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三重県津市 浄土真宗高田派本山専修寺 一身田寺内町の館

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一身田寺内町の館。浄土真宗高田派本山専修寺(せんじゅじ)の寺内町。津市一身田町。
2017511日(木)。
道の駅「津河芸」で起床。8時に道の駅がオープンしたので、観光パンフレットを多数入手。安濃温泉(300円)があるのを知った。三重県総合博物館で史跡情報を確認するのが、本日の最大目標。
伊勢上野城が近くにあるが、930分開館とあった(のちに日曜のみと判明)ので、830分では早すぎる、寺内町のある専修寺に立ち寄ろうかと迷った。専修寺には、15年ほど前に近鉄のフリー乗車券で時間が余ったので、途中下車して、長い距離を歩いて見学した記憶がある。このときは、建物が修理中のため覆われていた。
 
9時頃、国道23号線中勢バイパスを初めて走行し、三重県総合博物館を目指していたら、案内看板やナビに専修寺が目に付いたので、思い切って立ち寄ることにした。
 
専修寺北側道路に広大な専修寺参拝者用駐車場があったので、ここで駐車しなければならないのか、しかし、遠いな、「寺内町の館」にPがあったような気がするな、と専修寺南側道路を東端まで進み、「寺内町の館」前で停車すると、裏側に無料駐車場があったので駐車した。
 
開館930分の少し前だったが、入館すると、私しか入館者がいないので、受付の男性が説明やら話の相手になってくれた。同じ浄土真宗とはいえ、高田派は知られていないと嘆きながら、「一身田寺内町」という立派な小冊子を含めたリーフレット類を、大型な封筒に入れて渡してくれた。数本ビデオを見ていると、学生団体が先生やガイドとともに2グループ30名ほど入場してきた。2グループとも三重大学の学生と名乗っていた。
 
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一身田寺内町の館。江戸時代中期から明治時代初期の寺内町の復元模型。
高田本山専修寺を中心として、大きな寺や古い町並みが残る環濠に囲まれた町が「一身田寺内町」で、「寺内町」とは、15世紀の終わり頃から16世紀の中頃にかけて、浄土真宗の寺院を中心として造られた自治都市のことで、その多くは周囲に濠などがめぐらされている。
500m四方の寺内町の周囲は、毛無川や濠で囲まれている。南半分には、専修寺の末寺のほか、寺の用人や商人が居住していた。ガイドの説明には、「寺侍」という言葉も使われていた。
 
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一身田寺内町の館。
1010分頃、学生たちと同じく、専修寺などの見学へ向かった。
 
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専修寺。重文・山門。手前は釘貫門。
山門は、御影堂の正面にあって、専修寺伽藍の総門。五間三戸二階建て二重門の形式。これは山門として最高の格式を誇る。瓦に宝永元年(1704)の銘があり、これが建築年時とされる。
釘貫門は矢来で、この門を境に坊官などの住む寺内と、町屋がある地下に分かれていた。
 
専修寺は、浄土真宗10派のうちのひとつの真宗高田派の寺院。山号は「高田山」。本山は三重県津市一身田町に、本寺は栃木県真岡市高田にあり、本寺の住職は本山専修寺の住職が兼任している。「専修寺」の名の由来は浄土系宗派の特徴である専修念仏に基づく。
 
本寺専修寺は、親鸞が関東各地の教化に入って十余年、1225年(嘉禄元年)、親鸞53歳のとき明星天子より「高田の本寺を建立せよ」「ご本尊として信濃の善光寺から一光三尊仏をお迎えせよ」との夢のお告げを得て、現在の栃木県真岡市高田の地に専修念仏の根本道場(如来堂)を建立したのが起源とする。
本寺は東国における初期の浄土真宗の教団活動上重要な役割を果たした寺で、門徒衆は、関東各地の門徒が作る教団の中で最も有力な教団(高田門徒)となり、京都へ帰った親鸞からしばしば指導の手紙や本人が書き写した書物などが送られている。
 
