治が文化勲章を受章した昭和35年に吉川から山崎町に寄贈された。
山崎歴史郷土館は宍粟市立図書館の2階にあり、図書館の職員に申し出て見学することができた。
翌日は姫路市北部に所在する雪彦山登山を予定していたので、たつの市新宮町の道の駅「しんぐう」へ向かった。