井伊直親愛用の笛。青葉の笛。複製。引佐健康文化センター・ギャラリー。
2016年4月26日(火)。浜松市北区引佐町井伊谷。
井伊直親は井伊直平の二男直満の子で、井伊直政の父にあたる。桶狭間の戦いで戦死した従兄の井伊直盛の跡をつぎ,永禄3年(1560年)井伊谷城主となる。謀反の風説がたったため,今川氏真に弁明におもむく途中,永禄5年12月14日掛川で氏真の重臣朝比奈泰朝に討たれた。
家督は直盛の娘でかつて許嫁であった井伊直虎が継いだ。嫡男の虎松は流浪した末に直虎に代わって当主となり、徳川氏に仕え、のちの徳川四天王の井伊直政となった。
井伊直親は幼少時代逃げ隠れた信州高森の地で、故郷である井伊谷を思いながら笛を奏でていた。井伊谷へ帰るときに、帰国を感謝して氏神に奉納したのがこの青葉の笛と伝えられる。
渭伊神社・天白磐座遺跡の見学を終え、北東の引佐健康文化センター2Fのギャラリーへ向かった。浜松市の埋蔵文化財調査事務所が1Fにあり、2Fギャラリーには考古資料などが展示されている。無料だが、平日のみ開館。
北神宮寺遺跡。古墳時代前期の遺跡。妙雲寺周辺。
北神宮寺遺跡。発掘風景。
北神宮寺遺跡。出土遺物。
天白遺跡。古墳時代前期の遺跡。
天白遺跡。発掘風景。
天白遺跡。出土遺物。
北岡大塚古墳。井の国の王墓。
本日の最後に見学した。
北岡大塚古墳。実測図。
前方後方墳。
北岡大塚古墳。出土遺物。
馬場平古墳。井の国の王墓。
馬場平古墳。実測図。
馬場平古墳。出土遺物。
閻魔大王坐像。葬頭河婆像。木喰上人作。
寛政12年2月作。引佐町狩宿の寿龍院蔵。
十王像。木喰上人作。
引佐町狩宿の寿龍院蔵。
井伊谷城跡。
引佐健康文化センター裏手の山にある井伊氏の居城。井伊谷川と神宮寺川の合流点北側の尾根に築かれていた城郭で、本丸、二の丸、三の丸などで構成されていた。
築城年代・経緯は明らかではない。井伊谷城が歴史の舞台に登場したのは南北朝時代である。南朝方に与した井伊谷城主の井伊道政は遠江の南朝方の領袖として宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を奉じて、井伊谷城の詰の城であった三岳城に籠もり、子息の高顕とともに北朝方と熾烈な戦いを展開した。井伊谷城も南朝方の拠点となったが北朝方の高師泰・仁木義長らに攻められて落城した。
戦国時代に入り、井伊直虎が家督を継ぎ城主となった。1568年(永禄11)、小野道好に井伊谷城を横領されたが、徳川家康により城を回復している。
1572年(元亀3)には、信濃から三河に侵入した武田信玄の部将山県昌景に敗れ、城を明け渡して浜松城に逃れているが、翌年4月に武田勢が撤退したため城を回復した。
城跡は現在、井伊谷城跡城山公園として整備されているが、土塁状の遺構がわずかに残るのみである。
井伊谷城跡。本丸上段の御所丸跡。
宗良親王の御所があったという。
井伊谷城跡。本丸からの眺め。
井伊谷の風景が一望できる。
井伊谷城跡。眺望案内図。
井殿の塚。井伊直満・直義兄弟の墓。
井伊谷城跡の南麓にある。
井伊直平の嫡男直宗は天文11年(1542)の田原の戦いで討死した。直宗の子直盛は若年だったため、二男の直満が家督を継承する運びとなった。ところが、それを不服とした直盛の家臣小野和泉守道高が今川義元に直満・直義兄弟が謀反の計画をたくらんでいると讒言した。これを信じた義元は、兄弟を駿府に呼びつけると殺害してしまった。直宗、直満・直義の子らを失った直平は孫の直盛を後見して井伊氏の家政を総攬した。
里人は兄弟を憐み、供養のため兄弟の塚を築いて、遺骨を納めた輪塔を建て。塚の上に一本の松を植えた。嘉永5年大老井伊直弼はこの地を拝し、石垣を寄進した。
井伊氏居館跡。
公民館の脇に案内板がある。背後の城山との間に居館があった。
井伊氏居館跡。見取り図。
見取り図によると、公民館は本丸の南東隅にあたる。
井伊谷城の詰めの城にあたる三岳城へ向かう。三岳山の南麓からアクセス道路があり、井伊谷交差点から東進し、道なりに山中を登っていく。矢印が随所にあり、縦向きの矢印地点に駐車して、石段を登るが、これは三岳神社直下にあたり、三岳神社駐車場へはもう一息であった。広大な駐車場では、野鳥を撮影する一段が陣取っていた。神社左の登城口からは15分ほどで山頂の三岳城跡へ着く。
三岳城跡。二の城への分岐。
大手門跡がある。
三岳城跡。山頂の一の城跡。標高466.3m。
三岳山の山頂にあった三岳城は井伊氏が築き、南北朝時代には南朝勢力の攻防の拠点となった。1339(延元4)年後醍醐天皇の皇子で南朝方の主柱のひとりであった宗良親王が居城とし、北朝の足利尊氏勢と攻防の末、1340(興国元)年落城し、親王は大平城へ退いた。
1514(永正11)年には遠江守護斯波義達が、この地で今川勢である掛川城主朝比奈備中守を迎え討ち敗退した。それ以後は、城として使用した記録はない。
尾根伝いに細長く一の城、二の城、三の城と別れ、深い谷や急な斜面など自然の地形を巧みに利用した連郭式山城であって、中世城郭の典型的な形態を有している。
三岳城跡。山頂からの眺望。
南東の浜松市街地方向。アクトタワーらしきものが見える。
三岳城跡。山頂からの眺望。
南西の浜名湖方面。
三岳城跡。眺望案内図。
下山後、北岡大塚古墳へ向かう。北岡大塚古墳は三岳山南西尾根の末端にあるが、アクセスは分かりづらい。井伊谷交差点から数百m北の橋へ向かう脇道へ東進するT字路脇に北岡大塚古墳と記された小さい石標がある。この石標は北岡大塚古墳まで数㎞間に10カ所ほど置かれているが、見つけにくい。地元の人に何度も尋ねながら、ミカン畑の上の登り、車で墓地手前の駐車スペースまで辿り着いた。
北岡大塚古墳のある丘。
墓地の奥に古墳がある。左下に平地が見える。平地側からもアクセスできるようだ。
北岡大塚古墳。前方後方墳。
全長46.5m、高さ3.6m。築造時期は、古墳時代前期の4世紀半ばまでさかのぼり、浜松市内でも最古級の古墳である。井の国の王墓と考えられる。
16時頃となり、帰宅の途に着いた。