松坂城跡。本丸下段から東方向。商人地区。松阪市。
2017年5月12日(金)。
松坂城は北を流れる阪内川を防御線とした要害の地にあり、丘陵を切り通して、城郭の中核部の北丘と、城の鎮守神を祀った八幡宮のある南丘に分断した。
北丘の最頂部に本丸を築き、そこを中心に東側にニノ丸、西側にきたい丸、南側に隠居丸を配置し、両丘の周囲を三ノ丸とした。本丸を中心に渦巻き状に曲輪を巡らせた配置は、渦郭式と呼ばれる。
本丸は上下2段に分かれている。本丸下段には、南に太鼓櫓、東に月見櫓、北に遠見櫓を構えていた。
松坂城跡。本丸上段、天守台。
本丸上段には三層からなる天守があった。天守と隣り合うように敵見櫓、対角の東角に金の間櫓があり、それぞれの櫓の間には多聞が巡らされていた。
このような天守と二基以上の櫓が連結している構造は「連立式天守」と呼ばれるもので、近世城郭の先駆的なものとして高く評価されている。
天守閣跡。本丸上段。
周囲には多聞跡の石垣があり、ぐるりと囲まれていた。
桜松閣(旧鈴屋遺蹟保存会事務所)。松坂城隠居丸跡。国登録。
隠居丸は本丸の南にあり、2棟の道具蔵と宝蔵、米蔵があった。後に米蔵は移築したとされ、御城番屋敷の敷地にある土蔵がそれといわれている。
現在、隠居丸跡には、松阪出身の江戸時代の国学者・本居宣長の旧宅「鈴屋」が移築されている。明治42年の移築と同時に隣接して現在の桜松閣が建設された。
本居宣長旧宅・旧鈴屋遺蹟保存会事務所の説明板。
本居宣長旧宅。国特別史跡。
本居宣長旧宅の建物は1691年(元禄4年)に本居宣長の祖父小津三四右衛門定治が隠居所として建てたものである。最初建物は松坂職人町に建てられ、後に松坂魚町に移築された。
本居宣長の先祖は代々伊勢国の北畠家の家臣であり、本居家初代の本居武秀は蒲生氏郷に仕えた武将であった。その子七右衛門の代から氏を小津と改めて松坂に住み、小津家は木綿問屋を営んで江戸店持ちの豪商として栄えていた。
宣長が11歳のとき、父の三四右衛門定利が病没した。商いは義兄の宗五郎定治が継いだが、小津家の家運は次第に傾き始めた。翌年、母かつは宣長とその弟1人と妹2人を連れて、5人家族で魚町の隠居所に移り住んだ。
宣長はこの後、若い頃京都で医学を学んだ7年間を除いて、72歳で亡くなるまでの間この家で暮らした。義兄の死後宣長は小津家を継いだが、商いはやめ、氏を祖先の本居に戻した。そしてこの家で町医者を営むかたわら、『古事記伝』の執筆をはじめとする日本古典の研究や後学の指導に取り組んだ。
宣長が53歳のとき2階の物置を改造して新しい書斎を作った。鈴を愛好した宣長は書斎の床の間の柱に掛鈴を吊り下げ、執筆活動の息抜きにそれを鳴らして音色を楽しんでいたという。宣長はこの書斎を「鈴屋」(すずのや)と名づけた。
本居宣長旧宅。建坪74.25㎡。
反対側に見学用通路が設けられており、二階「鈴屋」の特異な間取りを眺めることができる。
本居宣長旧宅。
「店の間」では、宣長が医療活動をしていた。昼は薬箱を持って患者の家を回っていた。
本居宣長旧宅。
「奥の間」は、来客との応接間であったが、二階増築までの書斎であり、また講釈会場や歌会に使用された。
本居宣長旧宅。二階への上り口。三畳の間。本来の上り口。
本居宣長旧宅。二階「鈴屋」への本来の上り口。
隣接している本居宣長記念館へ向かった。