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読書メモ 「日本人の源流――核DNA解析でたどる」(斎藤成也著) その2

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『日本人の源流――核DNA解析でたどる』(斎藤成也著、2017年)
 
5章「ヤマト人のうちなる二重構造」
関東地方の人たちのほうが出雲地方の人たちよりも大陸の人びとに遺伝的に近く、出雲地方の人たちは東北地方の人たちと似ていることがわかった。
著者は、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説『砂の器』を思い出した。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは否定できない。
なお、解析によれば、東北地方の人々にはアイヌ人のDNAはほとんど伝わっていない。現代東北人はエミシの子孫であり、エミシはアイヌ人の祖先集団が北海道に移ったあとに広がったと考えられる。
渡来人は博多から近畿・東海から関東へ進んだ。
 
ヤポネシアへの三段階渡来モデル。
第一段階は、約4万年前~約4400年前(ヤポネシアの旧石器時代から縄文時代の中期まで)。
第一波の渡来民は、ユーラシアのいろいろな地域からさまざまな年代に、日本列島の南部、中央部、北部の全体にわたってやってきた。北から、千島列島、樺太島、朝鮮半島、東アジア中央部、台湾からというルートが考えられる。
 
主要な渡来人は、現在の東ユーラシアに住んでいる人々とは大きくDNAが異なる系統の人々だったが、彼らの起源はまだ謎である。途中、採集狩猟段階にもかかわらず、16000年ほど前には縄文式土器の作製が始まり、歴史区分としては縄文時代が始まった。しかしこのモデルでは、ヤポネシアに居住していた人間は旧石器時代から連続していたと仮定している。
 
第二段階は、約4400年前~約3000年前(縄文時代の後期と晩期)である。
日本列島の中央部に、第二の渡来民の波があった。彼らの起源の地ははっきりしないが、朝鮮半島、遼東半島、山東半島にかこまれた沿岸域およびその周辺の『海の民』だった可能性がある。
彼らは漁労を主とした採集狩猟民だったのか、あるいは園耕民(農耕だけでなく、採集狩猟も生業にしている人々)だったかもしれない。
以下に登場する第三段階の、農耕民である渡来人とは、第一段階の渡来人に比べると、ずっと遺伝的に近縁だった。第二波渡来民の子孫は、日本列島の中央部の南部において、第一波渡来民の子孫と混血しながら、すこしずつ人口が増えていった。一方、日本列島の中央部の北側地域と日本列島の北部および南部では、第二波の渡来民の影響はほとんどなかった。
 
第三段階前半は、約3000年前~約1700年前(弥生時代)である。
弥生時代にはいると、朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から、第二波渡来民と遺伝的に近いがすこし異なる第三波の渡来民が日本列島に到来し、水田稲作などの技術を導入した。彼らとその子孫は、日本列島中央部の中心軸にもっぱら沿って東に居住域を拡大し、急速に人口が増えていった。日本列島中央部中心軸の周辺では、第三波の渡来民およびその子孫との混血の程度がすくなく、第二波の渡来民のDNAがより濃く残っていった。日本列島の南部(南西諸島)と北部(北海道以北)および中央部の北部では、第三波渡来民の影響はほとんどなかった。
 
第三段階後半は、約1700年前~現在(古墳時代以降)である。
第三波の渡来民が、ひきつづき朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から移住した。日本列島中央部の政治の中止が九州北部から現在の近畿地方に移り、現在の上海周辺にあたる地域からも少数ながら渡来民が来るようになった。
それまで東北地方に居住していた第一波の渡来民の子孫は、古墳時代に大部分が北海道に移っていった。その空白を埋めるようにして、第二波渡来民の子孫を中心とする人々が北上して東北地方に居住した。
日本列島南部では、グスク時代の前後に、おもに九州南部から、第二波渡来人のゲノムをおもに受け継いだヤマト人の集団が多数移住し、さらに江戸時代以降には第三波の渡来民系の人々もくわわって、現在のオキナワ人が形成された。
日本列島北部では、古墳時代から平安時代にかけて、北海道の北部に渡来したオホーツク文化人と第一波渡来民の子孫のあいだの遺伝的交流があり、アイヌ人が形成された。江戸時代以降は、アイヌ人とヤマト人との混血が進んだ」。
 
