台南駅前ロータリー。
2016年12月6日(火)。台南市。
右側の大きなビル内にある鉄道大飯店に2泊した。
本日は八田與一記念公園などがある烏山頭を見学して、台北へ戻る行程。ネットで鉄道・バスの時刻を検索した末、台南駅7時6分発、善化駅7時28分着、烏山頭水庫行きバス7時50分に乗車し、8時20分ごろ烏山頭水庫に到着という行程とした。
台南駅。
1936(昭和11)年、現駅舎が竣工した。設計は総督府鉄道部技師の宇敷赳夫で、明治からの赤煉瓦を使った古典様式とは違い、昭和初期のモダニズム建築の様式で近代的な感覚が取り入れられており、政府から古跡に指定されている。
2階に鉄道ホテルとレストランが営業していたが、現在は閉鎖されている。駅の地下化が予定されており、現在の駅舎は保存、2階部分の鉄道ホテルは復元される見通しである。
善化駅と烏山頭水庫行きのバス停。
烏山頭水庫行きのバスには台南芸術大学の学生も乗車して、大学前で降車していった。
烏山頭水庫。ロータリーと入口。台南市。
バス停はロータリーにある。8時30分過ぎに着いたが閑散としていた。入場料は閑散期のせいか割引価格だった。日本語付きの地図リーフレットを貰い、まず、左側にある八田與一記念公園へ向かう。建物もない広い原野の中にある幅の広い車歩道を15分近く歩いて、ようやく記念公園の入口に着いた。
八田與一記念公園。入口。
園路の先に建物が見える。
台湾の人々に尊敬されている八田與一(1886~1942年)は、石川県金沢市に生まれ、四高を経て、1910年に東京帝国大学工学部土木科を卒業、台湾総督府内務局土木課の技手となった。当初は、台湾各地の上下水道の整備を担当、のちに、発電・灌漑事業の部門に移った。八田は、当時着工中であった桃園大圳(たいしゅう)の水利工事を一任され、水利技術者として高い評価を受けた。31歳のとき、故郷金沢の開業医米村吉太郎の長女・外代樹(とよき)(当時16歳)と結婚した。
1918年(大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。嘉南平野は広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるため田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。
八田は官田渓の水をせき止め、隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を提出し、国会で認められた。事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施工し、半額を国費で賄うこととなった。八田は国家公務員の職を辞して、組合付きの技師となり、1920年から1930年まで、工事を指揮し完成させた。大貯水池・烏山頭ダムと水路は嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。
1939年、八田は台湾総督府に復帰したが、1942年5月、フィリピンの綿作灌漑調査のため、現地へ向かう途中、乗船がアメリカ海軍の潜水艦により撃沈され、死亡した。1945年9月1日、妻の外代樹は夫の後を追うようにして、烏山頭ダムの放水口に投身自殺を遂げた。
八田與一記念公園。防空壕。
八田與一記念公園。展示館外の案内。国を越えた愛。シラヤの土地の物語。
シラヤ族(西拉雅族)は台湾原住民の一つであり、平埔族の一支族に分類される。烏山頭や関子嶺温泉のある地区がシラヤ国家風景区で、国分直一の著作『壷を祀る村』で語られる村はこの地方である。安平や台南市街地に住んでいたが、オランダ人や漢族に圧迫され、移住を余儀なくされた。
展示館で、シラヤ国家風景区の折り畳み地図を入手した。
国を越えた愛。シラヤの土地の物語。 (拡大可)
馬英九総統が、2009年に八田がダム建設時に住んでいた宿舎跡地を復元・整備して「八田與一記念公園」を建設すると宣言、2011年5月8日に完成し、公開された。記念公園は約5万平方メートルで、4棟の宿舎が一般公開されている。
嘉南大圳の工事は1920年に開始された。烏山頭宿舍および関連施設は同年9月に建設が開始され、翌年完成した。宿舎は独立棟、2棟続き、4棟続き、8棟続きの4種類で、合計で68棟、234世帯が入居可能であった。当時このエリアには約2000人が生活していた。
短期間で宿舎を建設するため、木材を角材に処理せず、原木の2面または3面のみを切削する「太鼓挽き」とするなど、簡単な工法で工期を短縮した。
八田與一記念公園の主要施設。展示館内の模型。
下部は左(西)からテニスコート、展示館、購買部建物。上部が復元宿舎で、左から「市川及び田中邸」、「八田邸」、「赤堀邸」、「阿部邸」。
見学路は展示館と購買部建物の間を抜け、宿舎群に至る。
烏山頭職員宿舍略圖。展示館。中央右側に八田邸など。 (拡大可)
烏山頭職員宿舍群の説明。展示館。
ダム建設関係者住宅区には家族全員が住める宿舎や共同浴場、商店や娯楽施設(テニスコートや広場、映画館)、学校や医療所も作られた。
復元された宿舎4棟。中心に「八田邸」。左が「市川及び田中邸」の一部。
「八田邸」。
「八田邸」。説明。
北国新聞社と「仰慕八田技師夫妻及台灣友好會」が共同で、日本各地から家具を集め、タンスは21組、小物は163点もの骨董品が集まった。
「八田邸」。玄関のプレート。
「八田邸」。室内。1935年8月、台北時代の家族写真。子供は8人いた。
「八田邸」。室内。八田技師の書斎。
「八田邸」。北の池と庭。
家の裏には、池のある庭があり、池の中央付近に、石の燈籠が置かれていた。八田家の跡地で唯一残っていたのが、この燈籠の土台だけで、上部は田中・市川宅に移動していたのを探し出して復元した。
池の部分を掘り起こすと、当時の池のふちの石が残っていた。池は、当時の写真などを元に遺族から聞いた内容から復元した。八田技師は、花が好きだったそうで、来客が来たときは花がきれいに咲いた自慢の庭へ案内したという。
池の造成方法が雑然としていたのは残念であった。
「市川及び田中邸」。
「市川及び田中邸」。説明。
2家族が住んでいたので、日本式家屋が2棟続く形になっていて、入口が2つある。
「赤堀邸」。
八田邸および他の3棟のうち1邸が交代で公開され、他の2棟は公開されない。
「赤堀邸」。説明。
「阿部邸」。赤堀邸から。
当時は堰堤係長であった阿部貞壽が住んでいた。阿部は後に八田技師の後を継いで烏山頭出張所長に就任した。阿部の離職後は、倶楽部として使用され、招待所の役割も兼ねていたため、宿泊者は食事の提供も受けることができた。
「絆の桜」石碑。
2012年5月8日の完成式典には、馬英九総統や八田の故郷・石川県出身の元内閣総理大臣・森喜朗が参加した。
途中から、ボランティア・ガイドの女性がたどたどしい日本語で案内してくれた。彼女が「分からないものがある。」と言って、私をテニスコートの端に連れてきた。「日本語の文字が分からない。」と言うので、教えた。「絆」という文字が分からないらしい。字が下手なせいのかと思ったが、「絆」という文字は日本独特の文字のようだ。
テニスコートの端にある「絆の桜」。
まだ若木だった。
近くにある展示館へ向かった。