清流部落の風景。清流部落余生記念館。
2017年10月5日(木)。
1階の展示室を見終わって、これで終わりかと思ったが、2階は何かあるのかと思い、外階段を昇った。
展示があることが分かったが、ベランダから村の風景が見えた。民家の差し屋根に猫が寝転がっていて面白かった。
清流部落余生記念館の広場。
余生紀念碑と壁画。
霧社事件の後始末として、台湾当局の理蕃政策により、かねてより「要移住奥蕃」として移住計画のリストにのっていたタウツア社、トロック社の「前山」地帯への移住が促進された。
蜂起蕃の川中島への移住が強制的であったのに対し、味方蕃の霧社前山地帯への移住は論功行賞的なものであった。
タウツア社人に旧ホーゴ社・ロードフ社・タロワン社・スーク社の土地を与え、180人を桜・ホーゴへ移住させた。トロック社人300人には旧ボアルン・マヘボの土地を与えた。
帰順式。
1931年10月15日埔里の能高郡役所構内で、霧社反抗蕃帰順式が挙行された。川中島から代表として男子83名と女子23名が参加したが、男子のうち23名はそのまま留置場に拘留された。
帰順指揮とは名目で蜂起に参加した疑いのあるものを逮捕する口実であった。
また、翌16日の霧社でのパーラン社・タカナン社・カッツク社の家長会議でも15人が逮捕された。その後も、川中島では反乱容疑者の逮捕が相次いだ。
抗日部落留置人数および刑期。
逮捕者は拘置1年から3年の刑を受けたが、病獄死と記されて帰ってこなかった。実際には全員が警察によって秘密裡に殺されていた。
抗日6部落の霧社事件前後の人口表。
川中島への強制移住。
1931年5月6日抗日6部落の生存者298人は霧社の収容所から川中島へ強制移住させられた。
標高の高い地域から低い地域に移され、マラリアなどの病気で亡くなる者や、境遇を悲しんで自殺するものも多く、1937年には230人に減ってしまった。
5月7日、主だったものが臨時の駐在所に集められ、総督府の森田理蕃課長から訓示を言い渡された。
農業に専念すること。当分、狩猟は禁止する。田畑や家を造ることなど。
移住後1年目の川中島。上が南で北港渓、下が北で駐在所。
駐在所の周りを白い土塀が囲んでいる。駐在所には50人の警察官が暮らす官舎などが立てられていた。駐在所の左には、教育所があった。
川中島教育所。1931年に設立された。
1939年に万大ダムの建設が始まり、パーラン社・タカナン社、カッツク社の人々661人が川中島と眉原の間に移住した。中原に設立された教育所に、眉原と川中島の教育所がのちに統合された。
川中島教育所。
川中島教育所。運動会。
新・理蕃政策大綱。写真は霧社公学校の原住民学童・教員。
理蕃警察は、先住民族の生殺与奪を握っており、そのような中、理蕃事業の先進地域と見なされていた霧社で、最大にして最後の先住民族蜂起である霧社事件が1930年10月27日に発生した。
この蜂起は日本の警察と軍によって鎮圧されたが、これに大きな衝撃を受けた総督府は、理蕃政策そのものの抜本的な見直しを迫られた。
新たに台湾総督に就任した太田政弘は、着任した訓示の中で霧社事件の善後策を政治課題とすることを表明した。太田の下で理蕃体制の再建を図った新警務局長井上英や理蕃課長石川定俊は、同事件の原因を特定しようとした。井上は、同事件の原因を「警察官が往々にして欺瞞等をもって蕃人に臨むこと」や「官紀上許すべからざる非違」があったと示唆した。理蕃警察官の質や勤務条件に「理蕃の根本問題」を見て取ったのである。
1931年12月28日、「理蕃政策大綱」を制定し、理蕃警察官の「座右の銘」とさせた。同大綱第1項には、「理蕃は蕃人を教化し、其の生活の安定を図り、一視同仁の聖徳に浴せしむることを以って目的とする」とある。
このとき「一視同仁」の対象が「蕃人」では、具合が悪いので、先住民族の呼称を、平地に住む「熟蕃」は「平埔族」に、山地に住む「生蕃」は「高砂族」へとそれぞれ改めた。すなわち、「理蕃」をして先住民族の征服ではなく、「一視同仁」という高邁な事業として昇華させ、警察官に高邁な天職意識を植え付けるとともに、先住民族への憎悪軽視の対象としないことを意識させることにより、霧社事件のような「不祥事」の再発を防ごうとしたのである。
霧社農業指導所(現・仁愛高農)の原住民青年。
原住民の都市見学旅行。