日本列島人を大きく捉えると、北部のアイヌ人と南部のオキナワ人には、中央部のヤマト人と異なる共通性が残っており、この部分は、新・旧二つの渡来の波で日本列島人の成立を説明しようとした「二重構造モデル」と同一である。
著者のモデルが新しいのは、弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだ。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在しているという。
 
著者は、第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」という。
 
西日本縄文人。大陸渡来人との混血は9000年前~3000年前から始まる。
 
6章「多様な手法による源流さがし」
Y染色体の系統からのアプローチ。
D系統。アイヌ人88%、オキナワ人56%、ヤマト人30%。周辺の集団には存在しない。
O系統。アイヌ人0%、オキナワ人38%、ヤマト人50%以上。東アジア、東南アジアに多い。
出アフリカの前後に分岐したD系統はチベット人にもあり、チベット人は韓国人よりもヤマト人に近縁。アンダマン諸島人にもある。縄文人の祖先がきわめて特異な集団であると示す。
 
ミトコンドリアDNAの系統からのアプローチ。
ヤマト人で19%と最も頻度が高いのはD4系統。水田稲作を導入した弥生時代以降の渡来人。
ヤマト人で7%と次に頻度が高いM7a系統は、アイヌ人とオキナワ人で10%を超えている。アジアではフィリピン人の6%。東北縄文人は30%なので、この系統は縄文人から受け継いだ可能性がある。
 
 
文化講演会「日本列島人はどこから来たのか~先端科学DNA解析でさぐる」。
2018422日講演。813日まで聴取可能。
 
スンダランド人から東アジア人が生まれた。ユーラシア経由・北方経由説は否定されつつある。
2万年前の沖縄の港川人はスンダランド人と思われる。
 
三貫地縄文人のDNA。アマゾンの原住民(スルイ人、カリティアーナ人)の方が中国北方人より近縁。
旧石器時代の始まり、縄文人がアメリカ先住民と約4万年前に分岐した年代と適合。
Y染色体D系統も同じ。
 
礼文島船泊遺跡(約38003500年前)。縄文人女性。ゲノムDNA解析。皮膚黒い。髪毛チリチリ。身長が低い。ネグリト(スンダランド人)と身体的特徴と同じ。
ゲノムDNA。縄文人は、ウルチ人、カンボジア人と近縁。系統樹では、韓国人よりも台湾の原住民族が近縁。
 
出雲人。韓国人より東北人の方が近縁。薩摩人、オキナワ人とも近縁。
うちなる二重構造。第2波の移住民。
 
(斎藤氏の別講演から) 
東アジア集団の遺伝的関係。
ヤマト人に遺伝的に近い民族は、まず地理的に近い韓国人、次に中国北部の少数民族(ホジェン、ダウール、オロチョン、モンゴル)、それから中国南部の少数民族(トウー、ナシ、イ)が北京・台湾・上海の漢民族よりも若干近い。漢民族は北京、台湾、上海で遺伝的に大きく異なり多様性がある。
 
また、中国の方言の研究では、広東語、北京語、上海語があたかもフランス語、イタリア語、スペイン語に対応するかあるいはもっと異なり、中国語は存在せず、漢字でまとまったに過ぎないという結論を出す予定である。
 
父方と母方のすべてのDNAを調べることができるが、男性でも女性でも父方・母方からそれぞれのゲノムをもらっており、それぞれに親がいるので我々には、4人の祖父母、8人の曽祖父母、16人、32人、64128…と2の倍数の先祖がいる。親からもらう染色体は22本の常染色体とX又はYの性染色体で23本、合計46本である。XXが女性、XYが男性だが、男性のY染色体は父親から、父親のY染色体はその父親からと、Y染色体は父系からしか伝わらない。
 
これを素晴らしいことのように言う人がいるが、Y染色体には重要な遺伝子は少なく、Y染色体を先祖から伝え持っていても大したことではない。家系を5世代遡ると25乗、32人の先祖がいて、その中の一人の遺伝子は確かに伝わっているが、32分の1だけが伝わっているに過ぎず、他人のようなものだ。また、ミトコンドリアも母系にしか伝わらないが、同様に大勢の祖先の中の一人のものが伝わっているに過ぎない。

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