松坂城跡。松阪市。
2017年5月12日(金)。
斎宮歴史博物館を見学後、松坂城跡へ向かった。城跡北側にある広大な無料駐車場に駐車。本居宣長記念館下にも無料駐車場があるようだが、城内の石垣に囲まれた狭い上り坂の先にあるため、すぐ南側の道路を走っていたのにもかかわらず、見過ごしてしまった。
松坂城は、市街地のほぼ中央に位置し、伊勢平野を流れる阪内(さかない)川と櫛田川に挟まれた標高35mあまりの独立丘陵上に築かれている。
1584年(天正12)羽柴秀吉により伊勢国を与えられ、松ヶ島城に封ぜられた蒲生氏郷が、飯高郡矢川庄
四五百の森の独立丘陵に目をつけ、夜を日に継いで同16年(1588)に入城できた平山城がかつての松坂城です。1584年(天正12)に伊勢国を与えられた蒲生氏郷は松ヶ島城に入った。しかし、松ヶ島城は狭小なため、南方にある四五百(よいほ)の森の独立丘陵に目をつけ、翌年から築城を始め、同16年に入城し、松坂城と名付けた。
蒲生氏郷は、松ヶ島城下の商人や寺社を移住させ、また旧領の近江日野の商人を呼び寄せ、城下町の整備を行った。
城は大手を北東に、搦手を南東に置き、本丸を中心に二の丸・三の丸・希代(きたい)丸・隠居丸などの曲輪を配置し、本丸には3層の天守が建てられた。本丸・二の丸をはじめ、各曲輪には野面積みによる豪壮な石垣が築かれ、とりわけ天守台の石垣はよく残っている。
1590年(天正18)、小田原攻めの軍功により、氏郷が陸奥国会津に移った後は服部一忠が入城した。しかし、一忠は豊臣秀次事件に連座したとされて切腹、その後に入った古田氏も転封され、1619年(元和5)以降、南伊勢が紀州藩の藩領となると、その統治の拠点となった。
右奥に見える城内北端の松阪市立歴史民俗資料館へ向かう。
松阪市立歴史民俗資料館。
松阪市立歴史民俗資料館は、もとは飯南郡図書館で、明治44年(1911)建築に着工、翌45年に開館し、昭和53年から歴史民俗資料館として使用されている。
木造2階建で伝統的な和風の意匠をもち,左右に翼部、中央に玄関が突出した左右対称の構成をとる。設計は清水義一である。近代における伝統的な和風建築の展開を知ることができる好例であるとして、国の登録有形文化財となっている。
松阪商人の館との共通入場券を購入して入館。
店の間。
江戸時代の店を復元している。「黒丸子」の看板が懸かっている。
池大雅が書いた薬種商桜井家の看板。
参宮街道沿いの湊町にあった薬種商の三代目主人桜井七郎右衛門は旅人の困っている様子を見て正徳6年(1716)に足の膏薬「萬能千里膏」と腹痛薬「黒丸子」を売り出して成功した。
二つの看板は当時京都の書画の大家だった池大雅が書いたもので、金箔地に黒漆で書かれた看板は「金看板」とよばれた。
企画展「松阪商人長谷川家の餅の博物館展」。餅舎(もちのや)の再現コーナー。
松阪の有力商人長谷川家の11代当主可同(かどう)(1868~1925)が、全国各地から収集した江戸期~大正期にかけての「餅」に関する様々な資料を展示。
可同は1920年、日本初とされる餅の博物館「餅舎」を自邸敷地内に造った。「餅舎」は観光名所として名をはせたが、戦争のため、1941年ごろ閉館した。
餅の包み紙の複製が展示され、紅白の鏡餅の形をした座布団が置かれている。
伝・蒲生氏郷所用「銀鯰尾形兜」。複製と思われる。
松坂城跡模型。上が北。右上が歴史民俗資料館敷地、右中央が大手門。中央上部が本丸・天守台。
松阪木綿の縞帳。
江戸時代、松阪もめん(当時は伊勢木綿、もしくは勢州木綿と呼ばれた)が大流行した。江戸の人口が100万人といわれた当時、年間50数万反を売り上げたといわれる。
特に日本橋大伝馬町一丁目には、伊勢国出身の木綿問屋が集まり、「一丁目(大伝馬町)は伊勢店ばかり」と揶揄されるほどで、歌川広重の錦絵にもその様子が描かれている。
