津城跡。お城公園東入口の模擬櫓。
2017年5月11日(木)。
津城は三重県津市丸之内にあり、津市街の中心部に位置する。北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これらを天然の大外堀としていた。江戸時代初期に築城の名手・藤堂高虎により近代城郭として大改修され藤堂家津藩32万石の藩庁となった。
2017年、続日本100名城に選定された。
三重県総合博物館の見学を終え、国道23号から津城跡方面へ向かうが、津警察署や高山神社付近には駐車スペースがないので、東入口の反対側道路にある有料路側帯に駐車した。
津城跡概要図。
江戸期の津城は中央に内堀で囲まれた本丸と、それに付属して東丸・西丸があり、本丸・東・西丸を取り囲んで二の丸が配された輪郭式の平城であった。
現在の城跡は「お城公園、お城西公園」として整備されている。また、その他の城址には津市役所や裁判所、津警察署などが建ち並んでいる。
東鉄門枡形。説明板。
津城本丸の東側に位置した虎口。
本丸跡の藤堂高虎像。
現在の津市の古称は安濃津(あのつ)であり、平安時代より伊勢国政治経済の中心地となっていた。鎌倉時代は藤原南家の流れの工藤氏を祖とする長野氏が支配していた。津城の起源は戦国時代の永禄年間(1558年 - 1569年)に、長野氏の一族の細野藤光が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことに始まる。
永禄7年(1564年)から織田信長の伊勢侵攻が始まり、永禄12年に織田信包(信長の弟)が安濃津城に入城した。信包は天正8年(1580)までに城郭を拡充し、石垣を普請し堀を巡らせて、本丸・二の丸・三の丸を整備し、5重天守と小天守を落成した。信包は母の土田御前や妹のお市の方、姪の茶々、初、江を引き取りこの城で養っていた。
文禄4年(1595年)、織田信包に代わり、豊臣家家臣の富田一白が入城した。一白の子、信高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍につき、西軍方の毛利秀元・長宗我部盛親軍3万の軍勢に城を攻撃された。迎える信高と援軍にきた分部光嘉の連合軍は1300人と劣勢であったため苦戦を余儀なくされ、城内の建造物の大半を焼失した。奮戦の末、木食応其の調停により開城となった(安濃津城籠城戦)。このときに、天守も焼失し、安濃津城も荒廃した。
天守はのちに富田氏が再建したが、寛文2年(1662年)の火災で焼失し、幕府への遠慮から再建されなかったと考えられている。
慶長13(1608)年、富田信高に代わり、藤堂高虎が伊予の今治から移封された。
関ヶ原の戦いの際の籠城戦で津城下は傷跡が大きい状況であった。城の規模も小さく、国持大名にふさわしい規模に拡張する必要があったが、高虎は命を受け他国の城の改修などに奔走して、なかなか自国の城に手を付ける余裕がなかった。
慶長16(1611)年になってようやく伊賀上野城と津城の修築に取り掛かることになり、まず伊賀上野城の大改修にかかり、高い石垣を持つ要害堅固な城を造り上げた。
一方、津城は平時の居城として必要な規模と、伊勢街道第一の町としての体面と美観とを備えるための町づくりを進めた。
城の周囲に武家屋敷をつくる一方で、参宮街道を城下に引き入れ、城の東に堀川を切り開いたりするなど、明治維新まで続く藤堂家津藩32万石の城下町の基礎を築いた。
本丸跡南側の石積み。
津警察署北側の小公園へ下る石段がある。
本丸跡南側の石垣。
藤堂高虎が、本丸の北側と東側を拡げて、さらに高い石垣を積み増しした痕跡が残る。
本丸跡から西ノ丸跡へ向かう。
内堀が残る。左側に藩祖高虎を祀る高山神社がある。
西ノ丸跡と内堀。
明治4年廃藩置県により津城は廃城となり、以後、建造物は破却されていった。現在では、本丸・西ノ丸・内堀の一部を残すのみとなったが、「お城公園」として西ノ丸跡に日本庭園が整備された。
西ノ丸跡の入徳門。
日本庭園入口には藩校有造館の正門の入徳門が移築現存している。
入徳門の説明板。
このあと、谷川士清旧宅、平氏発祥伝説地などを見学。