谷川士清(たにがわことすが)旧宅。国史跡。三重県津市八町。
2017年5月11日(木)。
谷川士清(1709~76)は、本居宣長と同時代の医者・国学者で、五十音順の国語辞典を日本で初めて作ったことで知られる。通称、養順。号、淡斎。
旧宅は津市街地の西外れの八町通りにあり、津と伊賀上野を結ぶ伊賀街道沿いにあり、付近は津城下の西の入口として栄え、学者などの文化人が多く住んでいた。
建物は通りに面した北向きの桟瓦葺き2階建ての質素な町屋で、1775年(安永4)に建築または改装されたと推測される。明治時代は人手に渡ったが、その後津市が購入し、1979年に解体修理された。現在は士清の著書や年表、家系図などが展示されている。
旧宅東100mほどに専用駐車場がある。
入場無料。女性職員が説明してくれた。本居宣長と並ぶ伊勢国が生んだ二大国学者の一人谷川士清の知名度の低さを嘆いていた。
1775年(安永4)の銘のある瓦。
連子窓。
谷川士清の辞世の歌。「何故に砕きし身ぞと人問わば それと答えむ大和魂」。
谷川士清は、宝永6(1709)年2月26日、伊勢国安濃郡八町の恒徳堂という屋号の代々の町医者の家の長男として生まれた。父は義章といい、医者としての評判は高く、津藩7代藩主となった藤堂高朗が生まれるとき立ち会っており、このことが後に士清と高朗が親密な交わりを結ぶきっかけとなった。
士清は、小さい頃から福蔵寺の浩天和尚と父に教えられた。21才の時に医学の勉強のため京都に向かい、福井丹波守から医師免許を受けた士清は、医学の他に儒学や本草学など様々なことを学んだ。特に、国学と密接な関係のある神道については、松岡仲良について垂下神道を学んだ。他にも華道や歌道の許状や伝書を受けた。5年間の学問生活ののち、享保20年(1735)8月、父の義章から帰郷を促され津に帰った。
津に戻った士清は、河北景を補佐として洞津谷川塾を開いて教育にあたり、近くの社に神道道場を設けて神道を教授した。
谷川家の家財道具類。
家業の町医者を継いだ士清は、父と同じく評判の名医で、内科と産婦人科を専門として地域に貢献した。
「日本書記通証」。
士清は「日本書紀」本文批評に没頭し,「日本書記通証」35巻(1751年脱稿,1762年刊行)を北野天満宮に奉納した。これは『釈日本紀』以後初めての書紀全体の注釈書で、学者としての士清の名を高めた。
第一巻付録の「和語通音」は我が国最初の動詞活用図表であり、国語学史上特筆すべき業績である。
「和語通音」を目にして感心した20歳年下の本居宣長は、士清の偉業に驚喜し、「すこぶる発明あり」と賛辞を送り、刺激を受けた宣長は「古事記伝」の著に着手する。
宣長は,明和2(1765)年に初めて士清に書簡を呈し,書簡の往復が始まった。士清は「古事記伝」の稿本を閲読したり,自著の「倭訓栞」稿本を示したりして学問上の交流が続いた。
「日本書記通証」を奉りける歌。
「和訓栞(わくんのしおり)」。全93巻。
日本初の五十音順国語辞典。士清は、日本語を研究する中で、言葉を一つひとつのカードに書き、その意味や使い方を詳しく記入していき、総語数20万8975語にも及ぶ古語・雅語・俗語までの言葉を集大成して辞書にした。
士清は安永5年、「和訓栞」の出版を目前にして、67才で亡くなった。その後、「和訓栞」の編纂は谷川家の人々や門人の手に引き継がれた。そして士清の没後110年余を経た明治20年『和訓栞』後編18巻が出版され、ようやく全93巻の刊行をみた。
谷川家はこの刊行事業達成のために代々の医師としての収入の全てを投入し、家屋すらも他人に売り渡すことになった。
本居宣長は、大著「和訓栞」編纂に対し、「谷川士清は国語学界の猿田彦である」という意味の序を記し、その業績を称えている。
谷川家処方書。安永~文政年間(1772~1829)。
多年にわたり複数の人々により書き継がれた薬処方などの資料。上記個所は、安永6年に長崎の蘭医吉雄耕牛に会ったときの聞き書きで、士清の嗣子士逸が書いたものと推定される。
谷川士清 素由禅師宛書簡。
素由は谷川家菩提寺の福蔵寺住職で。浩天和尚の弟子。地震のさい、素由の無事を案じて送った。
「勾玉考」。
士清は、実証的な古代史研究をも展開した。物産学にも造詣が深く,石の長者・木内石亭と親交があり、安永3(1774)年には「勾玉考」を家塾版として出した。この本には珍しい石のことが書かれている。序は本居宣長。
現在の津市野田で農民が掘り起こした銅鐸を、士清は米一俵で譲り受けて家蔵し、のちに嗣子士逸が専修寺に寄進した。
「読大日本史私記」。
士清は、水戸藩の編纂した「大日本史」に対し、「読大日本史私記」を著してその誤りを指摘し、痛烈に批判した。これが幕府からの弾圧を受ける要因となり、それまでも宝暦事件・明和事件で京都遊学時代の学友竹内式部を擁護してきた士清を、藩は「他参留」(領地外への外出禁止)の処分を課し、幕政に対して批判的な考えを持っていた嗣子士逸には「所払い」(領外追放)の処分を下した。
士清門下の津藩士も何人か罰せられ、藤堂藩藩校からは谷川学統は一掃された。これは、士清と親交のあった7代藩主藤堂高朗が隠退し、藩が水戸学の学風を導入したことも理由とされる。
士清の蔵書箱。
夥しい蔵書箱に納められていた蔵書は、「和訓栞」出版のためほとんどが売り払われたといい、外函のみが残っている。
反古塚に刻まれた士清の辞世の歌。
反古塚は谷川士清旧宅から北東徒歩5分ほどの谷川神社境内にある。
反古塚。
士清は安永4年、自らの著述の原稿やメモの類を、後世に誤った解釈がされないように石の櫃に納めて埋めた。これは神道家の慣わしで、一代の講義原稿や秘伝の書き留めなどは焼却するか埋めるということを守ったものである。これが士清が自ら築いた「反古塚」で、「何故に砕きし身ぞと人問わば それと答えむ大和魂」と刻まれている。
塚を築いた日から3日間玉虫が飛び回ったといいい、「玉虫塚」ともいわれている。これは奇瑞だと士清は諸家に歌を募集し、本居宣長はじめその一門も歌を寄せた。
士清には、大正4年に従四位が追贈され、公にその功績が評価された。また、昭和8年には反古塚の建つ古世子明神の社跡地に士清を祀る谷川神社が創建された。
谷川士清墓。国史跡。福蔵寺境内。
左が谷川士清、右が孫の士行(ことつら)の墓。
嗣子士逸の墓がないのは、士逸が津藩から反幕府的思想の持ち主とみられ、「所払い」(領外追放)の処分を受けたためとされる。
説明板。
谷川士清墓。右側面。
「宝永己丑二月廿六日生 安永丙申十月十日終」。
谷川士清墓。
正面には「淡斎 谷川士清之墓」。左側面「孝子士逸謹建」。
このあと、伊勢平氏発祥伝説地などを見学。