戦後の川中島・清流。清流部落余生記念館。
2017年10月5日(木)。
終戦後、霧社は台中県埔里鎮に編入され、1946年仁愛郷が成立した。1949年国民党軍が台湾に来た。川中島は1950年南投県仁愛郷互助村清流となる。政府は民族平等の国策を採り、原住民は平地山胞と山地山胞に分類された。国民党政府の中国化政策のもと、原住民文化もわずかながら守られていった。
原住民の歌舞。
山地学童の中国化教育。
山地学童の運動会。「国徴舞」。
霧社抗日記念碑。
1953年、霧社の警察分局(旧・霧社分室)の後方に防空壕を掘ったところ、30数体の人骨が発見され、霧社事件の投降者たちが殺されたものと断定された。白骨体は両手を針金で後ろ手に縛られてあった。足の甲にヒノキの板に釘で打ちつけられ、首を切り離されたものもあった。
投降者は音をたてないように、銃を用いずに日本刀で殺したのであった。足の甲を板に打ち付けたのは、武器の使い方をしらない遺族の女たちに殺させるためだった。
当時の仁愛郷郷長の高永清(ピホ・ワリス。オビン・タダオの再婚した夫)の提唱により、国民党政府の抗日の宣伝として、
1953年、霧社抗日記念碑が建立された。
除幕式で霧社の子供たちを代表して謝辞を述べたのは霧社事件で殺された霧社分室主任・佐塚愛佑とヤワイ・タイモの娘・下山豊子の娘であった。
1953年、霧社桜台に建立された霧社抗日記念碑と現在の抗日記念碑。
「モーナ・ルーダオ精神不死」。
1973年10月、台湾大学医学部で発見されたモーナ・ルーダオの遺骨が霧社に還り、抗日記念碑の背後に埋葬された。このときの仁愛郷長はオビン・タダオとダッキス・ナウイ(花岡二郎)の息子であるアウイ・ダッキス(中山初男・高光華)であった。
「モーナ・ルーダオ精神不死」は1990年代の原住民権利運動のスローガンとなった。1997年にモーナ・ルーダオの銅像が抗日記念碑園区内に建立された。
1990年10月の原住民権利運動の行進で掲げられた「モーナ・ルーダオ精神不死」のスローガン。
2004年、モーナ・ルーダオの銅像前で開催された原住民主権をアピールする集会。
清流部落「余生記念碑」。
1950年、仁愛郷郷長の高永清は霧社事件での先人の偉業を称え、生き残った者たちを記念するため、「余生記念碑」を、川中島神社の跡地に建立した。
台湾最小の記念碑。
川中島神社時代の石灯籠が記念碑の両脇に立つ。毎年5月6日に碑の前で川中島への移住以後をしのぶ祭りが開かれる。
霧社事件の発掘と問題提起。
霧社事件は日本統治時代の歴史的汚点であった。また、セデック族の蜂起は悲壮な歴史の記憶であった。
左は高彩雲(オビン・タダオ、花岡初子、中山初子)。右はモーナ・ルーダオの長女マホン・モーナの養女ルビ・マホン(張呈妹)。婿のパーワン・ネヨン(劉忠仁)。ルビ・マホンは霧社三美人で知られるバカン・ワリスの娘。
霧社事件の取材を受ける生き残りの人々。
ルビ・パワン(黄阿笑)、テワス・パワン(伝阿有)、タダオ・ワリス(温克成)、バカン・ワリス(邱宝秀)、パワン・ナウイPawan Nawi(祭茂琳)。