ラテニウム考古学公園・博物館の入口。スイスのヌーシャテル湖畔。右が公園の入口。左がヨットハーバー。2012年6月19日(火)。リヨン・ペラーシュ駅8時27分発のTERでジュネーブに10時27分に着き、11時14分発の列車に乗って12時14分にヌーシャテル駅に着いた。坂を下りたバス停からバスに乗り北へ向かうと、数駅でラテニウム考古学公園最寄のバス停に到着。湖畔に向かって数分で公園の入口に着いた。ラテニウム考古学公園・博物館はジュラ山脈の西南端に位置するヌーシャテル湖の北西岸にあり、
ここから北東の北岸にあるラ・テーヌ村で発見されたケルト文化の遺物を中心に石器時代から中世までのこの地方の歴史を紹介している。
ここから北東の北岸にあるラ・テーヌ村で発見されたケルト文化の遺物を中心に石器時代から中世までのこの地方の歴史を紹介している。
古代ケルト文化のうちラ・テーヌ文化は鉄器時代後期の文化で、鉄器時代前期のハルシュタット文化から特に断絶することなく発展した。
ラ・テーヌ文化はBC5世紀頃からローマによって征服されBC1世期まで東フランス、スイス、オーストリア、西南ドイツ、チェコ、スロバキア、ハンガリーで栄え、ローマ以前にガリアに進出したギリシア人やエトルリア文明などの地中海からの影響を強く受けている。
ラ・テーヌ文化はBC5世紀頃からローマによって征服されBC1世期まで東フランス、スイス、オーストリア、西南ドイツ、チェコ、スロバキア、ハンガリーで栄え、ローマ以前にガリアに進出したギリシア人やエトルリア文明などの地中海からの影響を強く受けている。
ラ・テーヌ文化の名称はこの時代の遺物が最初に発見されたラ・テーヌ村に因んで名づけられた。
遺跡からは全部で2500点以上の遺物が出土しているが、その多くは金属製である。特に武器が多く、ほとんど摩耗していない剣が166本、槍の先端部が270個、盾が22個、さらにブローチ・道具・チャリオットの部品などが385個出土している。人骨や動物の骨も多数出土している。
この遺跡がどういう場所だったかという解釈は様々であるが、戦いに勝利した後に生贄を捧げる儀式の場だったとする説もある。
遺跡からは全部で2500点以上の遺物が出土しているが、その多くは金属製である。特に武器が多く、ほとんど摩耗していない剣が166本、槍の先端部が270個、盾が22個、さらにブローチ・道具・チャリオットの部品などが385個出土している。人骨や動物の骨も多数出土している。
この遺跡がどういう場所だったかという解釈は様々であるが、戦いに勝利した後に生贄を捧げる儀式の場だったとする説もある。
ラテニウム考古学公園。新石器時代のメンヒル。直立に立てられた石は首長・先祖・神を記念するものであろうか。日本でも縄文時代の立石は知られている。
湖畔に沿って各地から移築整備された考古資料が展示公開されている。
背後にヨットハーバーが見える。
湖畔に沿って各地から移築整備された考古資料が展示公開されている。
背後にヨットハーバーが見える。
ラテニウム考古学公園。新石器時代のドルメン。支石墓。3000年ほど前のもの。スイスでは稀という。
ラテニウム考古学公園。滑り台もある。奥にはラ・テーヌの遺跡の模様が一部復元されている。
ラテニウム考古学公園。ヌーシャテル湖の北岸及び東岸。左の北岸にラ・テーヌ。中央の東岸奥の方向にはスイスの首都ベルン。東岸のヴーレイ山の麓にもラ・テーヌ期の遺跡がある。
ラテニウム考古学公園。墳丘。青銅器時代中期。BC14世紀頃。
ラテニウム考古学公園。ケルト時代の井戸。
ラテニウム考古学公園。一部復元されたラ・テーヌ村の橋の遺構。BC3世紀からBC1世紀頃のもの。橋はラ・テーヌ村の湖畔に注ぐティエール川から1965年に発見された。橋の下からは生贄と思われる20体ほどの人骨や動物の死骸、武器、装身具などが発見された。
ラテニウム考古学公園。対岸のラ・テーヌ村方面を眺める。
ラテニウム考古学公園。復元された青銅器時代末期のヌーシャテル湖畔に存在した高床式住居。復元されたボートが家の下に置かれている。
ラテニウム考古学公園。ラテニウム博物館とジュラ山脈。
ラテニウム考古学公園。ラテニウム博物館とジュラ山脈。
ラテニウム博物館の入口。フランス語、ドイツ語、イタリア語、英語の次に日本語で歓迎と書いてある。
13時過ぎに入館し、15時頃まで館内を見学した。
13時過ぎに入館し、15時頃まで館内を見学した。