川中島神社。清流部落余生記念館。
2017年10月5日(木)。
台湾総督府は国民精神涵養のため、各地に神社を建設した。川中島神社は1937年12月25日に竣工した。現在の余生記念館の場所にあたる。
毎年10月28日に祭典が挙行された。
川中島神社。
原住民部落の日本人僧侶。
皇民化運動。
1937年に日中戦争が始まると、武官総督制が復活し、本格的な皇民化運動が推進された。
1937年4月から、台湾人の母語の使用が制限され、新聞の漢文欄も廃止され、伝統的宗教行事も禁止された。1941年、台湾各地に皇民奉公会が設立された。さらに、青年団、部落振興会などが組織された。
さらに日本語の使用強制、天照大神の奉祀、国旗掲揚、君が代斉唱や日本式姓名への改姓名運動が終戦直前まで強行された。
川中島青年団。
皇民化運動の一環として、和服を着用した原住民。
皇民化運動の一環としての青年の鍛錬活動。
皇国的臣民。
皇国的臣民。
皇国的臣民。
高砂義勇隊。
1941年12月の太平洋戦争の勃発後、先住民族の青年たちは南方作戦へ動員された。陸海軍から供出を命ぜられた総督府が、軍後方任務の労務者、山地戦要員として7回ほど「高砂義勇隊」を編成して先住民族を南方戦線に送った。その高砂義勇隊を指揮したのは、理蕃警察官であった。「蕃社」における警察支配の構造がそのまま戦場に移動していった。
天皇と国家に対する忠誠を示した者は日本人同様に顕彰されたので、太平洋戦争時の高砂義勇隊には自ら志願して戦地に赴いた原住民が多くいた。
フィリピン、ニューギニアなど密林地帯の戦場に投入された。隊員は軍属であり軍人ではないが戦闘に参加し、戦死者の割合が作戦を共にした軍人よりも多かったといわれている。
川中島からは33人の青年が出征した。そのうち、20名が南方戦線、13名が花蓮港に派遣された。南方戦線へ送られた者のうち、12名が戦死、残りは無事復員した。
ニューギニアとソロモン群島に派遣された川中島の青年。昭和17年の第2回高砂義勇隊員。
右端はオビン・タダオの弟ポホク・タダオ(川村忠夫)。ニューギニアで戦死した。中央がワリス・ピホ(米川信夫・高成桂)。
川中島の第2回高砂義勇隊3名と見送りの青年団。
川中島の高砂義勇隊。
霧社での愛国映画「サヨンの鐘」撮影関連写真。左から3人目が李香蘭。霧社・桜部落がロケ地となった。
中央の若者は、霧社事件で殺害された霧社分室主任・佐塚愛祐の長男・佐塚昌男。右の中年女性は母親のヤワイ・タイモ(マシトバオン社頭目の娘)。出征前に霧社に帰郷したさい、記念写真として撮られたもの。
「サヨンの鐘」は実話をもとにしている。
1938年(昭和13年)、日本統治下の台湾・台北州蘇澳郡リヨヘン社に駐在していた日本人の巡査田北正記に召集令状が届き、出征することとなった。その巡査は村の学校の教師も務めるなど面倒見がよく、村人から慕われていたため、下山する際の荷物運びを村の青年たちが申し出た。
17歳の少女サヨン・ハヨンもその一人だった。一行は悪天候の中出発したが、途中の川に掛かった丸木橋を渡る際、荷物を背負っていたサヨンは足を滑らせて増水した川に落ち、命を落とした。
この話は、出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にしたということから、台湾先住民宣撫のための格好の愛国美談となって広まり、台湾総督府によってサヨンを顕彰する鐘と碑が遭難現場付近に建てられた。これが「サヨンの鐘」と「愛國乙女サヨン遭難の碑」である。
映画「セデック・バレ」で使用された小道具類。
映画「セデック・バレ」で使用された小道具類。