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読書メモ。「尾張の大型古墳群 国史跡 志段味古墳群の実像」深谷淳著、2015.3、名古屋市教育委員会文化財保護室、六一書房。

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広瀬和雄氏 (国立歴史民俗博物館名誉教授)の書評。
「永年におよぶ志段味古墳群の調査成果を、カラー写真や図表を多く使ってコンパクトに、わかりやすくまとめたガイドブックである。
主要古墳の解説だけにとどまらず、古墳群の立地や環境、分布と構成、変遷と特徴などをつうじて、王権の地方経営などにも言及しながら志段味古墳群の歴史的有意性、国史跡の学術的価値を明らかにした、専門性の深い一書に仕上がっている。」
 
尾張の古墳造営の動向。
前期前半(3世紀中葉から4世紀初め)
前期前半に尾張で最初の首長墓である東之宮古墳が築かれる。前方後方墳ながら施設・副葬品から倭王権中枢部との密接な関係がうかがえる。

前期後半(4世紀前半~後半)。
尾張で最初の大型前方後円墳である白鳥塚古墳が築かれる。その後、青塚古墳が築かれる。

前期末~中期(4世紀末~5世紀)。
前期末に志段味古墳群では造営が途絶える。味美古墳群、名古屋台地東部では継続的に造営される。

中期末から後期前半(5世紀末~6世紀前半)。
尾張最大の前方後円墳の断夫山古墳が築かれる。大阪府土師ニサンザイ古墳に類似した墳丘形態、平面盾形の周堤など大王墓の墳墓様式が採用された。被葬者はのちに尾張国造の尾張連を輩出した一族の首長を想定する。その後、大須二子山古墳、味美二子山古墳、小幡長塚古墳など大型・中型の前方後円墳が築かれた。

後期後半(6世紀後半)。
畿内系の左片袖式横穴式石室を採用した小幡茶臼山古墳などを最後に尾張では前方後円墳の築造が停止される。

後期末から終末期(6世紀末~7世紀)
志段味古墳群など横穴式石室を埋葬施設とする群集墳が造営される。
 
志段味古墳群の変遷と特徴。
4世紀前半から中葉の古墳
白鳥塚古墳は大王墓の柳本行燈山古墳と墳丘の平面形が類似する。石英を用いた墳丘装飾は四国東部で出現し、近畿地方では柳本行燈山古墳が最初に採用した。
白鳥塚古墳は首長墓で尾張戸神社古墳はその首長をささえた有力者の円墳である。その次代が中社古墳南社古墳の組合せで、東海地方で最も早く埴輪を導入した。
被葬者は庄内川を利用した河川交通と深い関係を持っていた。集団の本拠地は庄内川中流域で名古屋台地北側の志賀遺跡群と推定する。
 
倭王権は東日本への勢力伸長戦略の一つとして、大和から伊勢南部、伊勢湾、東三河、遠江を経由して東へ進む原東海道をもとに、伊勢南部から分岐して伊勢湾、尾張の庄内川、東濃を通り信濃へ達するルートを設定した。そのルート上にある庄内川中流域下位を本拠とする白鳥塚古墳の被葬者と政治的関係を結び、被葬者は北岸の高御堂・天王山古墳などを下位首長群として従えて庄内川中流域全体を影響下におさめた。

庄内川の最奥の入江(津)で、東濃へ抜ける内津峠へ向かう陸路との結節点からは北東にランドマークである東谷山を望むことができ、その東谷山の山頂と麓に白鳥塚古墳などが築造された。

前期末から中期初頭になると、倭王権は王権内部の勢力交代により、信濃へのルートを伊勢北部から西濃を通って東に進むルートを重視するようになったため、志段味地区の古墳造営は停止された。中社古墳に続く首長墓は本拠地の志賀遺跡群を見下ろす守山台地西端の守山白山古墳の可能性がある。
 
5世紀中葉から6世紀前葉の古墳
西大久手古墳・大久手5号墳・東大久手古墳、志段味大塚古墳・勝手塚古墳の順で築造された二つの首長墓の系譜に分けられる。

倭王権は5世紀中葉に、畿内と東日本内陸部を結ぶ馬を用いた遠距離交通システムの整備に着手し、伊那谷や上野西部に渡来系集団を配して馬匹生産地(牧)を設置した。庄内川を経由し東濃へ至る原東山道への接続ルートが再び重要視された。

志段味古墳群の帆立貝式古墳の被葬者となったのは、5世紀中葉の時点で庄内川中流域を治めていた中規模勢力の味美古墳群の首長であった。帆立貝式古墳の墳形は前方後円墳より格付けが低いことを表示し、王権の地方経営の一端を担う官僚的な役割であったことを示す。
 
断夫山古墳は伊勢湾最奥部の熱田台地南端にあり、6世紀前半以降に尾張連を輩出した熱田台地南部を本拠とする集団の最有力者が葬られた。拠点集落のあった古渡遺跡群では5世紀中葉を境に、以前の小規模な集落群が集約化され居館域が形成された。
古墳時代以前から伊勢湾の海上交通の拠点の一つであった古渡が、倭王権から接続ルートの要衝として位置付けられ、最有力者の尾張国造就任へつながっていった。

断夫山古墳の築造と同時に尾張に導入された周堤は熱田台地南部集団と連絡路沿いの有力諸集団とのネットワークを背景に、勝手塚古墳など尾張東部の首長墓に波及していった。
 
535年に全国に屯倉が設置される。尾張に設置された間敷屯倉は春日井市勝川付近に比定される。
それにともない、庄内川と内津峠を結ぶ陸路の結節点は庄内川中流上位から中位へ移動し、上志段味の首長墓系譜は造営を停止した。
 
6世紀後半から7世紀の古墳
群集墳の時代。東谷山白鳥古墳など。前期の首長墓の白鳥塚古墳を集団の「始祖墓」に位置付け、それを核として群集墳を造営した。
近畿地方の渡来系集団が始めた石室の奥壁隅に土師器を据える儀礼行為が3基で認められることから、渡来系集団との関わりが指摘される。飛鳥戸・春日戸など戸を名乗る氏族のほとんどが渡来系氏族であることから尾張戸も渡来系氏族の可能性がある。

屯倉の経営を委任されていた尾張連は庄内川中流域の各所に広がっていた間敷屯倉にともなう田地の開発や耕作などに従事していた複数の集団に対して、ミヤケ関係集団の一体性を保持させるために、共同墓地を上志段味に設定したと考える。
 
志段味古墳群における石英を用いた墳丘装飾について。
石英の採取地。東谷山・瀬戸一帯からは石英が採取できた。対岸の高座山では現在でも採取できる。白鳥塚古墳では石英は葺石の表面に撒かれ、大きいものは葺石の石材としても使われていた。尾張戸神社古墳、中社古墳にも使用された。
 
志段味古墳群の群集墳と「尾治戸」。
馬具・武器の副葬は少ない。石室の奥壁隅に土師器を据える儀礼行為は「鎮め」の儀礼。
 
<感想>。
白鳥塚古墳の被葬者の集団は志賀遺跡群の集団であり、尾張氏となった熱田台地南部の集団とは違うことになる。志賀遺跡群の集団は5世紀中葉および7世紀にはどうなっていたのか。
尾張氏のルーツは大和にあるという説との整合性はどうか。
 
東谷山の山頂にある尾張戸神社は尾張氏の祖先を祀っているのか。渡来系集団は志賀遺跡群集団の首長墓と分かっている尾張戸神社を祀ることができたのか。

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