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町田市 本町田遺跡 顔面把手 藤沢市 遊行寺 踊り念仏

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復元された縄文時代前期と弥生時代中期の住居。本町田遺跡(東京都指定史跡)。
2016423日(土)。
町田市の武相荘見学を終え、時間があったので、近くに史跡がないかとトリップアドバイザーで調べると、本町田遺跡がでてきた。町田市立博物館に隣接しているので、博物館を目指して車を走らせた。
本町田遺跡は1967年から1968年に団地造成にともなって発掘調査が行われ、縄文時代前期(およそ5500年前)と弥生時代中期(およそ2000年前)の集落跡が発見されて史跡保存された。縄文、弥生時代の住居各1軒が復元され内部も見学することができる。
 
本町田遺跡公園は201112月に改修されたが、その過程で縄文時代中期(およそ5000年前)の土器・石器が発見され、新設されたガイダンスルームに展示されている。
 
公園の奥は崖になっており、崖下から湧く湧水が立地の決め手となっていた。
 
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弥生時代中期の住居。内部。
炉の遺構と吊るし棚。魚や肉などを燻製にして保存していた。
 
縄文と弥生住居の違い。
縄文の主柱は先端が分かれた叉木に横木を蔓で縛って固定。弥生は木材を加工し、主柱にほぞを開けて横木を組みこんでいる。
壁は縄文は枝を編んだ壁、弥生は板を立て込んだ壁。
 
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顔面把手。縄文時代中期。
顔面把手付深鉢形土器は、長野・山梨など中部高地の縄文時代中期中葉に見受けられる土器で、口縁部に人面を型どった把手が付けられて装飾されている。
土器の口縁につけられた顔面把手と、土器本体に描かれた人体のような文様と人面文様は、今まさに子供が生まれ出る瞬間を表現していると考えられ、魂の再生と新たな誕生を象徴しているとされる。
本品はその一部の顔面把手の部分だけであり、しかも形式化が進んだためか顏が描かれていないという特徴がある。
 
 
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獣面把手。縄文時代前期。
縄文時代前期の獣面把手はイノシシを模したもので、縄文時代前期後葉の諸磯b式とよばれる波状口縁深鉢形土器の波頂部に、外に向けて付けられている例がみられる。
群馬県安中市中野谷松原遺跡では150例も出土しており、群馬県西部で出現し、関東地方西部から甲信地方へ拡大したと考えられている。
 
本町田遺跡から出土した縄文時代前期の土器は現在の甲信地方で見られる土器の特徴を持つため、甲信地方からやってきた人々が恩田川を辿る拠点として集落を構えたと考えられる。
一方、町田市内の同じ縄文時代前期の三矢田遺跡から発見された土器の特徴からは、近畿地方にルーツをもつ人々が鶴見川沿いにやってきたと考えられている。
 
遺跡見学を終え、町田市博物館に向かったが、常設展はなさそうだったので、入館しなかった。
宿泊するホテルは藤沢市湘南台だったので、藤沢市にある遊行寺を見学することにした。
 
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遊行寺。正式には清浄光寺。時宗総本山の寺院。
箱根駅伝で遊行寺の坂はよく見る場面であるが、確かに車でも急な坂であった。
 
開山は他阿弥陀仏呑海,開基はその兄の俣野五郎景平。呑海は遊行上人第4世で,1319(元応1)に嗣法してから7年間にわたり各地を遊行した。25(正中2),遊行上人位を安国に譲り,藤沢の地に寺を建ててここに住む。これが清浄光寺のおこりであり,当初は清浄光院あるいは藤沢道場と称した。これ以後,遊行上人は引退すると清浄光寺に住むことが慣例となり,これを藤沢上人と呼んだ。
 
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地蔵堂。
本堂右側に祀られていた地蔵菩薩像が2014年(平成26年)9月より本堂前東側の地蔵堂に安置され「ひぎり地蔵菩薩」と称されている。堂に安置する前に修理が行われたが「享保六年辛丑年四月廿四日」の日付が発見された。明治時代の末には香飯寮(こうはんりょう)に安置されていたが、それ以前の場所や由来は判明していない。
 
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踊り念仏奉納。藤沢市踊り念仏保存会。
1530分から踊り念仏の実演があり、途中から偶然鑑賞することができた。
 
踊り念仏とは、太鼓・鉦(かね)などを打ち鳴らし、踊りながら念仏・和讃を唱えることで、その起源は平安時代中期の僧空也にあるといわれる。鎌倉時代、時宗の一遍が伯父の河野通末の配流先であった信濃国伴野荘(長野県佐久市)を訪れたとき、空也に倣って踊念仏を行った。
現在は、婦人を中心とした檀信徒による「踊り念仏」と僧侶が儀式として修行する「踊躍念仏」に分化している。
 

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藤沢敵御方供養塔。国史跡。

清浄光寺の境内にある供養塔。「怨親平等碑」ともいう。
1416年(応永23年)の上杉禅秀の乱で戦死した人畜を供養するため、遊行14世太空が1418年(応永25年)に造立したと伝えられており、1926年(大正15)に国の史跡に指定された。
この供養塔は台石上にあり、高さは130cm、幅は28cmで、確認されている銘文から、敵味方の区別なく供養する赤十字的な思想をうかがわせているといわれている。
九州各地では戦国時代に島津氏が建立した敵御方供養塔が残っている。
 
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藤沢敵御方供養塔。案内文。                              (拡大可)
 
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放生池。
八重桜が見頃であった。
 
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放生池。案内文。
 
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放生池。
シラサギか。魚を狙っている。
 
16時を過ぎたので、湘南台のホテルへ向かった。

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