クントゥル・ワシ遺跡周辺の風景。カハマルカ郊外。
2015年6月14日(日)。中央がクントゥル・ワシ遺跡のある丘。
古代アンデス文明最古の黄金製品が発掘されたクントゥル・ワシ遺跡は、カハマルカから約100㎞ほど西の標高2300メートルの山上にあるアンデス文明形成期後期の遺跡で、大貫良夫率いる日本のアンデス調査団が1988年からおよそ15年間、発掘と研究を重ねた遺跡である。
遺跡の麓には日本の資金協力により建設され、今は収監されている当時のフジモリ大統領が開館時に駆け付けた博物館が地元民により運営されている。
カハマルカ市街で「身代金の部屋」や博物館の見学を終え、10時を過ぎたので、そろそろクントゥル・ワシ遺跡へ出かけなければならない。クントゥル・ワシ博物館は月曜休みなので、日曜日中に見学を終えねばならない。カハマルカから約2時間30分の距離にある。個人で行くのは、かなり大変だった。
カハマルカの町の西にあるコレクティーボ乗り場からサン・パブロ市まで約2時間、サン・パブロからクントゥル・ワシ村まで約10分の行程になる。
ホテルで、サン・パブロ行きのバス乗り場を聞いていたので、市街地でモトタクシーに乗ろうとして、サン・パブロ行きバス乗り場へ行ってくれと言ったら、首を横に振られて、訳が分からなくなった。ホテルに戻って、受付に青年に状況を話すと、事情通に電話して、尋ねてくれた。
バス乗り場の名を教えてくれたので、階下に降りてタクシーを拾い、バス乗り場に向かった。そこが、コレクティーブ乗り場だったらしく、サン・パブロ行きのコレクティーボが呼び込みをしていて、乗り込んだ。
サン・パブロ市に着いたコレクティーボ。
コレクティーボは路線バスならぬ路線タクシーで運賃は10ソレスと安い。その代わり、前席に2人、後席に3人まで乗せ、荷物を後部に積み込む。途中の乗降場所は自由で、乗客は入れ替わりがある。
カハマルカを11時頃に出発して、途中3600mを超す森の多い高原道路を走り、12時45分頃にサン・パブロに到着した。日曜日とあって、街路は子供たちで賑わっていた。売店に入り、昼食代わりの菓子・パン類を求めたが、たいしたものはなかった。
坂の町を上下して、クントゥル・ワシに行くモトタクシー(三輪車)を捜したが、乗車拒否の末、10分ほど後にようやく見つけて、クントゥル・ワシへ向かった。往路も戻り、枝道から左下へ坂道を下ると、クントゥル・ワシ村の中心部へ着き、右の坂道を登ると、博物館のある街路に着いた。
クントゥル・ワシ博物館のある街路。
奥に博物館があるが、その手前に警察署がある。遺跡のある丘は右上だが、建物に隠れて見えない。
旅行前に、「古代アンデス 神殿から始まる文明」(朝日新聞出版、2010、大貫良夫・加藤泰建・関雄二編)で、クントゥル・ワシ遺跡の部分を読んだ。
しかし、「アンデスの黄金―クントゥル・ワシの神殿発掘記」(中公新書、2000、大貫良夫著)は旅行後に読んだ。
「ペルー山中で紀元前のアンデス文明の神殿を発掘中、黄金の副葬品が次々と出土した。しかしその保管をめぐり地元住民や中央官庁の思惑が衝突、調査団も「金を日本に持ち去ろうとしている」とあらぬ疑いをかけられてしまう。
調査団は遺跡の麓に出土品を管理する博物館を建てることを提案、調査と並行して準備に奔走する。はるか南米の村で十年以上にわたって発掘を行い、博物館建設にまでこぎつけた新しい試みの顛末記」が描かれている。調査団長は政治的手腕が必要と痛感した。
そこに、博物館近くに警察署ができる経緯が記されている。
クントゥル・ワシ博物館。
日本調査団は黄金をはじめ主だった出土遺物の展覧会を日本で開催しながら資金集めに奔放し、クントゥル・ワシ博物館を建設し、1994年10月15日の開館後、クントゥル・ワシ村に寄贈した。以後今日まで、博物館は村民の手で運営されている。
女性の受付係と地元民とその娘の3人がいた。客は私以外いない。入場料4ソレス。リーフレット1ソレス。ちなみに遺跡入場料は5ソレス。
クントゥル・ワシ博物館。開館日の写真。
クントゥル・ワシ村のジオラマ。
左の中央上が、クントゥル・ワシ遺跡のある丘。中央下が村の中心部。そこから右方向へ坂道を登ると左中央部にある博物館に着く。