神明塚古墳。前方部。沼津市松長上ノ段。
2016年4月25日(月)。沼津市文化財センターを10時30分頃に出て、近くのJR片浜駅東200mにある神明塚古墳へ向かった。場所は分かるが、県道から北へ入る道が狭くて苦労した。
この古墳は、市内で残っている3つの前方後円墳のうちでも最大級のもので、全長は54m、後円部直径35m。市内でも古く、古墳時代前期3世紀末のものである。後円部には神明宮が祭られているところから神明塚古墳と呼ばれている。
周囲には堀がめぐらされているが、前方部の周りが崩れており、堀も大半は埋没してしまっている。後円部の方が前方部より高くなっており、やや古い形をしている古墳である。
神明塚古墳。後円部の神明宮下階段から。
年代的には高尾山古墳の次代の王墓であろうか。
長塚古墳。沼津市東沢田長塚。
市内に残る前方後円墳のうち、最も完全な形状をとどめている。被葬者は古代スルガ国の支配者の一人(愛鷹山麓とその周囲を支配した首長)であるとされている。
高尾山古墳の北西に位置する。
長塚古墳。
右に後円部があり、左の前方部から墳頂へ登ることができる。
後円部墳頂に埴輪列が発見されるとともに、周溝南中央部からは、古墳の構築とほぼ同時期のものと推定される祭祀跡が検出され、供献された土器から古墳の造営も6世紀前期と推定されるに至っている。
長塚古墳。墳丘実測図。沼津市文化財センター。
全長54m、後円部直径31m。
長塚古墳。墳頂部。
埋葬施設は盗掘により破壊されていたため不明確であるが、板石片がかなり検出されたため、組み合わせ式箱型石棺が埋納されていたものと推定された。
墳頂部からは駿河湾が眺められた。静岡市清水区にある薩埵峠(さったとうげ)へ向かう。
薩埵峠。
峠からの富士山と駿河湾の景色は、歌川広重の「東海道五十三次絵図」にも残されるほどの絶景である。
国道1号バイパスから「興津IC」を、国道52号方面(山梨)へ進んで、狭い道を薩埵峠展望台駐車場へ向かった。
12時過ぎに到着したので、モヤっていたが、富士山はくっきり見えた。
薩埵峠。案内板。
このあと、静岡おでんを食べようと、静岡市駿河区丸子の「ばん」へ行ったが、チェック不足のため定休日だった。近くの人に尋ねると、マックスバリュー横のそば屋にあるというので、おでんを食べた。抽選をやっていて、くじを引いたら、1等賞だった。食べ放題券だったが、旅行者なのでレトルトカレー3個に代えてもらった。くじ運を使い果たしたような気分にもなった。
その後、浜松市天竜区の二俣城へ向かう。
二俣城。大手門。
階段の両側に野面積みの石垣が良く残る。
天正7年(1579)9月、織田信長の命により、徳川家康の長男信康がこの二俣城で自刃したことで知られる。
二俣城は、戦国時代今川氏により築城され、のちに武田・徳川軍の攻防の舞台となり、武田軍の修築を経て、豊臣方の堀尾氏が在城の頃、天守台を始め諸施設が構築された。関ヶ原の戦い以後、徳川の天下となり、城としての必要がなくなったため、まもなく廃城となった。遺構として、本丸、二の丸、天守台、大手門、そして蔵屋敷などが残されている。
二俣城。本丸・天守台。
二俣城は天竜川と二俣川に挟まれた城山と呼ばれている小山に築城されたもので、本丸の標高は約80m、比高約40m。山を階段状に削り取り、本丸、二の丸のほか、外曲輪、北曲輪、南曲輪、蔵屋敷が配されていた。
