チャプルテペック城。内部。メキシコシティ。
2014年11月11日(火)。城の内部は国立歴史博物館として公開されている。スペインの侵略以後の植民地時代、独立戦争、アメリカの侵略戦争、フランスの侵略戦争、フアレス大統領の改革政治、ディアス大統領の独裁政治、そしてメキシコ革命と歴史を追って展示がある。
オゴルマン、オロスコ、シケイロスなどの歴史を描いた壁画もある。マキシミリアン皇帝(在位1864~67年)やディアス大統領に関連した部屋、美術品、家具などが展示公開されている。
入口・順路が分かりづらく、西側1階から入場したら最後に入る部屋だといわれたので、2階に上がった。
西側2階の踊り場にある壁画。今回の旅行で最初に見た壁画だった。誰のどういう作品か調べたが確証は得られなかった。画題の中心は上部中央の白馬に乗る紳士である。
この画題は同じくチャプルテペック城にあるというファン・オゴルマンの壁画「公正な選挙と(ディアスの)再選阻止」で描かれているフランシスコ・マデーロ大統領(在任1911~1913年)を描いたものと似ている。
美術品の間。フランス風の豪華な部屋。
ポルフィリオ・ディアス大統領は、フランス好みで、ロシアからのマラカイトの石でイタリア製のものをフランスから仕入れたという。
ディアス長期独裁体制時代は1876年から1911年までの約35年間続いた。軍事力を背景にした「ディアスの平和」とも呼ばれることになるメキシコ史上初の長期安定を実現した。
ディアスは実証主義を信奉するシエンティフィコ(科学主義者)と呼ばれるエリートを登用し、権威主義体制の下でフアレス政権から続いていた国家の近代化=西欧化が推進された。
積極的な外国資本の導入が行われ、工業化が進み、銀、銅、石油の開発を軸に進んだ鉱山の開発、鉄道の敷設、輸出作物用のプランテーションの建設などが外国資本によって行われ、経済は発展した。
ディアスは経済の発展や治安の回復を実現したが、他方で農村部は大きく疲弊し、労働者は困窮した。外国資本の進出による工業化やプランテーション大農園の成立によって、多くは奴隷的零細賃金労働者としての厳しい生活を強いられることになった。このため、インディオの反乱や労働争議が相次いだが、それらの殆どは軍隊によって弾圧された。また、1892年の鉱山法によって地下資源の国家所有の原則が見直されると外国資本が鉱山開発に殺到し、1910年には国内の鉱山の3/4が外国人の所有となったように、経済の体質が非常に従属的かつ脆弱なものになった。
ディアス体制は経済拡大によってメキシコ史上初めての長期安定体制を築いたが、他方では大多数の民衆や労働者は植民地時代以来の貧困状態に置かれており、独裁制への不満を背景に、1906年に中産階級と労働者階級によってディアス独裁の打倒を目指す蜂起が起き、メキシコ革命へと時代は移った。
北東側の塔を望む。
イダルゴ神父に関連した展示。
告解室。18世紀。箱時計。18世紀。ミゲル・イダルゴ・イ・コスティージャ(イダルゴ神父)の肖像画。アントニオ・セラーノ画。1931年。洗礼用聖水盤。18世紀。
壁画「レフォルマと帝政の瓦解」。オロスコ。
1948年制作。ベニート・フアレスを描く。
フアレスは、先住民族から選出された初のメキシコ大統領で、1861~63年、1867~72年に大統領を務めた。フアレスは最も敬愛されるメキシコの指導者であり、「建国の父」とよばれる。
レフォルマの時代は1855年から1867年までをさす。
自由主義に基づいた「レフォルマ」と呼ばれる改革が行われ、保守勢力の後ろ盾となっていたカトリック教会と国家の政教分離、司法制度の近代化、法の下での平等を実現し、教会財産の没収、さらに自由主義的な憲法の制定などが行われた。
このレフォルマはメキシコ社会に大きな影響を与え、近代的な価値観がメキシコにもたらされたが、先住民共同体の解体やカトリック的価値観の喪失を伴ったため、既存の保守派の猛反発が起きて、1856年から保守派との内戦となる。結果的には、自由主義が勝ってフアレスが1861年に大統領となった。
フアレスが英仏へ債務不履行を宣言すると、1861年からイギリス、フランス、スペインがメキシコへ武力介入し、フランス第二帝政のナポレオン3世はメキシコ全土の占領を計画して、1863年メキシコシティを陥落させた。
ナポレオン3世はオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟マキシミリアンをメキシコ皇帝として送り込み、第二次メキシコ帝国が樹立した。しかし、普仏戦争の勃発により1866年フランス軍の撤退が決定されると後ろ盾を失った皇帝マキシミリアンは自由派軍に敗れて銃殺され、メキシコ帝国は崩壊し、フアレスが帰還してメキシコに共和制が復活した。
ゴンサレス大統領の時代。1880~84年。ディアスの腹心の部下で、実権はディアスにあった。
鉄道は1873年にベラクルスからメキシコシティへ開通していたが、1884年に中央高原からアメリカ・テキサス州のエル・パソ方面へセントラル鉄道が開通したのを始めとして、ディアスの時代に1万9千kmの鉄道網が完成した。
陸軍の近代化。
陸軍長官の軍人レイエスはディアス大統領の側近で、シエンティフィコ(科学主義者)とよばれた合理主義を追求するグループの一員であった。
マキシミリアン皇帝の馬車。
1864年頃、イタリア・ミラノのチェーザレ・スカラ社製。バロック様式。銀とブロンズで縁取られ、子供と天使の彫像、メキシコ帝国の紋章、「権利の平等性」という標語で飾られている。
1864年当時マキシミリアンは32歳、妻のカルロタは22歳の若さで、チャプルペテック城で繰り広げられる華麗な生活と若き皇帝夫妻の洗練された立居振舞はメキシコ人に強烈な驚きと憧れを呼び起こした。また、マキシミリアン自身は自由主義寄りの政治思想を持ち、保守派と教会勢力と対立した。
マキシミリアンはチャプルペテック城から市内へ通る道路を建設する。現在のレフォルマ通りであるが、建設当初は皇后通りとよばれていた。
桂冠の形をした金冠。ルビー・ダイヤモンド・エメラルドを伴う。「共和国を救い、独立を強固にしたベニート・フアレスへ。1867年7月14日。」という刻銘がある。
マキシミリアン皇帝への勝利を記念したもの。
マキシミリアン皇帝の読書・執筆室。マキシミリアン皇帝はオーストリア海軍少将の軍歴を持ち、チャプルペテック城をミラマール(海景)とすることを願い、ミラヴァジェと名付け、テラスの部屋を読書と執筆の部屋とした。
食堂。マキシミリアン皇帝時代からディアス時代にかけての調度。
このあと、塔と屋上庭園へ。