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三重県津市 三重県総合博物館 松阪市の奇祭「射止神事」 安濃津 地形・景観復元模型

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旧国名。三重県総合博物館。三重県津市。
2017511日(木)。
三重県総合博物館は20144月に、以前の津駅付近にあった県立博物館が移転して開館したという。三重県美術館と併せて県立博物館も一度見学した記憶がある。思い出したが、自然分野と人文分野が共存した博物館であることは受け継いでいた。
 
分野が広いと総花的な展示で薄い内容となりやすいし、古墳時代や戦国時代の歴史展示はほとんどなく、期待とは違っていた。
 
志摩と紀伊の境界については、戦国時代末期に新宮の堀内氏善が現紀北町までを支配下に入れて以後は、同町までが紀伊国になったとされる。
 
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月出の中央構造線露頭。国天然記念物。
松阪市飯高町月出付近から宮川河口付近を境界に、南北で全く異なった状況で変成した岩石が隣り合っている。
これらの岩石は、付加体の一部がプレートの動きによって圧縮されたり、マグマが発生したりすることにより、変成を受けたものである。
北側の領家帯(りょうけたい)の岩石は、地下10km程で形成された「片麻岩」と、マグマが固まったゴマ塩模様の「花崗岩」で、1億~7000万年前頃に活動したマグマと、その熱で変成した岩石である。
一方、南側の三波川帯(さんばがわたい)は、地下20kmで形成された「黒色片岩」などの変成岩である。
これらの境界は、中央構造線とよばれ、九州から、房総半島まで1000km以上続くと推定される西日本を分断する大断層である。現在の中央構造線は、海面下に沈んでいたり、折れ曲がったりしているが、もともと1億年ほど前に、大陸の東縁部に、南から来た海洋プレートの動きに引きずられて割れ目が生じ、アジア大陸の東縁に発達した巨大断層だったと推定される。
月出では、最大規模の中央構造線の露頭がみられる。
見学しようと思ったが、アクセス道路が通行止めの情報があったため、見合わせた。
 
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北山川穿入蛇行。熊野市木津呂。
2月に新宮市島津の裏山から絶景を眺めた。この写真は空撮。
 
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射止神事のつくりもの。
松阪市上七見町の奈々美神社。毎年2月の射止神事では、お面をかぶった二人が男女をかたどった大根のつくりものを持って集落を歩く。
 
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射止神事のつくりもの。
 
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射止神事のつくりもの。
この民俗行事は知らなかった。
愛知県でよくニュースで放送されるものに、西尾市の「てんてこ祭」がある。毎年1月3日に行なわれる五穀豊穣を祈念するお祭では、赤装束の厄男が腰に男性のシンボルをかたどった大根を下げ、「てんてこ。てんてこ。」という小気味良い太鼓のお囃子に合わせて腰を振りながら町内を練り歩くもの。
 
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安濃津 地形・景観復元模型。
明の茅元儀の《武備志》日本考では博多津(福岡県)、坊津(鹿児島県)とならんで日本三津(さんしん)に数えられている。
安濃津は京に近く、平安時代から京の重要な外港・東国への玄関口として重要な位置を占めた。
古来、伊勢神宮への供米を送る積出し港であり、北からの神宮への供祭物輸送船の寄港地であった。
平安時代、平維衡が伊勢守となり、その子貞衡がここに土着し、平氏一族は桑名、白子の要港とともに根拠地とし勢力を広げた。
鎌倉時代も商港として繁栄した。室町時代、将軍足利義持・義教が参宮の途次宿泊したとき、すでに40005000軒の町並みがあったという。
明応7825日(1498911日)に発生した明応の大地震・津波で壊滅的な被害を受けて廃れたとされる。当地を通りかかった連歌師の宗長は45千の廃墟や堂塔の跡を残すのみの荒野となり、犬の姿や鳥の鳴き声すら稀であると手記に記録している。
 
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安濃津 地形・景観復元模型。説明図。
安濃津の町は現在の岩田あたり、港はその南方の垂水・藤方あたりにあったようだ。
 
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安濃津 地形・景観復元模型。説明図。
 
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安濃津の地形と景観。
 
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潟湖。
古代から中世にかけて、湊は潟湖(ラグーン)内の砂嘴に設けられることが多かった。津軽の十三湊が有名。
 
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安南(ベトナム)で活躍した角屋七郎次郎。
中世の伊勢には東国に多数分布する伊勢大神宮領から送進される年貢物の集散や陸揚げを行う大湊など港津が発達し,また畿内と東国を結節する地理的条件に恵まれたため桑名のような自治都市の成立もみられ,多くの廻船業者,問屋が輩出した。
さらには海外貿易港として発展し,これら商人の中には大湊の角屋氏のように海外貿易に進出するものも現れた。
 
角屋家の祖先は信濃国松本の出身で、永享年間に伊勢国山田に移住。七郎次郎元秀の代に伊勢国大湊に移住して廻船問屋を開始し、「角屋」と号する商人になった。元秀の子・秀持は本能寺の変において一揆に追われた徳川家康の危急を救い、徳川氏の御用商人となった。
2代目忠栄の代には蒲生氏郷の松坂城築城と城下町の楽市楽座の開始に伴い、松坂を拠点として活動するようになった。
 3代目忠祐の代、貿易中に鎖国令が出て帰国できなくなった忠祐の弟・角屋七郎兵衛栄吉がホイアンに永住することになるという出来事もあった。11代秀貞の代からは再びもとの山田の地に移住した。
ホイアンの名物料理「カオ・ラウ」は、三重の伊勢うどんがルーツで、日本人が伝えたといわれる。
 
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伊賀・伊勢・志摩・紀伊国の国印。復元品。
 
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藤堂高虎の書状。船で人を送るよう依頼した手紙。
 
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藤堂高虎の書状。
 
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藤堂高虎の書状。
 
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居宣長「玉勝間」刊本。
 
長時間の見学を予定していたが、短時間で終わってしまった。
 
このあと、津城跡、谷川士清旧宅、平氏発祥伝説地などを見学。

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