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三重県車中泊旅行 桑名市 七里の渡跡 桑名城跡 宝暦治水工事薩摩義士の墓所・海蔵寺

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三重県を2017510日から14日、16日から22日まで合計12日間、車中泊旅行し、歴史散歩・温泉などを楽しんだ。自宅・名古屋からの2往復走行距離は概算で1250km、ガソリン代9300円を含め、旅行費用は約23,000円。
 
本来は、大杉谷の桃の木小屋泊、迷岳、池小屋山などの山行を含めて、連続25日程度を予定していたが、4月末に山トレの下山時に転倒して、左人差し指の関節を脱臼した。週1日通院する必要があったので、その都度自宅へ帰ることになった。予定したのが三重県という隣県なので、自宅へ戻るのが短距離だったのは幸いであった。
 
登山は手とは関係なく、可能だと思ったが、5月初めに左足がむくんで、登山靴がはけない状態になったので、登山は諦めることにした。516日以降は足のむくみが軽減したので、霧山城などの山城を登ることは問題なくなった。
 
三重県は隣県なので、何度も見学しているが、B級史跡を中心に見学した。
 
2017510日(水)。午前11時過ぎに名古屋市守山区を出発し、国道1号線を経て、13時過ぎに三重県桑名市の七里の渡の駐車場へ到着。以前見学した六華苑の道路向かいの川沿いにある無料駐車場で、南側に観光案内所があり、地図を入手した。桑名城跡前の駐車場も無料と案内されたが、実際は有料だったので、この駐車場に駐車したまま歩いて正解だった。
 
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七里の渡跡。大鳥居と蟠龍櫓。
桑名は中世より「十楽の津」と呼ばれ、商人の港町と交易の中心地として発展した。永正12年(1515年)頃の連歌師・宗長の手記では「港の広さが56町。寺々家々の数が数千軒、停泊する数千艘の船の明かりが川に映って、星のきらめくように見える」とある。
 
江戸時代、桑名は、東海道の42番目の宿場町として大賑わいを見せていた。熱田・宮の渡しから海上七里を船に乗り、桑名の渡しに着いたことから「七里の渡」と呼ばれていた。ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられている。
右に見えるのが、河口のまち桑名を象徴する蟠龍櫓。蟠龍櫓は、航海の守護神として、桑名城の北端にあたるこの地に据えられたものと考えられている。
かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルを忠実に復元したもの。かの有名な歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いている。
2階の展望室は月曜を除き、午前930分から午後3時まで無料で開放されている。
 
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蟠龍櫓からの眺め。下流の伊勢湾方向。橋は国道
23号線の鉄橋。
対岸を見ても、陸地ばかりなので、どういう海路をとったのか、ボランティアに尋ねると、海図を見てほしいと案内された。
 
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渡海路絵図。左下が宮宿、右下が桑名宿。
文政81825)年に描かれた桑名から宮までの七里の渡の航路図で、宮までの所要時間は34時間と思われるが、満潮と干潮によって航路が代わり、所要時間にも長短があったことがよく分かる。一番手前の航路は、長島の青鷺川を通ったもので、現在は埋められて碑だけが建っている。
 
絵図には、現在は干拓地として埋め立てられた中州が多く描かれている。
蟠龍櫓には、旧東海道を歩く旅人が、たまに立ち寄るとのこと。
川端を歩き、桑名城跡へ向かう。
 
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桑名城跡。正保城絵図。
揖斐川に臨む平城で、その形から扇城ともいわれた。
永正10年(1513年)に土豪の伊藤武左衛門がこの地に城館を築いたのが桑名城の起源といわれる。天正2年(1574年)織田信長がこの地を征し、部将の滝川一益が城を配下に置いた。豊臣秀吉の時代になると神戸信孝、天野景俊、服部一正、一柳直盛、氏家貞和、松平家乗と支配者が目まぐるしく入れ替わった。
 
関ヶ原の戦い後、慶長6年(1601年)徳川四天王の本多忠勝が桑名10万石に封じられた。忠勝は入封直後、揖斐川沿いに城郭の建造を開始した。城には船着場も整備し、46階の天守をはじめ51基の櫓、46基の多聞が立ち並んだ。また同時に城下町も整備された。
 