その後、この教団は次第に発展し、「高田の本寺」と呼ばれて崇敬を集めるようになった。15世紀半ばごろに蓮如によって本願寺教団が次第に勢力を拡大していく。それに対して高田派教団はむしろ沈滞化の傾向にあったが、それを再び飛躍させたのが、東海・北陸方面に教化を広めた十代真慧(しんね)であった。
 
現在の三重県津市一身田町にある専修寺は、1470年代から真慧が伊勢国の中心寺院として建立した。当時この寺は「無量寿院」と呼ばれており、文明10年(1478年)には真慧は朝廷の尊崇を得て、「この寺を皇室の御祈願所にする」との後土御門天皇綸旨を得ることに成功した。
 
高田の本寺が戦国時代に兵火によって炎上したことや教団の内部事情から、歴代上人がここへ居住するようになり、しだいにここが「本山専修寺」として定着した。
 
専修寺には親鸞直筆の国宝西方指南抄、三帖和讃など、現存している親鸞の真筆文書の4割強を収蔵しており、これは東西本願寺よりも多い数である。
 
織田信長の時代には各地で一向一揆が弾圧されたが、一身田寺内町が残ったのは、信長政権と深いつながりがあったとされる。その傍証とされるのが、専修寺庭園にある茶室「安楽庵」である。二畳半に半畳の鱗板を入れた少人数の席で、主人と客席との間に太鼓張りの襖を入れるなど、珍しい趣向が凝らされている。これについては、千利休の長男道安と織田信長の弟有楽齋の合作のためといわれ、安楽庵の名前もこの二人の名前から取られた、との言い伝えがある。
 
また、江戸時代には藤堂藩2代藩主高次の娘を門主の嫁にもらったり、藤堂家から広大な土地を寄進してもらうなど、時の為政者と深いつながりを持っていた。
 
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重文・唐門。右奥は、案内所と納骨堂。
如来堂正面にある四脚門。すべて良質の欅を用い、しかも装飾で空間を埋め尽くしたような豪華な建築。天保15年(1844)の上棟。棟梁高木光規は如来堂を建てた但馬の孫。
 
多くの人が境内の雑草取りなどの作業中であった。
 
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重文・如来堂。
「証拠の如来」と呼ばれる阿弥陀如来立像を本尊とする堂。屋根を二重とししかも仏殿らしい各種の装飾を多用して、本堂としての偉容を示す。亨保6年(1721)に着工してから27年かかって、寛延元年(1748)に完成した。棟梁は近江八幡の名匠高木但馬。
 
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重文・御影堂。
開山親鸞聖人の木像を中央に、歴代上人の御影を両脇に安置する御堂。間口42.73m、奥行33.5m50、畳は725畳を敷き、その巨大さは現存する木造建築では全国では5番目の大きさ。寛永6年(1666)の上棟。
2000年から2008年にかけ大修理が行われた。
 
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御影堂・内陣厨子。開山親鸞聖人の木像と思われる。
 
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御影堂・脇内陣。桃山文化を髣髴とさせる。
 
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御影堂。入口上の高浮彫り。
 
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御影堂。入口上の高浮彫り。龍の雌雄か。金色の牙にキッチュ感があった。
 
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御影堂。入口上の高浮彫り。龍の雌雄か。
 
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御影堂。入口上の高浮彫り。鳳凰か。
 
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重文・通天橋。寛政
121800)年棟上。御影堂と如来堂を結ぶ。
 
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如来堂。内陣。御影堂より簡素だった。
 
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御影堂。東面。重厚感がある。
 
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鼓門。
専修寺の東側にある左右に長屋が付く四重の櫓門。建築年代は不明だが、1760年頃の絵図に描かれている。元は二重櫓であったが、幕末に現在の形に改築された。
寺内町に付き物の櫓門であった。
 
一身田寺内町の館に戻り、西端の桜門跡に向かう。
 
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毛無川。一身田寺内町の南の環濠として利用された川。西南端なので、東南端ほどの興趣はない。
 
予想以上に時間を使ったので、三重県総合博物館へ急いだ。

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