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沼津市文化財センター ガラス勾玉の鋳型、唐三彩陶枕など

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旧石器時代の黒曜石。沼津市文化財センター。
2016425日(月)。
手前右から、神津島、天城、諏訪、和田。奥右から、箱根、蓼科、和田。
32000年前から愛鷹山麓に人々が生活しはじめた。石器の中でも黒曜石は非常によく使われ、沼津市内の遺跡から発見された黒曜石の産地は、遠く各地におよんでいる。神津島は伊豆半島から40㎞も離れており、黒曜石が海を渡って持ち込まれたことが分かる。
 
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国内最古に属する石器。
沼津市内では、第2東名NO.25など4カ所の遺跡から、約38000年前に遡る国内最古の石器群の一つに数えられる石器が30点余り出土した。
 
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旧石器時代の落し穴を使った狩り。
愛鷹・箱根山麓では約27000年前に作られたとみられる落し穴がたくさん見つかっている。イノシシやシカが狩猟対象であったと推定されている。
 
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旧石器時代の落し穴。第
2東名No.27地点。
落し穴は、直径1.4m、深さ1.5mほどの掘り込まれ、底が平らなバケツのような形で、土掘具が発達していないにもかかわらず、硬い土を掘り抜いて作られていた。
 
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縄文時代中期前葉の土器。
中見代第Ⅰ遺跡。藤内式土器。
 
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縄文時代中期前葉の土器。
長井崎遺跡。五領ヶ台式土器。
 
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弥生時代の木製農具。多又鍬。小形鍬。雌鹿塚遺跡。
浮島ヶ原の低湿地に営まれた雌鹿塚遺跡からは、様々な木製品が出土した。
 
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弥生時代の弓、剣形木製品。雌鹿塚遺跡。
 
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ガラス勾玉の鋳型。植出北Ⅱ遺跡(第二東名
No.5地点)。
植出北Ⅱ遺跡ではガラス勾玉を作るときに使用する土製の鋳型が発見された。弥生時代のガラス勾玉の鋳型は発見例が少なく、これまでは九州、山口、大阪の西日本でのみ確認されていた。植出北Ⅱ遺跡の鋳型は東日本では初めての発見となった。
 
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弥生時代の石器。尾壱遺跡。
尖頭器。石鏃。掻器。削器。楔形石器。
 
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弥生時代の石器。尾壱遺跡。
石核。石匙。石錘。磨製石斧。
 
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静岡県東部~中部の主な古墳。                       (拡大可)
 
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古墳時代後期の出土品。鉄鏃。石川古墳群。
石川古墳群は、浮島ヶ原低地に面した愛鷹山麓に位置する古墳時代後期(6世紀後半から7世紀中葉)の古墳群で、谷に沿って南北に146基が確認されている。
 
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唐三彩陶枕。上ノ段遺跡。
上ノ段遺跡は沼津駅北口付近に広がる7世紀から8世紀頃の遺跡である。
陶枕の発見は全国で20ヶ所目、静岡では2ヶ所目の発見であったが、全体が復元された唐三彩陶枕は国内でも3例ほどしかない。
陶枕は上面を6㎜ほど凹面にして、中央に唐花文、四隅に対葉文を型押しした、縦横12.4㎝×9.9㎝、高さ5㎝の美しい姿をしている。
8世紀前葉から中葉の時期に、中国から都を経て、この地にもたらされたと思われる。枕としては小さいので、文字を書くときの腕支え具、文鎮、経巻の台座など文房具として使用されたと考えられる。
 
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墨書土器。上ノ段遺跡。
「保」という墨書が残る。
 
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国史跡・長浜城跡復元俯瞰図。
この城郭は、戦国時代関東一円を治めた後北条氏の水軍根拠地、重須湊を守るための城と考えられている。
北条氏は三崎や浦賀を根拠地とする三浦水軍を組織し、江戸湾から里見氏の勢力を駆逐する一方、義元亡き後の駿河に侵入してきた武田氏に対しても、伊豆の水軍を組織しその脅威に備えた。その伊豆における北条水軍根拠地の一つが、この重須湊・長浜城である。
天正7年(1579)には北条水軍の事実上の統括者である梶原備前守が長浜城におかれ、翌天正8年(1580)、武田・北条両氏水軍による駿河湾海戦が行われた。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより、長浜城は再び緊張状態におかれた。しかし、北条方の小田原籠城策に呼応し、水軍の主力も小田原の川岸に集結したことから、長浜城は水軍基地としての機能を失い、韮山開城と共に廃城となったものと考えられている。
 
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長浜城跡・航空写真。
長浜城は通称城山と呼ばれ、以前は三井家の別荘が建っていたが、昭和40年代に取り壊された後は荒れるにまかされていた。市教委による調査が実施され、4つの曲輪と15の腰曲輪の他、曲輪上の土塁跡や6基の掘切等が確認されている。曲輪の一つ一つは小規模であるが、戦国時代後半の特徴的な防御構造を見ることができる。
平成26年度に整備が終了し、約400年前の姿が復元された城跡が公開されている。
 
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国史跡・興国寺城跡。発掘調査状況。
興国寺城は、戦国時代に関東一円を支配した後北条氏の祖である伊勢新九郎長氏(北条早雲)の旗揚げの城として名高い城である。
その後、興国寺城は戦国大名の争いの渦中におかれ、今川氏、北条氏、武田氏、豊臣氏、徳川氏の勢力下となり、慶長6年(1601)徳川家康の家臣天野三郎兵衛康景が1万石の城主となる。しかし康景は家臣をかばい自ら逐電してしまったため、慶長12年(1607年)興国寺城は廃城となった。
興国寺城は、北から北曲輪、本丸・二の丸・三の丸と呼ばれる平場が直線に造られ、東側には清水曲輪と呼ばれる曲輪(城の中に造られる平場)が配されている。
沼津市は現在も整備に伴う発掘調査を継続して実施しており、史跡公園としての活用を検討している。

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