保護蕃収容所。清流部落余生記念館。
2017年10月5日(木)。
霧社事件で蜂起したのち、鎮圧された蜂起蕃の生存者たちは保護蕃収容所に入れられた。
霧社事件後収容所人口表。
主に、露多夫(ロードフDrodux)収容所と西寶収容所(シーパウSipo、スークの一小部落名)に収容されたが、道澤(タウツアToda)、土魯閣(トロックTuruku)にも一部が収容された。
保護蕃収容所。「霧社討伐写真帖」におさめられた有名な「霧社の三美人」といわれる写真。
左、マヘボ社のバカン・ワリス。中央、パーラン社のオビ・ピリン。右、マヘボ社のウンマ・ワリス(バカン・ワリスの妹)。
保護蕃収容所。
保護蕃収容所。
第二霧社事件。
1931年4月25日未明、蜂起に与した後に投降した霧社セデック族生存者を味方蕃タウツア社が襲撃し、216人が殺され、生存者は298人となった。襲撃側のタウツア社の死者は1名であった。
霧社事件の後始末で警察が味方蕃から銃器を回収する寸前の出来事であったが、当時の警察官小島源治本人から、警察がタウツア社に襲撃を唆したとの証言がされている。
タウツア社への処罰はなされず、逆にホーゴ社・ロードフ社・タロワン社・スーク社の蜂起蕃の土地を与えられた。
鎮圧戦の後半、蜂起側の指揮者タダオ・モーナは戦いの不利を悟り、マヘボ岩窟で各社に解散を命じた。ホーゴ社とロードフ社の1隊11人は故郷への帰還をめざし、見晴牧場に辿り着いた。空腹を満たすため、牛を銃で殺し、ハボン渓の近くの小屋で食べた。
銃声に誘われて、タウツア社人が賞金を求めて来ることを予知し、迎撃に都合のよいハボン渓支流のトブヤワン渓谷に誘い込んで、袋のねずみのようになったタウツア社人隊約50人に一斉射撃をした。タウツアのトンバラ社頭目タイモワリスが戦死するなど、首級13個を取り勝利した。これはハボン渓の戦いといわれる。
収容所襲撃はそのタイモ・ワリスの死への報復という面もあった。
第二霧社事件前後収容所人口表。
第二霧社事件要図。
4月24日、台中州三輪警務部長、能高郡宝蔵寺警察課長らの一行は、タウツア社・トロック社の味方蕃への貸与武器を回収のために両社へ赴いた。宝蔵寺警察課長はタウツア駐在所巡査小島源治に、タウツア社人に収容所襲撃を教唆するよう密命を与えた。
25日未明、タウツア社人210人は銃90丁、蕃刀106丁を持って、ロードフ収容所とシーパウ収容所を襲撃した。保護蕃のうち195人が殺害、19人が縊死、6人が行方不明となり、101人が首狩りされた。
タウツア駐在所前の首級。
首狩りを終えたタウツア社人はタウツア駐在所に出頭して、自分の名前とどこで取ったかを報告し、駐在所当局は首の登録名簿を作成した。そのさい、ホーゴ社のピホ・ワリス(高永清)が通訳として手伝った。
警察当局はこれ以後も蜂起蕃社への報復主義を貫いた。鎮圧戦のさいも、投降した戦士は日本人遺族の妻たちに報復のため斬殺され、日本軍も試し切りといって斬殺した。