旧・日本勧業銀行台南支店。現・台湾土地銀行台南分行。
2016年12月5日(月)。台南市。
安平樹屋、安平古堡を見学し、陳家蚵捲でカキフライを食べたあと、安平古堡のバス停から台南市街へ戻り、赤崁楼で下車し、南へ歩く。
台南には日本統治時代の建物が多く残っている。まず、旧・日本勧業銀行台南支店へ。
1998 年に市指定古跡と公告された旧日本勧業銀行台南支店は、中正路と忠義路交差点にあり、林百貨と向かい合っている。当区は日本統治時代に府城地区で最も繁栄していた町で、戦後は該当建築は土地銀行の支店として現在まで使用されている。
日本統治時代、大阪中立銀行、日本銀行、勧業銀行が続々と台湾に営業拠点を設置し、勧銀は昭和3年に台南支店を設立、昭和12年に現在の場所(当時の白金町と末広町の銀座通り)に移転した。
この建物は銀行営繕課が自ら設計したもので、近代的洋風建築ではあるが、道路に面した柱の列はギリシャ神殿様式のドーリア式の石柱が並び、銀行建築らしく重厚で落ち着いた外観を示している。
旧・日本勧業銀行台南支店。
道路に面した柱の内側の歩道部分の天井には「藻井」と呼ばれる、中央に花飾りがついた四角形の枠のような装飾が施されている。
林百貨。ハヤシ百貨店。
林百貨店は1932年山口県出身の実業家である林方一により創業された。林方一は明治16年(1883年)生まれ、明治45年(1912年)に台湾に渡り、呉服店を開業した。経営が軌道に乗り、莫大な利益を上げたのち、昭和7年(1932年)12月15日、ハヤシ百貨店は、通称「銀座通り」と呼ばれていた台南一の目抜き通りであった末広通りに南台湾初の百貨店としてオープンた。しかし林氏は百貨店オープン直前に病で倒れ、自らハヤシ百貨店のオープンを見ることなく、1932年12月10日に台北で亡くなった。
日本統治時代の台南において唯一近代的エレベーターを備えていた建物は、現地人にとっては嫁入り道具を購入するトップクラスの商店で、台北市栄町の菊元百貨店と並び南北二大百貨ビルともいわれていた。
林百貨。
設計者は石川県出身の建築家で、当時台南州地方技師兼台湾建築会台南州支部長の梅沢捨次郎。
建物は鉄筋コンクリート造の6階建てだが、最上階の面積が小さく5階建てに見える。
当時はむき出しのコンクリートが一般の人々に受け入れられず、壁面に石やタイル貼りを使って、石とレンガの模様に似せる工夫をした。
1-4階は売場、5階にレストラン、屋上階6階に機械室と展望台、そして屋上庭園と神社があった。建築技術も材料も当時最先端のものがふんだんに使われている。
1945年3月1日、連合国軍による大規模な空爆で、屋上、神社、外壁、床などが損傷した。
戦後建物は改修され、台湾製塩総工場、中華民国空軍および警官の派出所などに使われたが、1980年代から空きビルとなっていた。
台南市により1998年、市定古跡に認定され、2010年から修復作業が行われ、2014年6月14日に、特産品販売施設「林百貨」として開業、文化創作の新しいスタイルの百貨店として再活用されている。
1階エレベーター乗り場。6人乗りで、針式の階数表示板が当時の雰囲気を残す。
6階屋上に登ると台南の街の景色を望むことができる。
6階屋上。デパートの屋上には神社があった。
祭られていたのは商売繁盛の神様であるお稲荷様で、神社は開業の半年後に完成し、一般には公開されなかったが「末広社」と呼ばれ、産業の守り神として信仰の対象となっていた。
周りに置いてある黒っぽい石は当時のままで、当時6階は一般客への開放はしておらず、関係者のみがこの神社へ参ることができたという。
6階屋上。エレベーター機械室。
透明ガラスからはエレベーターが眺められるというが、立入りはできない。
5階。中庭があり、レストランフロアとなっている。
帰りはエスカレーターで下った。南の孔子廟方面へ歩く。
旧・台南山林事務所。現・葉石濤文学記念館。
山林事務所は1925年の日本統治時代に建てられた2階建ての洋館で、赤レンガの壁と窓の装飾が目を引く。大きな庇は雨が多く日差しが強い南台湾の気候に適したもので、建物の最大の特徴となっている。
