沼津市・高尾山古墳。前方部から。
2016年4月25日(月)。
24日(日)に横浜の兄の家で法事を終え、道の駅箱根峠で車中泊。早朝、国道1号を西に進んで、江原公園交差点を北に入るとすぐ右側に高尾山古墳が見えた。駐車場はないので、民家前の空地に駐車した。
昨年あたりから、保存問題が新聞紙上を賑わしていたので、いつか見学しようと思っていた。
沼津市・高尾山古墳。
埋葬者は、初めて東駿河一帯を支配した人物「スルガの王」と評価されている。高尾山古墳は駿河では最も古い古墳であり、その主は東駿河の大部分を支配していたという見方が大勢となっていることから、沼津市教育委員会では初代の「スルガの王」と紹介している。
沼津市・高尾山古墳。後方部から。
前方後方墳である高尾山古墳の築造は西暦230年頃、埋葬は250年頃。
平成26年度の追加試掘調査において、墳丘内部から出土した土器は、西暦230年頃のものに限られていた。また、主体部(埋葬施設)で出土した副葬品は250年頃のものであった。この結果から、沼津市教育委員会では、高尾山古墳は230年頃に築造され、250年頃に埋葬が行われたという見解に至った。
卑弥呼の墓とされる箸墓古墳よりも古い。卑弥呼の墓と推測されている箸墓古墳(奈良県桜井市)は、初めての定型的な古墳とされ、この古墳の成立をもって、古墳時代前期が始まるとされる。箸墓古墳は西暦250年頃に築造されたと考えられていることから、高尾山古墳はこれよりも古い時期に造られたことになる。
これまで、地方における古墳の築造、つまり弥生時代から古墳時代への移行は、卑弥呼の墓という説がある箸墓古墳が築造されてから後のことと考えられてきた。しかし高尾山古墳は箸墓古墳より少し前に築造されており、畿内に統一的王権が成立する以前に、東日本においても独自に古墳時代へ移行しつつあったことを示している。
230年頃に築造された高尾山古墳は東日本では最古級であり、初期期古墳としては最大級の古墳で、同時期の東日本において全長60mを超えるような古墳は、長野県松本市にある弘法山古墳のみである。
「駿河」というと、いま多くの人は静岡市周辺をイメージするが、かつては沼津周辺に中心地があり、それは駿河国から伊豆国が分国された頃(西暦680 年)まで続いた。高尾山古墳は、後に駿河国を形成することになるこの地域の、最初の政治的統合を示す重要なモニュメントである。
また、畿内勢力と対立する勢力の存在を示唆する古墳として重要である。出土した土器の中には、山陰、近江、東海西部などから運ばれた土器が多く含まれているが、近畿地方の土器はまったく出土していない。これは高尾山古墳の主が、畿内勢力(邪馬台国)と対立する勢力狗奴国に与していることを示す、という説を唱える一部の研究者もいる。
なお、翌4月26日に見学した浜松市北区引佐町井伊谷にある「井の国の王墓」北岡大塚古墳と、2008年3月に見学した愛知県犬山市の「邇波氏の王墓」東之宮古墳も前方後方墳で地域の首長墓である。http://blogs.yahoo.co.jp/yuuutunarutouha/22097773.html
沼津市文化財センターで高尾山古墳の出土品などが展示されていることを調べていたので、片浜小学校近くの文化財センターへ向かった。古墳南端はY字路になっており、通勤ラッシュ時であったので、江原公園交差点への取り付き道路へ進入するのに苦労した。
9時過ぎに、地区センターの駐車場に着き、北隣の文化財センターに行き、窓口で申告して展示室に入場させてもらった。
男性職員が10分ほど相手をしてくれた。ネットでも存在が分かりづらかったというと、耐震施設ではないので、積極的にアピールできないとのこと。市立明治史料館に増設する構想があるという。
地元の住民は古墳の存在が道路通行上の障害になっているので、保存など考えてもいないという。
私は国史跡指定の上、現地は歴史公園化を要望しておいた。
調査報告の小冊子は品切れになっているので、CD-R版を無料頒布してもらった。
高尾山古墳の立地。
高尾山古墳は、愛鷹山南麓に放射状に広がる尾根の末端、標高約20mの場所に築造された。墳丘上に立つと、今は沼津の市街地となっている平野が眼下に広がり、さらに南に駿河湾を遠望することができるという。かつて田子の浦を湾口として奥駿河湾に形成された「浮島湖」は、この頃には淡水化が進んで浮島沼となっていた。しかしアシやヨシを縫うように進めば、古墳の南西2~3㎞の地点までは、舟で到達することができたと考えられている。
高尾山古墳の想定図および規模。
古墳の形状は前方後方墳で、規模は全長が約62.2m(前方部:約30.8m 後方部:約31.4m)、最大幅は約34m、墳丘高は後方部が5m 、前方部は1mと推定される。
埋葬施設の復元。
墳丘上に掘り込んだ舟形の墓坑に、木の棺を直接埋める「木棺直葬」と呼ばれる埋葬方式で、石室はない。木質部は腐朽してほとんど残っていなかった。
木棺の形状は舟形木棺、規模は長軸(東西)約5.1m×最大幅約1.3m。木棺の底面に朱(水銀朱)を敷いていた。
主体部の朱。
主体部遺物出土状況。
副葬品。
鏡を除いた副葬品では、装身具は勾玉1点のみで、その他は鉄製の武具及び工具となっている。
青銅鏡(獣帯鏡、後漢製)1面。埋葬時に意図的に割られている。勾玉1点、鉄槍2点、ヤリガンナ1点、鉄鏃32点。
副葬品のレプリカ。
出土した鏡(中国鏡)や高価な朱は、高尾山古墳の主の経済力の高さと交易範囲の広さを示している。装身具(アクセサリー)は勾玉のみで、槍、鉄鏃などの鉄製の武具が大半を占めていることから、埋葬者は武人的性格が強い人物と推定される。
高尾山古墳から出土した土器群。
墳頂部をはじめ墳丘盛土および周溝から多数の土器が出土した。これらの中には地元の土器(大廓式)のだけでなく、北陸系、近江系、東海西部系といった外来系土器が一定量含まれる。なお、畿内系の土器は出土していない。
高尾山古墳から出土した土器群。
出土した土器は、場所によって時期差があり、これは古墳築造、埋葬、祭祀儀礼などが行われた時期の違いを示しているものと考えられる。
墳頂部からは築造時及び埋葬時の230年頃と250年頃の土器が出土。墳丘盛土からは墳丘築造時230年頃の土器に限定される。周溝内からは祭祀儀礼が行われた230年頃から250年以降のものまでが出土した。
高尾山古墳から出土した土器群。
東海西部系。ヒサゴ壺、パレススタイル壺。
高尾山古墳から出土した土器群。
東海西部系。S字甕、くの字甕。北陸系。5の字甕。近江系。
S字甕については、東海地方最大の弥生集落である朝日遺跡で見学した。
高尾山古墳から出土した土器群。
東海西部系。器台。
高尾山古墳から出土した土器群。
東海西部系。高坏。
高尾山古墳の展示以外にも旧石器時代から中世までの考古資料が展示されている。