2017年5月10日(水)。桑名市七里の渡跡から移動。三岐鉄道大矢知駅南600mの標高約30mの丘陵上にある。国道1号北勢バイパスの久留倍遺跡北交差点から北上して、道迷いとなった。戻って、バイパスの久留倍遺跡北の一つ西の交差点から北側の側道に入ると、遺跡の南側下に到着。
遺跡は歴史公園として整備中で、柵により入場が止められているが、入ることはできる。公式HPで、本年のGWから開園としていたが、続報がなかったので、期待はしていなかったが、予算不足のせいなのか。
久留倍官衙遺跡は四日市市内の北部、丘陵の東先端部に位置する古代の官衙遺跡である。多数の掘立柱建物を検出した。検出した遺構は大きくⅠ期からⅢ期に分けられ、Ⅰ期(7 世紀後半~8世紀前半)は東西42m、南北51mの塀で囲われ、正殿、脇殿、八脚門等を整然と配置する政庁、Ⅱ期(8 世紀中葉~後半)は長大な東西棟建物群、Ⅲ期(8 世紀後半から9 世紀末)は稲もみが貯えられていたと考えられる倉庫群からなる正倉院と、時期により異なった性格を示す。
また、これらの遺構群は全て東を正面とする点が特徴となる。その他、丘陵の北東斜面部にも同様にⅠ〜Ⅲ期の変遷をたどる掘立柱建物群があり、館や厨としての機能が想定できる。
久留倍官衙遺跡は官衙の政庁や正倉院等が時期ごとに場所を違えて展開するもので、古代伊勢国朝明郡衙跡である可能性が高い。壬申の乱の際に大海人皇子(後の天武天皇)が朝明郡に立ち寄ったことが知られており、それとの関係も注目される。
壬申の乱や聖武天皇の東国行幸などの史実との関連も注目されており、考古学のみならず古代史や万葉集研究にも一石を投じる重要な遺跡である。
672年に、天智天皇の子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)との間で皇位継承権をめぐる内乱「壬申の乱」が起こった。大海人皇子は、6月24日に吉野を発ち、25日に伊賀から鈴鹿山脈を越え、土砂降りの雨の中、三重評へ到着した。寒さのため、小屋を1 棟焼いて体を温めた。26日朝、大海人皇子は、朝明郡の迹太(とお)川のほとりで雲の間から現れた太陽を仰ぎ見て、天照太神を望拝し、戦いの勝利を祈ったという。
迹太川は、現在の河川にその名は無く、三滝川・海蔵川・米洗川・部田川・十四川・朝明川・員弁川など複数の河川がその候補に挙がっている。この迹太川が現在のどの河川にあたるのかは非常に重要で、天照太神を望拝した後に朝明郡家に至っているため、朝明郡家がどのあたりにあったのかの重要な手がかりになる。
「聖武天皇の東国(伊勢)行幸」では、天平 12 年(740)に聖武天皇が、平城宮を後にして、伊賀・伊勢・美濃・近江・山背に立ち寄り、最後に恭仁京に遷都を行った。
聖武天皇は、壬申の乱で勝利した天武天皇の直系の曾孫であり、その正当性と権力を誇示するために、曽祖父の歩んだ東国(伊勢)への行幸を行ったとされるが、740年に起きた藤原広嗣の乱を恐れたためであった可能性が高い。
このほか、八脚門については、当時の姿を推定して復元する計画だが、着工されていない。政庁の塀や脇殿は、柱の位置が分かるように約40 ㎝の高さの柱を立てるという。
丘陵の北にはガイダンス施設が完成しているようだが、公開はされていない。
鈴鹿山脈から伊勢湾へと東流する朝明川と海蔵川とに挟まれた垂坂丘陵の北東先端部に位置する。標高約 30mを最高所として、西側にやや広い平坦面が広がり、そこから東方向に向かって緩やかに傾斜し、北東方向の沖積地へと繋がる地形に立地する。遺跡から東方向の眼下には沖積平野や伊勢湾もさることながら、対岸の知多半島や、北東方向の名古屋市街地が遠望できるというが、実際には展望できない。
このあと、「三重県のかくれた名所」(三重フィールド研究会編、1986年刊)で目に留まった、伊勢湾近くにある万葉集ゆかりの志氐(しで)神社へ移動。
祭神は気吹戸主神(いぶきとぬしのかみ)。延喜式内社。
創祀年代は社記によると垂仁天皇の頃という。
壬申の乱のとき、大海人皇子(天武天皇)が迹太川の辺で天照皇大神宮を遥拝するため、ここに木綿(ゆふ)取り垂(しで)て、御身の禊(みそぎ)をなされたので「志氐」の名がおこり神社の名となったという。「シデ」とは御幣のことで、四方に幣を班し、伊吹戸主神を祀った跡を千有余年後の現在も祭っているという。
天平12年、聖武天皇が北伊勢地方へ行幸の時に供奉した丹比家主真人が当社で詠んだ歌が萬葉集にある。
古代はこの付近まで海が迫っていたと思われる洪積台地先端の高台にあり、万葉地名では「四泥(しで)の埼」とよばれていた。
神社境内の古墳。四日市市内に残る唯一の前方後円墳で、4世紀末の築造とされる。
「伊勢名勝志」によると額田連(ぬかたのむらじ)の祖、意富伊我都命(おういがつのみこと)の陵墓と記されている。
古墳は、海蔵川と米洗川に挟まれ、西から東に曲折しながら延びる低い丘陵部に位置する。墳丘は、丘陵の東側で南北に低く延びる標高10mほどの台地の東端に、主軸を南北方向にとって築造された。
明治時代に、神社の境内拡張と社務所造営によって前方部が削られ、現在では後円部と北、西側の周濠の一部が残っている。後円部は、東側と南側が道路や建物などによって削り取られているが、規模は直径30m、高さは5.3m、周濠は、幅4.5m、深さ約2.0mほど。
後円部の墳頂は、嘉永五年(1852)に発掘され、内行花文鏡、車輪石、勾玉、管玉、小玉が出土した。
天平12(740)年の聖武天皇の御幸の際に、御供の丹比屋主真人(たじひのやぬしのまひと)が当地で、妻を思い無事を祈って詠んだとされる歌が万葉集(第6巻1031番)にある。
後爾之人乎思久四泥能崎木綿取之泥而將住跡其念
後(おく)れにし 人を思(しの)はく 四泥(しで)の埼 木綿(ゆふ)取りしでて さきくとぞ念(おも)ふ
奈良の都に残した妻を恋しく思い、志氐神社の神さまにお供えものをして妻の無事を祈った歌という。
日本武尊と弟橘媛命と稲倉魂神を祀る。
江戸時代後期の嘉永6年(1853年)に東京都文京区湯島の妻恋神社を勧請したもの。
このあと、桑名城跡の石垣を、明治政府の桑名藩に対する懲罰処分として、四日市港建設工事の際に転用した重文「潮吹き堤防」を見学に向かった。