チンチェーロ遺跡。裏入口。クスコ郊外。聖なる谷。
2015年6月21日(日)。
クスコ郊外、聖なる谷のモライ、マラスの塩田、ウルバンバを見学して、ウルバンバから15時頃、クスコ方面のバスに乗り、遺跡のあるチンチェーロで途中下車。有名な遺跡ではないが、クスコ周遊入場券で入場できるので立ち寄ることにした。
バス停から丘方向へのメインストリートの坂道に遺跡はこの方向という標識があったので、坂道を登っていった。正確な遺跡入口が分からなかったので頂上付近まで登ってから、北方向の枝道を進むと、遺跡の南西側高台に出た。
本来のアクセスは中腹にホテルやレストランがある枝道を進むと教会に突き当たる道だと、帰途に分かった。
チンチェーロ遺跡。
王領とは日本的にいえば離宮のようなものであろうか。
「国立科学博物館叢書・インカ帝国」(島田泉、篠田謙一編著、2012年、東海大学出版会)によると、チンチェーロは、西50㎞にあるタンボカンチャートゥミバンバとともにインカ帝国第10代皇帝トゥパック・インカ・ユパンキ(トゥパ・インカ、在位1476~1495年)の王領であった。ちなみに、マチュピチュ、オリャンタイタンボ、ピサクは9代皇帝パチャクティ、ユカイ、ウルバンバは11代皇帝ワイナ・カパックの王領であった。
8代皇帝ビラコチャ・インカから歴代の皇帝はチンチェーロからウルバンバ川流域の谷(聖なる谷)を中心に王領を設け、宮殿、庭園、耕作地などを造成し、家臣たちに管理させた。歴代の王の親族集団はパナカとよばれ、王の死後は王のミイラに奉仕し、王領を守った。
王たちは、郊外に建設した王領では比較的短い時間しか過ごさなかった。チンチェーロの宮殿では「インカ王や貴族たちはここに彼らの女たちの何人か住まわせ、数か月間、それにふさわしいと彼らが考える時に、そこでゆうたりと過ごした」と記されている。
王領建設は基本的に王個人に属し、国家の事業ではなかったが、遠隔地の在地民族を征服したしるしとして建設され、帝国支配を固めることにも関係した。
トゥパ・インカはチンチェーロの王領建設を決めたとき、各地のカシケ(在地社会の統治者)たちを通して労働力を集めた。
「彼はオレホン(インカの貴族)たちに、国のすみずみまで行き、指定された期間内に、国中のカシケたちを必要な数の労働者とともにクスコに集結させるよう、手配することを命じた。オレホンたちはクスコを出発し、指定された期日までに2万人もの人々とともにクスコに戻った」。
チンチェーロ遺跡。
中間の斜面にもテラス状の耕地が造成されている。
ウルバンバ川沿いの王領は、テラス状の耕地と灌漑水路を整えることによって、トウモロコシを豊かに実らせ、食べ物として、またチチャ酒としてインカの人々の食生活を潤した。
チンチェーロ遺跡。
建物は土台を残してほとんど破壊されている。
チンチェーロ遺跡。
チンチェーロ遺跡。
チンチェーロ遺跡。南西の高台。
宗教施設のようだ。
チ
ンチェーロ遺跡。南西の高台。
チンチェーロ遺跡。南西の高台と北の教会方向。
チンチェーロ遺跡。南西の高台。下部にも石垣がある。
チンチェーロ遺跡。南西の高台。建物の跡。
チンチェーロ遺跡。南西の高台から北の教会方向へ。
チンチェーロ遺跡。テラスと建物跡。
チンチェーロ遺跡。南西の高台。
上部から入場したが、上には遺跡は認められなかった。
チンチェーロ遺跡。南西の高台。
チンチェーロ遺跡。教会のある高台。
インカ時代の宮殿の基壇部の上にスペイン人が教会を建てた。
チンチェーロ遺跡。教会のある高台下部の石垣を修復工事中。
チンチェーロ遺跡。教会の付属舎と中庭のある高台。
チンチェーロ遺跡。南西の高台。
チンチェーロ遺跡。西の風景。
チンチェーロ遺跡。教会の中庭。
名物の織物を売る女性たちがいる。正面の建物をくり抜いた門が本来の入場口。その横は小博物館。
16時40分頃になっていたので、早々に帰途に着いた。
チンチェーロの街並み。
正面がバス停からのメインストリート。案内標識はない。右に土産物屋がある。
長い1日が終わった。バスでクスコへ向かった。
翌日はピサク遺跡を見学。