元和3年(1617年)(久松)松平定勝が入城。(久松)松平定重の時代、元禄14年(1701年)に大火に遭い、天守も焼失し以後再建はされなかった。
 
宝永7年(1710年)松平(奥平)忠雅が入城し7代続く。文政6年(1823年)、(久松)松平定永が白河から再入城。
幕末には松平容保の実弟である松平定敬が藩主となり、京都所司代として兄と共に京都の治安を預かった。大政奉還の後の慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍と共に定敬も江戸に向かった。藩主不在の桑名城では抗戦か恭順か激論となり鎮国守国神社の神籤により上層部では抗戦と決定したが、下級藩士の猛反発にあい、結局は無血開城した。明治政府軍はこの際に辰巳櫓を焼き払い開城の証とした。
 
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桑名城跡。
松平定信没後100年にあたる昭和3年(1928年)に本丸・二之丸一帯を整備し九華公園とした
城跡には現存建造物はなく、石垣、堀が残るのみである。
 
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桑名城本丸跡に建つ鎮国守国神社。
文政6年(1823年)、(久松)松平定永が、藩祖である松平定綱(鎮国公)と実父松平定信(守国公)を祀る鎮国守国神社を城内に勧進した。
 
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桑名城城壁。春日神社鳥居の南東に展望コーナーがある。
正面の堀川東岸(三之丸地内)の城壁は、桑名城城壁の一部で、揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に至る延長約500mが現存し、市の文化財に指定されている。
積石の状態は乱積で、野面はぎ、打込はぎのニ方法によっており、また刻印を刻んだ積石も多く見られる。
片町に面したところには出隅、入隅があった。
戦前までは南大手橋から京橋裏、それに三之丸立教小学校横まで堀川は続いていたが、終戦直後、またたく間に埋めたてられた。この城壁には老松が並木を作り、枝は堀へ垂れ、川水は満々と美しく、行き交う荷船で賑わっていた。

なお、桑名城石垣の多くは、明治政府の桑名藩に対する懲罰処分として、四日市港建設工事の際に、転用され、「潮吹き堤防」が造られたという。数時間後に、その重文「潮吹き堤防」を見学した。
 
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桑名宗社(春日神社)。寛文年間鋳造の青銅の大鳥居と楼門。
桑名神社と中臣神社の両社からなり、天下の奇祭“石取祭”で知られる。
この通りは、昔の東海道筋で、初めて鳥居が建立されたのは、慶長7年(1602)本多忠勝の寄進であるが、51年後の大風で倒壊してしまった。
その後、松平定重が日本随一の青銅鳥居の創建を企画し、桑名の鋳物師辻内善右衛門に命じ、寛文7(1667)に完成した。高さ6.9m、笠木長さ8.1m、柱の周り57.5㎝。
この鳥居は寛永年間に建立された日光二荒山神社の青銅鳥居に酷似しているが、製作意匠は桑名の方が優秀であるという。
 
北西方向へ歩き、海蔵寺へ向かう。
 
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海蔵寺。宝暦治水工事薩摩義士の墓所。
宝暦3年(1753)に幕府より薩摩藩は揖斐・長良・木曽三大河川工事を命ぜられた。宝暦5年工事は完成したが、多くの犠牲者と巨額の経費がかさんだことの責任感から、工事総奉行平田靭負は自刃した。これら義士の墓所は岐阜・三重県下14ヶ寺に埋葬され、ここには平田靭負他21基の墓石が現存し、市指定史跡となっている。
当寺は、宝暦治水工事における自害者51名の半数に近い24名の薩摩義士の墓所である。
 
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海蔵寺。宝暦治水工事薩摩義士の墓所。
平田靭負の供養塔である五輪塔を囲み、コの字型に薩摩藩士の墓23基が並んでいる。
 
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海蔵寺。
 
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海蔵寺。

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海蔵寺。追悼供養法要のポスター。

徒歩のまま、七里の渡駐車場へ戻り、四日市市の国史跡・久留倍官衙遺跡へ向かった。

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