明治35年(1902年)、台湾総督府殖産部は林務課を設置し、1925年台南に林業の育成と管理を担う樹苗養成所を設立した。旧台南山林事務所は昭和6年(1942年)曾文溪森林治水所を合併し、台南山林事務所と改名し、二年後に再び「台南州産業部林務課」に改名された。戦後は南農林区管理処、台湾省林務局嘉義林区管理処台南工作站となり、工作站が移転した後は、台南市政府が建物を引き継ぎ、現在は、台南出身の葉石濤(1925年~2008年)の文学記念館となっている。
通りをはさんで南側に台南武徳殿がある。
台南武徳殿。裏側。
日本統治時代、武道と尚武精神を広めるため、大日本武会が台湾各地に武殿を建てた。台南武殿は大正公園(現・湯徳章記念公園)の東側にあったが、昭和11(1926)年にこの場所に建設され、神社外苑と同時に落成式が行われた。
鉄筋コンクリート造だが、伝統的木造建造に似せた建築様式である。現在忠義小学校の講堂として使用されている
台南武徳殿。正面南側。
唐破風が見事な装飾となっている。武殿の2階西側は柔道などの武道場、東側が剣道場になっていて、北側には祭壇が作られており、現在も使用されている。
台南武徳殿脇の路地を南へ抜けると孔子廟への近道となる。
台南孔子廟。文廟。大成門。
台南孔子廟は、鄭氏王朝の1665年に陳永華によって創建された孔子廟である。台湾で最も古い孔子廟で、「全台首学」とも称され、台湾における学問の発祥の地である。
1665 年の初建時には大成殿のみ建設して、孔子を拝んでいたが、その後講学の場所として明倫堂を建設した。清領時代、孔廟は政府主催の台湾府学とされ、若者たちにとっての最高学府となって、「全台首学」と呼ばれるようになった。
台南孔廟の造りは標準的な左学右廟で、廟堂部分は三進両廊式の建築で、外には礼門、義路、東・西大成坊や、泮池、泮宮石坊もあり、台湾で唯一泮宮石坊を有する文廟である。泮宮は古代の諸侯が開設した学校で、石坊は孔廟と学校の結合を象徴している。
文廟の中には孔子を祭る大成殿があり、その大成殿の前には大成門という門がある。門には文字が書かれた額はなく、孔子の前で字を書くのは恐れ多いからだとされる。また。中央の門扉は祭礼のときや、皇帝が孔子廟に来たときなどのみ開けられ普段は閉められている。
台南孔子廟。文廟。大成殿。
中には孔子が祭られており、孔子の弟子の四配や十哲の位牌も祭られている。大成殿の中には清朝歴代皇帝の額が8つと、中華民国歴代総統の額が5つ飾られている。歴代皇帝や総統の額があるのはこの台南の孔子廟だけだという。
孔子廟の南の大通りの南側に旧・台南愛国婦人会館がある。
旧・台南愛国婦人会館。現・台南市政府文化局「文創Plus-台南創意センター」。
1940年に建設された。
日本の愛国婦人会は、1901年に兵士の慰問,遺族救護の目的で創立された。北清事変の際,慰問使として従軍した奥村五百子が主唱し,皇妃を総裁に,軍部や内務省に後押しされて上流婦人を組織した。創立趣意書は下田歌子が起草。
日露戦争中に一般女性にまで組織を拡張,慰問袋作り,兵士送迎などに女性を動員した。05年には会員数46万人に達した。貴族主義的性格を不満とする軍部の指導で32年に設立された国防婦人会と対抗しつつ,戦時体制づくりに積極的に協力した。1942年大日本婦人会に統合された。
建築模型。旧・台南愛国婦人会館。
北棟と南棟からなり、前者は婦人会館、後者は宿舎で、その間は通路でつながっている。
婦人会館は戦後、中国国民党台南市党本部、アメリカ政府報道局に貸し出された。
2階への階段と玄関。旧・台南愛国婦人会館。
階段の手すり。旧・台南愛国婦人会館。
2階への階段。旧・台南愛国婦人会館。
2階広間。旧・台南愛国婦人会館。
2階の部屋。旧・台南愛国婦人会館。
莉莉水果店。旧・台南愛国婦人会館の西隣にあるが、月曜日定休であった。
フルーツかき氷。
莉莉水果店でかき氷を食べられなかったので、通りを東に歩いて、かき氷店を見つけて食べた。
台南孔子廟あたりで台南駅行きバスを待ったが、さっぱり来ないので、ロータリー経由で歩いて、駅前のホテルへ帰った。途中の屋台街で食事をとった。
翌日は烏山頭の八田與一記念公園を見学して、台北へ戻る行程。