戦国時代の初めに、駿河の今川氏が遠江の斯波氏と争った際に、今川氏が拠点となる城館(笹岡古城)を築いたのがその起源ではないかとされる。その後、今川義元の治世に、被官の松井氏が天龍川を見下ろす場所(現在の城址)に城を築いたと推定されている。しかし、築城年・築城者は特定されていない。城主の松井宗信は、1560年(永禄3)5月の桶狭間の戦いで、当主の義元とともに討死し、その子松井宗恒が跡を継いだ。
1569年(永禄12)、今川氏が甲斐の武田氏と三河の徳川氏によって滅ぼされると、城主の松井氏は武田信玄に従属したが、信玄と敵対した徳川家康の攻撃を受け降伏・開城、その後、徳川氏の城となった。家康は二俣城に鵜殿氏長、次いで中根正照を城代として配置し、武田氏の攻勢に備えた。1572年(元亀3)10月、信玄は上洛を目指して甲斐を発ち、信濃から三河に侵攻。中根正照の守る二俣城は武田勝頼を大将とする武田の軍勢の攻撃を受けた。武田勢は城の峻険さと徳川勢の防戦に攻めあぐねたが、水の手を断ったことから形勢が動き始め、籠城する徳川勢は戦意を失って落城した。二俣城を落城させた武田軍は西上を開始、同年12月23日には、浜松城から出撃した家康勢との間に三方ヶ原の戦いが起こった。陥落した二俣城には武田方の依田信蕃が城主として入城した。信玄の死後、家康は城の奪還を開始したが二俣城は持ちこたえ、その間に、武田勝頼により高天神城(掛川市)を奪われる事態も起こっている。
武田氏が1575年(天正3)5月21日の長篠の戦いに敗北すると、家康は攻勢を強め、諏訪原城(島田市)を落城させて二俣城に迫った。武田方の城兵は城をよく守ったが、同年12月24日、城将の依田信蕃は徳川方の開城勧告を受け入れ、城を明け渡して駿河の田中城(藤枝市)に撤退した。
城を奪還した家康は大久保忠世を城主として配置し、城の大規模な改修・改築工事を行った。その後、二俣城は何度か武田氏の攻撃を受けたが、落城することはなかった。家康は正妻・築山御前と嫡男の信康が武田方に内通したとして織田信長から処罰を迫られ、築山御前が殺害された後、信康は二俣城に幽閉され、その後切腹している。
1590年(天正18)、家康が関東に移封になると、浜松城には堀尾吉晴が入城し、二俣城はその支城となったが、1600年(慶長5)に城主の堀尾氏の出雲転封に伴い廃城となった。
二俣城。本丸・天守台。
石垣が使われた天守台は、徳川氏が武田氏と対峙していた天正年間(1573~93年)に大久保忠世によって築かれたと推定されている。
二俣城。本丸・天守台。
北には天竜川の流れが見える。
二俣城。枡形虎口。
北曲輪へ通じている。
鳥羽山城へ向かう。天竜浜名湖鉄道の踏切を越えて、鳥羽山城公園の駐車場へ。
鳥羽山城。大手道。
鳥羽山城は、天正3年(1575)6月、徳川家康が武田方の手にあった二俣城攻略の時に本陣を構えた付け城である。その後、整備・拡張され二俣城と別郭一城の城として機能し、堀尾氏時代には迎賓館機能を備えた領主の居館であったと推定される。二俣城と同時期に廃城となったと考えられている。
大手道の幅は6mを超える広さであった。
鳥羽山城。本丸南虎口。大手門跡。
西側前面石垣には排水溝が設けられている。
鳥羽山城。本丸跡。
鳥羽山城。案内板。
鳥羽山城。本丸内の枯山水庭園跡。
鳥羽山城。本丸東門跡。外側から。
外枡形の構造をしている。野面積み石垣の基部には排水溝が設けられていた。
鳥羽山城。本丸西の休憩舎からの眺望。
天竜川と天竜浜名湖鉄道の橋梁。三方が原と浜松城方面への眺望が広がる。
東の搦め手方向へ歩いたが、樹木に遮られ二俣城を望むことはできなかった。
17時になったので、道の駅「天竜相津」へ向かった。