当時、江戸では、倹約令によって華美な着物を堂々と着られなくなっており、遠目から見ると無地のように見えて近づいてみると、様々な縞柄模様が粋でおしゃれだとして、江戸っ子をとりこにした。
伊勢木綿のなかでも、特に縞柄のものを「松坂嶋」と呼んで、大流行し、歌舞伎の中にも、縞柄の着物を着ることを「マツサカを着る」というセリフがあるほどであった。
松阪の貿易商、角屋七郎兵衛によって、安南国交趾(コーチ・現ベトナム北部)周辺で織られていた「柳条布(りゅうじょうふ)」という、文字通り柳の葉の葉脈のように細い縞柄の綿布がもたらされた。「松坂嶋」のシマは、嶋渡り(舶来)からきており、それがシマ柄といわれるようになったといわれる。
染料。藍などの植物染料のほか、動物や鉱物などが用いられた。
機織り機。
伊勢産の水銀鉱石と伊勢白粉関係資料。
7世紀以降朝廷に献上された朱砂(水銀)の多くは伊勢の丹生鉱山(多気郡多気町)の産物であったと考えられている。特に奈良東大寺の虞舎那仏像(大仏)の建造の際には、熟銅73万7560斤とともに、メッキ用に金1万436両、水銀5万8620両、さらに水銀気化用に木炭1万6656斛が調達されている。この際に使用された水銀が全て伊勢産で賄われていたかは不明だが、その後、戦乱によって損壊した大仏を再建するために用いられた水銀は、全て伊勢産であったと考えられている。
中世には、丹生には日本で唯一、水銀座と呼ばれる座が存在した。朝廷の中心に位置する摂関家が本所になっていたのではないかと考えられている。
室町時代には、丹生産の水銀は従来の用途の他に、伊勢白粉の不可欠な原料として使用されることになった。
伊勢白粉は、丹生鉱山に近接する松阪市射和(いざわ)地区を中心に生産されていたので射和軽粉(かるこ)ともいう。水銀系の白粉の成分は、塩化第1水銀(甘汞)であり、透明の結晶体である。原料は水銀の他に、食塩・水・実土(赤土の一種)である。
製法としては、水銀・食塩・水・実土をこね合わせ、鉄釜に入れて粘土製の蓋である「ほつつき」で覆って約600℃で約4時間加熱する。すると、「ほつつき」の内側に白い結晶が付着する。これが塩化第1水銀であり、これを「ほつつき」から払い落とし、白い粉状にしたものが水銀白粉である。
軽粉を作る竈や水銀と混ぜる赤土は、射和にある「朱中(しゅなか)山」の土が最もふさわしく、ホツツキを作る土も射和に近い多気町荒蒔の土が使われたとの報告もある。
白粉は鎌倉時代に中国から製法が伝来したとされる。当時の白粉の製法には水銀の存在が不可欠であり、丹生鉱山が存在するこの地域に伝播することになった。
射和の軽粉商は、白粉の他にも小間物等も扱っていた。当初、白粉は化粧品であると同時に、腫れ物といった皮膚疾患を治す薬品として貴族の間で珍重されていた。また、時としては外用ばかりでなく、腹痛の内用薬としても用いられていた。これが一般に広まったのは、伊勢神宮の御師が諸国の檀那に大神宮のお祓いと共に白粉を配るようになった事がきっかけである。
室町末期には鉛白粉が輸入されだし、丹生鉱山の水銀から輸入水銀に原料を転換している。16世紀頃に梅毒が流行、18世紀頃になると伊勢白粉は駆梅薬として再び注目される事となった。また、シラミ除けの薬として人ばかりでなく牛馬にも使用された。
明治時代に入ると製造過程で水銀中毒が続発した事や洋式の第1塩化水銀の製法が普及した事、医薬品の法的規制の強化によって窯元は減少していった。1953年(昭和28年)に最後の窯元が廃業して伊勢白粉は途絶した。
射和の繁栄は軽粉がもたらした。そして、松阪商人の江戸での活躍を支えたのも、松阪木綿とこの軽粉が築いた富だと言っても過言ではない。
1893年アメリカのシカゴで開催された万博コロンブス博覧会に出品された射和軽粉の小瓶セット。