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メキシコシティ  国立人類学博物館 第11室西部、第12室北部、2階民族学フロア

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チャック・モール像。イワツィオ。ミチョアカン州。後古典期。第11室。西部。メキシコシティ。国立人類学博物館。2014年11月11日(火)。
メキシコ西部地域で発展したタラスコ王国は15世紀中頃に、ミチョアカン州全域とその周辺のグアナファト州・ゲレロ州・ハリスコ州の一部を支配し、アステカ王国と争った。支配者層のプレペチャ人は13世紀初頭にパツクアロ盆地に定住を始め1325年頃に王国となった。その後、パツクアロ、イワツィオ、ツィンツンツァンの三都市同盟の構成となり、うちツィンツンツァンが有力な都市国家として栄えた。タラスコ王国は1530年に滅んだ。
ツィンツンツァン遺跡の竪穴式墳墓は南米ペルーなどの墳墓と似ているという。チャック・モールの顔の線は入れ墨を示しているのかもしれない。
 
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チャック・モール像。ミチョアカン州パツクアロ出土。
チャック・モール像にも多くのバリエーションがあると知った。
 
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第12室北部。サンフランシスコ山地の岩絵。南バハ・カリフルニア州。赤・黒・白・黄の4色で描かれている。動物の群れと豊穣の象徴であるシャーマンの女性と鹿の神が描かれている。赤と黒の使い分けは生と死と再生という対照的な概念を表現している。
 
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世界遺産パキメ遺跡の復元住居。古代都市パキメ
はメキシコ北東部のチワワ州にあり、カサス・グランデス川沿いの開けた肥沃な渓谷に位置し、北米のプエブロ文化とメソアメリカの先住民文化の交流を示す。パキメは交通の要衝として、また塩や鉱石の産地として、現在の米国ニューメキシコ州の辺りに住んでいたモゴヨン人が南下して8世紀頃から発展し、14世紀頃に最盛期を迎え、人口は1万人に達したと推測されている。
11世紀半ばか12世紀半ば頃までは、アドベ(日干しレンガ)を使った草葺き屋根の竪穴住居で暮らしていた。その後、14世紀頃までに集落は飛躍的に拡大し、アドベを使ったアパートのような区画割された住居群が建てられるようになった。屋根には松の板や泥を使ったものになり、壁は白く塗られるか彩色されるかして仕上げられるようになった。
入り口は頭でっかちなT字型で、下端が上端よりも細く狭まっている。この奇妙な形は外敵の侵入を警戒した結果とされている。
最大の集落は今日パキメないしカサス・グランデスとして知られている一階建てのアドベの住居には、共同の水利システムが存在していた。
アドベの建築物は北米のプエブロ文化との共通性を感じさせるものであり、よく似た遺跡は、米国ニューメキシコ州のヒラ やサリナス・プエブロ近郊のほか、コロラド州にも残っており、いずれもモゴヨン文化のグループに属するものである。他方でメソアメリカ式の球戯場やケツアルコアトルの図像なども見付かっており、幅広い文化的影響が反映されている。
 
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テネク・ワステカ族の年長者の家。2階。民族学フロア。
テネク・ワステカ族の年長者の家。メキシコ湾岸北部地域。サン・ルイス・ポトシ州。
壁は木を編んでいるが、一部は荒土でできている。
ワステカ族(テネク・マヤ)はメキシコ中東部、ベラクルス州北部とサン・ルイス・ポトシ州北西部に居住するマヤ語系の民族集団で、言語はマヤ・トトナカ語群に属し、マヤ文化の北限にあたる。紀元前1500年ごろ南方から移住し、前2世紀から後8世紀にかけて古典期文化を開花させた。
アステカやスペイン人の侵入により海岸の肥沃な地帯から内陸部へ追いやられた。
 
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テネク・ワステカ族の年長者の家。内部側。メキシコ湾岸北部地域。サン・ルイス・ポトシ州。中央の卓上には花輪が飾られている。
伝統的な政治・宗教組織はほぼ消滅しているが、一部で長老会議が勢力を保っている。宗教はカトリックで、祭りの際には多くの民族舞踊が演じられる。
 
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2階。民族学フロア。先住民の住居。
 
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2階。民族学フロア。
 
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2階。民族学フロア。

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2階。民族学フロア。
10時50分頃に入館し、14時45分過ぎに博物館を出た。疲れ果てたので、2階の展示はざっと見ただけだった。博物館の前庭に腰掛け、持参の羊羹を食べて昼食とした。
この地区にある近代美術館とチャプルテペック城を今日中に見学するべく、まず近代美術館へ向かった。

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