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ペルー 東大アンデス調査団の拠点遺跡  クントゥル・ワシ遺跡

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クントゥル・ワシ博物館からクントゥル・ワシ遺跡へ。
2015614()
14時過ぎにクントゥル・ワシ博物館を出て、遺跡のある丘に向かった。しかし、少し上に登った地点で分からなくなったので、博物館に戻り、道を尋ねると、母親が12歳ぐらいの娘に誘導するように言いつけた。少し上に登った地点に水平道があり、左へ進んだ先の建物の右に上へ登る道が隠されていた。
 
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なだらかな尾根道を進む。
 
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クントゥル・ワシ遺跡がリュウゼツランの先に見えてきた。
 
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クントゥル・ワシ遺跡のある丘。
棒のように立っているサボテンの変種のような植物が珍しかった。
 
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クントゥル・ワシ村とサン・パブロ市。
博物館から15分ほどで尾根道を登り切ると、大基壇下のテラスの末端に着いた。振り返るとクントゥル・ワシ村とサン・パブロ市が見えていた。手間中央の広い尾根の隠れた右下方向にクントゥル・ワシ博物館がある。その左下に村の中心地がある。左下にも村の民家が見え、道路を下るとカハマルカから来た道路がサン・ペドロ市へ着く少し手前地点に至る。
サン・パブロ市は右奥の山の中腹斜面に人家が密集した地域に中心部がある。
 
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大基壇と管理事務所。
テラスの西端(右端)に管理事務所があり、遺跡入場料を支払う。入場者記録があり、名前と国籍などを記入して、大基壇へ登っていく。見学中に見かけた入場者は5人ほどと、少ない。
 
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大基壇。壁上の通路には巡回中の監視員の人影が見える。
高さ約8.5m。クントゥル・ワシ期の神殿建立時に造成された。石壁上部に排水口が見えるが、神殿で行われる儀式で使用した水を流すための水路が基壇内に通されていた。
 
クントゥル・ワシにはBC950年のイドロ期に最初の神殿が建立されたが、小規模のローカルな祭祀センターであった。
 
BC800年頃、海岸地方にあった形成期中期の大きな神殿は機能を失い放棄されていった。異常気象や自然災害が原因と推定されている。危機を乗り越えるため、アンデスの人々は辺境の地であったクントゥル・ワシを選び、地域の枠を超えて社会的な統合と社会の再生を図ろうと、広域的な祭祀センターとしての大神殿の建立を選択した。
 
クントゥル・ワシ神殿建立に関連する重要な埋葬儀礼が海岸地方から運ばれてきた遺骸の二次埋葬であったことを考えると、そのプロジェクトを担ったのが、海岸地方の人々であったことは間違いない。
ただし、山地の特性を生かした豊富な石材や、地下に張り巡らした排水システムなどの土木技術からは、地域性を超えたプロジェクトであったと考えられる。
  
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中央階段を登った地点にある第
1号石彫。
1946年にこの遺跡が知られるきっかけになった第1号石彫。中央階段の上に立っている。高さ約2m。両手で大槍を持っている怪奇な半人半獣の立像。ジャガーが様式化されて表現されている。
北に向かう表の面と南に向かう裏の面ではやや違う石彫が彫られている。
表の面の眼は両方の眼が丸く表現されている。
 
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1号石彫の裏面。基壇下テラス、クントゥル・ワシ村、サン・パブロ市方面の風景。
裏面の右眼の輪郭は四角で、左眼の方はヘビが取り巻く形になっている。牙を剥いたおおきな口が印象的な半人半獣像で、腹部には人間の頭を抱え、左右の足は交差している。
 
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1号石彫から基壇下テラスの西方向を見下ろす。
基壇下テラスも広場のように整地されている。西端に管理事務所が見えている。
 
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中央階段と大基壇の段。
 
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中央階段から中央広場までの側面を東から眺める。
1号石彫の奥に第2号石彫が見える。
 
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2号石彫と背後の中央広場。
2号石彫も半人半獣像で、両方の眼は丸く表現されている。先端はヘビの頭で、眼をヘビが取り巻く形になっている。
 
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中央広場。中央基壇。
24m四方の大きな方形の広場で、高さ0.5mほどの石壁に囲まれた広場で、四方向に昇降用の階段が備えられている。
中央広場の正面に見える中央基壇は幅24m、奥行15m、高さ1.5mである。
 
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階段の石彫。石彫のモニュメンタル・アート。
四方の石壁中央の階段最上段には横長の大きなジャガー面石彫が据えられており、宗教的メッセージの伝達装置として石彫が計画的に配置されていた。

かつて形成期の代表的な神殿とされていたチャビン・デ・ワンタルには数多くの石彫があるが、他の形成期の神殿にはレリーフや彩色壁画を伴う例は多いものの石彫はほとんど報告されていなかった。
 
形成期後期のBC800年頃に建立されたクントゥル・ワシ神殿から石彫というモニュメンタル・アートが登場した。ローカルではなく広範囲な地域の祭祀センターとして、より効果的なメッセージ伝達を意図したものとみられる。
 
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中央基壇から西方向。中央広場、中央階段方向。
主要な石彫は中央階段から中央基壇までの主軸上に配列されていた。神殿を訪れる人々が北東から南西へと向かう動線を意識した配置になっている。
中央広場に出ると、四方の壁は漆喰で塗られ、多彩色の壁画が描かれていた。
 
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中央基壇から東側。中央広場、中央階段方向。
中央広場に降りた人々は色鮮やかな壁画とともに左右と正面に置かれたジャガーの石彫に気づく。
左右のジャガーの眼は丸い形で、正面のジャガーは四角い形をしている。
中央基壇から帰るときに、広場入口階段の石彫を見ると、丸い形をしている。最後に、中央階段上の第1号石彫を見ると、右眼の輪郭が四角で、左眼はヘビが取り巻く形の丸い形をしており、今まで見てきた2種類の眼が一つの像の中に表現されている。そして、あたかも二つの要素が合体したことを示すかのように足が交差している。
7つの石彫は配列や順序にも意味があり、全体で一つのセットになっていたと考えられる。
 
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中央基壇。
 
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中央基壇。金製品が出土した墓の説明板。
 
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南基壇。コパ期の墓が出土した墓域の説明板。
 
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中央基壇からさらに南の地域。
埋め戻されているので、表面上に遺跡は現れていない。
 
BC550年頃に建立されたコパ神殿の時代が後期になると、具体的な地域との関係が強まり、祭祀センターの機能が物流や情報の環流に重きが置かれ、儀礼的機能は低下していき、神殿は放棄されるに至った。ソテーラ期になると、神殿建設において開発された土木・水利の技術は農業生産へ転用され、社会的規模自体は増大していった。
 
15時ごろに博物館へ下り、村の中心部でモト・タクシーを拾い、サン・パブロへ戻った。16時頃コレクティーボに乗り、カハマルカ市内へ夕方戻った。
カハマルカからは2245分発の夜行バスに乗り、トルヒーヨへ向かった。

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